第12回『怒りを管理する方法/悲しみを処理する方法』
第12章「怒りと悲しみ」
確かに、起こってしまったものは、もう取り消すことはできません。でも、だから一生苦しいのかといえば、そうではないようです。
今まで書いてきたことを考えると、そこには「誤解」があることが分かります。悪くないのに、自分が悪いと思い込んでいる。持たないでいい罪悪感を持ち続けている。責めなくてもいいのに、自分を責めている。これらを取り除くだけでも、ずいぶん負担は軽減できそう。
第12章から扱うのが、「感情」です。デリケートで、扱うのが難しい部分。そして、毒になる親によって傷つけられ続けているので、かなり過敏になっていることが予想されます。なので、取り組み方が難しい。
(1) 進めねばならない ⇔ けれども、急ぎすぎると逆効果になることも。
(2) 自分の感情と正直に向き合う必要がある ⇔ でも、それは、つらいこと。
(3) 気分が沈んだり、落ち着きがなくなったり、不安が増すなどしたら、休んだ方がいい ⇔ でも、ずっと休みっぱなしだと困る。
一番いいのは、資格を持ったカウンセラー等の専門家と、共にやるのがいいようです。
<責任の所在に対する修正>
既に書いて来たことですが、親の気分や感情について、小さい子が責任を持つことはありません。これはむしろ逆で、親が、子どもの気分や感情について、責任を持たねばならないのです。小さな子を養育する義務があるのは大人であり、子どもが親を養育する義務を負わされるなんてことは、ありません。
なので、まず、「自分が悪い」「自分に責任がある」「親に申し訳ないことをした」。これらの誤認識を、修正していくことになります。何度も書きますが、そして当たり前のことですが、子を負うのは親であり、小さい子が親を負う義務など、ないのです。
P236で作者のスーザン・フォワードさんは、こんな方法を紹介してくれています。それは、子ども時代の自分に話しかけること。「きみには……についての責任はない」と、幼い自分に教えてあげるのです。
そして、「……」の部分には、このような言葉が入るのだという。
(1) 親に顧みられなかったこと、放置されたこと、粗末に扱われたこと。
(2) 親に愛されてないと感じたこと。
(3) 親から思いやりのない言葉でからかわれたこと。
(4) 親からひどい言葉で罵られたこと。
(5) 親自身が不幸であること。
(6) 親が自分自身で抱え込んでいる問題。
(7) 親が自分の問題について何もしなかったこと。
(8) 親がアルコール中毒であること。
(9) 親が酔ってしたこと。
(10) 親が暴力を振るったこと。
別に、このリストにこだわることはありません。現在の自分が、小さかった自分に 言いたかったことを、今言えばいいだけです。なので、自分の言葉で、つけ加えていい。
「きみには……についての責任はない」に十分に慣れたら、次は責任の所在をしっかりと認識する練習をします。すなわち、「親は……についての責任がある」と声に出して言う練習をするのです。
毒になる親を持った人は、以上のようなことを「思えない」ような心の癖がついています。それをこれによって、修正していくというわけ。考え自体は感情の抵抗を受け、なかなか変えられないのですが、実際に口に出すことで、だんだんと修正していきます。
<悪意や悪気の問題>
こういう修正を行う際に問題になるのが、「悪気はなかったはずだ」とか「悪意はないだろう」という考えです。でも、それは、的外れな議論であると、スーザン・フォワードさんは言います。
「悪気はなかった」「悪意はない」「仕方がなかった」「事情がある」、これらを否定する気はありません。むしろ、そうなんだろうとさえ思います。ただ、結論からいれば、「だから何なんですか?」ということ。
悪気はないけど、子どもに負担をかけます。悪意はないけど、子どもを苦しめます。それも、何度でも続けます。こんなこと、受け容れられるはずないですよね。事情があったんだから何をされても仕方ない。そんなこと言われても、ねえ。
悪気や悪意は、この際、関係ありません。当たり前ですが、子どもには負担をかけない方がいいし、できるだけ苦しめない方がいい。何をしてもいいなんてことは、ありません。
何より、それで子どもが自分を悪者にしたり、罪悪感を持ったり、そういうことはしなくていいんです。
というわけで、悪意や悪気の問題は、論じる必要さえないということになります。
<怒りを管理する方法>
ネガティブに捉えられがちな感情、それが「怒り」です。多くの人は感情をコントロールしようとするし、怒りは特に抑制しようとするでしょう。怒りにより自我のコントロールが乱されるのを、何よりも怖れます。
しかし、忘れてはならないことがあります。それは、あまりに怒りの感情を抑圧することは、その後の爆発などの問題を招きがちなこと。つまり、怒りを抑えつけることで、更なる怒りを蓄積することになっているのです。怒りを抑えつけることで、怒りやすくなっていると言ってもいい。
そもそも、怒り、怒ることは、悪いことなのでしょうか?
小さい子や赤ちゃんが怒りを表すのは、どんな時だと思います? それは、お腹が空いていたり、疲れた時。何らかの痛みがある時や、眠い時。こんな時に怒りを表すことは、罪でしょうか? (ちなみに、周囲のマネ、模倣行動としても、怒るそうです)
では、もう少し大きくなったら、どうでしょう? 他人から強い干渉を受けた時、自分のものが奪われたり台無しにされた時、自尊心を傷つけられた時、何らかの暴力を加えられた時、ひどいことをされた時。これらの時に怒りを表すことは、罪でしょうか?
そしてまさにその逆、怒らせるようなことをしているのは、誰でしょうか?
毒になる親を持った子どもは、怒ることが苦手になるという(もちろん、全部が全部そうだというわけではありませんが)。では、なぜ、そうなるのでしょう? それは、怒りを表現することを禁じられてきたから。それがいかに罪なことであるか――言葉に出すか出さないかは別にして ―― そう教え込まれてきたから。
なので、毒になる親を持った子どもは、怒りに対し、以下のような扱い方をするようになるといいます。
(1) 怒りを抑圧し、意識しないようにする。その結果として、うつ病や身体的症状に苦しむ。
(2) 怒りが、宗教的な精神、受難や犠牲へと転換されている。(仕方ないんだという考え方)
(3) やけ食いや享楽などで、怒りの感情をマヒさせようとする。
(4) 事あるごとに怒りを爆発させ、いつも緊張し、欲求不満状態に陥り、何かと人と口論する。
この内、(4)は一見 怒っているように見えますが、肝心な人に怒っているわけではありません。むしろ、肝心な人に怒れないので、他の人に怒っている状態。(1)〜(4) これらはすべて、「ちゃんと怒れないことで、どこかに問題を抱えることになっている」といってもいいようなことです。
つまり、怒らないことで、別のたいへんな問題を抱える結果になっているのです。
いや、別に、さあ怒りないさいと言っているのではありません。そうではなくて、なんというか、「溜まっているマグマは外に出さないと、いつか爆発しますよ」といった感じ。怖いのは「大爆発」であって、そうさせないためにも、「マグマをうまく外に出す方法」が求められているわけです。
第12章(P241)では、幾つかの怒りを管理する方法が紹介されています。
(1) 怒りを否定せず、怒ることを赦(ゆる)してあげる。
「怒ってもいいんだよ」と、自分を赦してあげる。喜怒哀楽、それぞれに優劣はなくて、また正しいも間違いもなくて、「ただそこにそれはある」といったもの。あるいは、「自然に湧きあがるもの」。それらは、人間が当たり前に持つもので、人間である証拠です。
しかもそれは、「あなたにとって何か重要なことを知らせてくれるシグナルでもある(P241)」と、スーザン・フォワードさんは教えてくれています。
怒るだけのことを、されたのではないか? 傷つけられたのではないか? 踏みにじられたのではないか? 何かをされたり、あるいは、何かをしてもらえなかったりしたのではないか?
そして、「怒りは何かが変わらなくてはならないことを常に意味している」ともいう。
(2) 怒りは溜め込まず、外に出した方がいい。
人が怖れるのは、怒りそのものではなくて、怒り方なんですね。無茶をしてしまわないか? 誰かを傷つけてしまわないか? 乱暴を働いてしまわないか? これらは怒りそのものではなくて、怒り方の一形態 ―― それも、いわば、悪い怒り方 ―― なのです。
ということは、避けるべきは怒ることではなくて、悪い怒り方をしないことだということが分かります。
だいたい、怒らないがためにそのエネルギーが別の方向に使われ、無茶をしてしまったり、他の誰かを傷つけたりと、本来避けているはずのことをしてしまうわけですから。これは怒ってないというよりは、別の方向に怒りをぶつけているだけ。しかも、核心に変化がないから、怒りは解消されません。
本で紹介されている怒り方は、枕を思いっ切り叩くこと、相手の写真に向かって訴えること、車の中や家でひとりでいる時など(大丈夫な時に)大声を出すなど。ともかく怒りを溜め込まないで、外に出す。
これらはすべて代替え行為ですが、怒りを発散させるという意味で、効果があるといいます。根本的な解決ではありませんが、溜め込まないということに意味がある。怒りは外に出すことでしか処理できないのです。
(3) 体を動かす。
スポーツや運動などで体を動かすことにも、意味があるという。体や筋肉をほぐすと同時に、心や怒りまでも ほぐしていきます。また、動いている間はあまり考えないですむ、という効能もありそう。
(4) ネガティブな自己像を拡大しない。
怒ることに罪悪感を持ちがちなので、それに気をつける。前述のように、自分に対し、怒ることを赦してあげましょう。そうなるだけのことをされれば、人は誰でも怒るのです。
(5) 怒りをうまく使うことを覚える。
怒りは、いろんなことを教えてくれる。それと向き合えば、物事をハッキリとさせてくれます。逆にいえば、怒りと向き合わないから いろんなものがハッキリせず、悩んだり、傷ついたり、他に犠牲者を出したりもしてしまう。
また、許容範囲というものも、教えてくれるという。どこまでは赦せるのか? どこからは赦せないのか? 怒りによって、思い込みを越えた 親との関係が見えてくるともいえます。
それに、怒りは、不快からの脱出を助けるエネルギーという一面もあるでしょう。怒りを素直に認め、何に対して怒っているのか見つめることができれば、自分が何に対してたまらない気持になっているのかが分かり、やがてはそれに対処する方法も見えてくるはず。
確かに、相手を変えることは無理かもしれない。でも、自分を保護することは可能です。自分を傷つける人間から離れることは、大事な保護だといえるのです。
やさしい人ほど、怒ることをためらいます。そして、やさしくない人は、自らは常習的に怒りながら、やさしい心につけ込み、怒ることに罪悪感を懐かせようとする。そしてこういった布置もまた、より怒りの感情を湧かせる要因となります。
怒りは、個人の価値観や信条においても、また社会通念上においても、文化や宗教的な考え方においても、できたら避けた方がいいこと、我慢した方がいいことと、されがちです。でも、ようく考えると、そこには「程度」というものがあるのではないでしょうか?
避けられるなら避けた方がいいとか、我慢できるなら我慢した方がいいとか、そういった感じ。つまり、程度を越えるなら、また話は別なのです。
<悲しみを処理する方法>
怒りの次は、悲しみです。
悲しみを生み出すのは、不幸や失敗の経験。しかもそれは、自分のものだったり、他人のものだったり。また、それは過ぎ去ったものを思い出して生じることもあれば、まだ来ぬ未来を予見して生じることも。
本では悲しみを、「何かを失った時に生じる感情」として説明しています。
では、何を失ったのか?
(1) いい気分でいられる状態。
(2) 安心感
(3) 信頼感
(4) 喜び、自然でいられる状態
(5) 子どものことを尊重してくれる大人
(6) 楽しい子ども時代
(7) 無邪気さ
(8) 愛情
人は悲しみを避けようとするので、結果として、「自分が何を失くしたのか?」、それを忘れてしまいます。いろんなことを忘れ、見ようとはせず、それで自我を維持しようとする。
でも、それは無理な話です。いつかは、崩れ去ることになる。
怒りと同じで、悲しみもまた、それが処理されるまで、残り続けます。初めは無視できても、たくさん溜まってきたら、もう無視できなくなる。
十分に悲しまない限り、癒されることはありません。
本では、「嘆き悲しむプロセス」を以下のように説明してくれています(P246)。
(1) 「ショック」
(2) 「激しい怒り」
(3) 「信じられないという気持ち」
(4) 「悲しみ」
原因となる出来事に触れショックを受け、そこから激しく怒り、信じられないという気持ちになり、それから悲しむ。
人間は怒るのをタブーとするように、嘆き悲しむことも躊躇しがちだという。特に男性は、悲しむことをよしとしない傾向がある(文化的背景などにもよりますが)。
なので、スーザン・フォワードさんは、嘆き悲しむ練習をすることを勧めています。それは、「強がらずに事実を認め、受け入れること」から始る。
・(このままでいても)いつか幸せになれるという幻想を捨てる。
・親を変えられるという幻想を捨てる。
・幻想に別れを告げ、今まであったことを振り返り、深く悲しむ。
これらを、自分の言葉で口にします。防衛を捨て去り、素直に認める。自分の中にいる傷ついた子どもを保護するために、その子の気持ちを解放してあげる。
悲しみは、波に似ているという。大きな悲しみは、まるで大きな波のように、押し寄せてくるかもしれない。悲しみだけでなく、怒りも、同じようなことが言えそうです。悲しみや怒りは時に、嵐のような状態を作り出すかもしれません。
でも、他にも、波に似た性質がありそうです。海は、時化(しけ)る時があります。でも、ずっと荒れた状態が続くわけではありません。やがては、凪(なぎ)の時になります。穏やかに、おさまってくる。
そこにあるものを認めない限り、それは続きます。そして、永遠であるかのような錯覚さえ起こしてしまう。でも、そこにあるものを認め、感情を自然に動かした時、話は違ってくるのです。
きっと、嵐のような状態には なるでしょう。でもそれは、永久に続くものではありません。感情というものは、出せば流れるのです。荒れるのは、今までフタをしていたから。行く先を、ふさいでいたから。だから初めは、勢いよく出てしまいます。
でも、かなりのものが出てくれば、それはおさまってくるのが自然です。短いスパンでは驚くほど荒れたとしても、その後は落ち着くものです。つまり、出したからこそ、穏やかにもなれるというわけ。一時的に荒れるからこそ、静まることができるのです。
あなたは、嘆くことをポジティブじゃないと思うかもしれない。でも、上のようなことを考えれば、ちゃんと嘆き悲しむことでこそ、後にポジティブになれるということになるでしょう。
この章の最後に作者は、「今は大人である人」の責任について触れています。
ここには混同を避けるための、場合分けがあります。
(a) 子どもとしては、被害者である。
子ども時代の不幸の責任を負うことはない。責任を負うのは、親である。
(b) 今 大人である分の責任は、負わねばならない。
これを踏まえて、本では、9つの責任について触れられています。
(1) 親から独立したひとりの人間になること。
(2) 親との関係を正直に見つめること。
(3) 子ども時代について、目をそらさずに、ありのままを見つめること。
(4) 子ども時代と今とのつながりについて、認める勇気を持つこと。
(5) 親に対して 本当の感情を表現する 勇気を持つこと。
(6) 親の支配力と対決し、減少させること。
(7) 自分が他人にひどいことをしていたら、それを改めること。
(8) 親に負わされた傷を癒すため、サポートしてくれる人を見つけること。
(9) 大人としての自分の力と自信を取り戻すこと。
(1) 親から独立したひとりの人間になること。
親に人生を絡め取られないこと。親のための犠牲にならないこと。
(2) 親との関係を正直に見つめること。
だんだんと防衛をゆるめ、関係をちゃんと認識すること。
(3) 子ども時代について、目をそらさずに、ありのままを見つめること。
「悲しいけどあったんだ」と認めること。
(4) 子ども時代と今とのつながりについて、認める勇気を持つこと。
それらが今の生活にも影響を及ぼしていることを、認識する。
(5) 親に対して 本当の感情を表現する 勇気を持つこと。
怒り、悲しみ、憤りなどを、過度の我慢を捨て、表現する。
(6) 親の支配力と対決し、減少させること。
永遠の犠牲者には、留まらない。自分の人生をとり戻す。
(7) 自分が他人にひどいことをしていたら、それを改めること。
怒りや悲しみを抑圧していると、他の人にぶつけてしまうことがあります。それを止め、怒りや悲しみは、本来の相手にぶつける。無関係な犠牲者は出さない。
(8) 親に負わされた傷を癒すため、サポートしてくれる人を見つけること。
できれば、ひとりでは抱え込まずに、援助してくれる人を見つける。
(9) 大人としての自分の力と自信を取り戻すこと。
自分の人生をとり戻すことが、最終目標です。
これらは、一足飛びに達成されるものではありません。むしろ、揺れたり後戻りして、当たり前。
すぐにできるとか、完璧に行うことは期待せず、少しずつ、着実に、進みましょう。
一歩でも進めれば、御の字。
一歩一歩の積み重ねが、道になります。
次回に続く…
<チェックシート>
・すべてを自分のせいだと思ってないか?
・(罪悪感があるなら)自分が悪いことを証明できますか?
・怒りを怖れてないか?
・怒りを外に出しているか?
・安心できる空間がありますか?
(それは本当か、疑ってみる)
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