長いこと生きていると、何かしら問題が生じるものです。性格を持つということは何かしらの偏りを持つということでもあるので、どうしてもバランスの悪さを生んでしまいがちです。
何かを好んでするということは、別の何かには手つかずだということ。なので誰しも、「欠けた何か」を持つことになってしまいます。何かに熟練する人も、別の何かには不慣れ。何かに一生懸命な人も、別の何かには無関心だったりする。
また、そんな自分に気づきにくいのが、人間です。犠牲や問題が出ていても、同じことを繰り返してしまう。
なので、人はある時期、「気づき」を必要とすることになります。「あっ!」と気づき、思い直して、考え方、人生、態度や行動、生き方などを、修正していく。そのひとつの方法として、「過去を振り返る」というのも含まれるのでしょう。
フレデリック・パールズが始めた「ゲシュタルト療法」は、過去の出来事や原因は問いません。そうではなくて、「今・ここ」を重視する。
過去の経験から気づきを得るのではなく、今ここにある感情や身体体験を通して、心と体を含めた自己に気づいていきます。そうやって、人格の統合性や全体性の回復を図るんですね。
このように、ゲシュタルト療法で手がかりにするのは、今ここにある自分。心と身体を含めた、自分の全体。それらから逃げることなく受け止めることで、気づきや創造を導き出そうという試みです。あるいは、分離していた心と身体を一致させ、本来持っていた「その人らしさ」を回復しようという試み。
そうやって自分を確立させると共に、(確立した)他者を尊重します。
(以上、2013年5月14日 追加分)
ゲシュタルト療法とは、成熟した人間像の確立を目指したもので、「成熟した人間というものは、自分らしく行動することができ、自分らしく生きることができる人格の持ち主である」という考えから成り立っています。
ということは、逆に、「未成熟な人間とは、自分の意見を言ったり、感情を表現するのが苦手で、そもそも自分の気持ちがよく分からない、そんな自分に悩んでしまう――そのような人格の持ち主」となるでしょうか。
それだから悪いということではありませんが、それ故に困ってしまうということはありそう。「自分らしく」というのは、自分を殺しがちな日本文化にとって、これから重要になる課題だと思います。
何らかの要因によって、目詰まりが起こっており、「今」を生きることができないでいる、今ここにある自分を感じることができないでいる、そういうことは そこかしこでありそうです。
目詰まりにより、先に進めず、過去に生きていたり、縛られていたり、故に今を生きられず、堂々巡りを繰り返してしまったり、「何故?」にこだわるあまり、「今」の感情、「今」の自分に起こっていることを、感じ取れなくなったり、そういうこともあるかもしれません。
☆
・自分の思っていることを、なかなか人に伝えられない。
・嫌なことを嫌と言えない。
・知らず知らず、自分の感情を殺してしまう。
・それ以前に、自分の本当の感情が分からない。
――こういう人は、意外と多いみたいですね。
エゴグラムなどの心理検査で、それを知る人もいるでしょうか。自己中心的な行為が嫌われる日本の土壌では、どうしてもFC(自由な子ども)的な傾向は抑えられがちなのかもしれません。
自分の感情をストレートに表現できない。その根底として、以下のようなものがあるのかもしれません。
・今の自分はどんな状態なのか?
・今何をしているのか?
・今何を感じているのか?
・悲しいのか? 愉快なのか? つらいのか?
・今の自分に何が起こっているのか?
それらがどうも分からない。(改めて考えると、分からない。感じ取れない)
そんな状態から、目詰まりを取り除いて(あるいは目詰まり関係無しに)、今を生きてやろう、今を感じてやろう、そして成熟した状態へと変容しよう、というのが、『ゲシュタルト療法』の試みです。
過去に生きるのではなく、今を生きようとする。過去に囚われるのではなく、今を感じる。今までのパターンや、無限の環というものを打破するために、今を感じてやろう、今を体験してやろうとする、そういう試み。
今ある自分から、多くを知ります。
☆
成熟した人格の持ち主は、はっきりと自分の意思を伝えることができます。これは何も「ずけずけものを言う」ということではありません。相手に配慮した上で、自分の意思を示したり、自分を表現することができる。
一方、気持ちを伝えるのが苦手な人は、相手の気持ちを考えすぎたり、場の雰囲気を気にしすぎたり、そうやって自分の感情まで殺してしまいがちです。ある意味、自分殺しでしょうか? 感情を殺し、自ら人形のようになっているのかもしれません。
社会で生きる以上、このような気遣いもある程度は大切ですが、あまりに自分の感情を抑えすぎたり、更に進んで、自分自身というものまで殺してしまっては、生きた心地がしません。自分を、自分の存在を、世に示すこともできません。これではまるで、生きているのか死んでいるのか分かりません。
それに、自分を殺し我慢する人は、意外と配慮に欠けたことをしがちだったりする。いつも我慢しているのでエアポケットができたり、いつも我慢しているのだからと 間の悪い発言をしてしまうことも。(「我慢しているのに勝手だと言われる/河合隼雄文庫 」参照)。
それよりは、自分自身のことも、周囲のことも、承知した上で、
・自分の気持ちを相手に伝えられたり、
・自分の気持ちを自分で感じられたり、
・心(無意識)の要求を知った上で、何をするか判断したり、
そうやって、「自分らしく生きる」方が気が利いているようですね。
このように、「自分の気持ちを知り、自分らしく行動できるようになること、自分らしく生きること」がゲシュタルト療法的な生き方。(ある意味、「私は生きてるよ〜」と叫ぶことでもあるのかもしれません。叫ぶ→示す、表現する)
その為にも、「今」というものを感じ、生きる、体験していくんですね。
☆
ゲシュタルト療法の目的は、「その人の人格の持続的な成長・成熟」です。
したがって、これは心理的な病気や症状の治療としても有効であるし、病気というほどではないけれど悩んでいる人、自分の人格を成長させたい人、人間的に成熟したい人、それらの人にも有効。
また、息苦しさを感じていたり、何らかの閉塞感を感じていたり、そういう人のヒントにもなるかもしれません。
何かを好んでするということは、別の何かには手つかずだということ。なので誰しも、「欠けた何か」を持つことになってしまいます。何かに熟練する人も、別の何かには不慣れ。何かに一生懸命な人も、別の何かには無関心だったりする。
また、そんな自分に気づきにくいのが、人間です。犠牲や問題が出ていても、同じことを繰り返してしまう。
なので、人はある時期、「気づき」を必要とすることになります。「あっ!」と気づき、思い直して、考え方、人生、態度や行動、生き方などを、修正していく。そのひとつの方法として、「過去を振り返る」というのも含まれるのでしょう。
フレデリック・パールズが始めた「ゲシュタルト療法」は、過去の出来事や原因は問いません。そうではなくて、「今・ここ」を重視する。
過去の経験から気づきを得るのではなく、今ここにある感情や身体体験を通して、心と体を含めた自己に気づいていきます。そうやって、人格の統合性や全体性の回復を図るんですね。
このように、ゲシュタルト療法で手がかりにするのは、今ここにある自分。心と身体を含めた、自分の全体。それらから逃げることなく受け止めることで、気づきや創造を導き出そうという試みです。あるいは、分離していた心と身体を一致させ、本来持っていた「その人らしさ」を回復しようという試み。
そうやって自分を確立させると共に、(確立した)他者を尊重します。
(以上、2013年5月14日 追加分)
ゲシュタルト療法とは、成熟した人間像の確立を目指したもので、「成熟した人間というものは、自分らしく行動することができ、自分らしく生きることができる人格の持ち主である」という考えから成り立っています。
ということは、逆に、「未成熟な人間とは、自分の意見を言ったり、感情を表現するのが苦手で、そもそも自分の気持ちがよく分からない、そんな自分に悩んでしまう――そのような人格の持ち主」となるでしょうか。
それだから悪いということではありませんが、それ故に困ってしまうということはありそう。「自分らしく」というのは、自分を殺しがちな日本文化にとって、これから重要になる課題だと思います。
何らかの要因によって、目詰まりが起こっており、「今」を生きることができないでいる、今ここにある自分を感じることができないでいる、そういうことは そこかしこでありそうです。
目詰まりにより、先に進めず、過去に生きていたり、縛られていたり、故に今を生きられず、堂々巡りを繰り返してしまったり、「何故?」にこだわるあまり、「今」の感情、「今」の自分に起こっていることを、感じ取れなくなったり、そういうこともあるかもしれません。
☆
・自分の思っていることを、なかなか人に伝えられない。
・嫌なことを嫌と言えない。
・知らず知らず、自分の感情を殺してしまう。
・それ以前に、自分の本当の感情が分からない。
――こういう人は、意外と多いみたいですね。
エゴグラムなどの心理検査で、それを知る人もいるでしょうか。自己中心的な行為が嫌われる日本の土壌では、どうしてもFC(自由な子ども)的な傾向は抑えられがちなのかもしれません。
自分の感情をストレートに表現できない。その根底として、以下のようなものがあるのかもしれません。
・今の自分はどんな状態なのか?
・今何をしているのか?
・今何を感じているのか?
・悲しいのか? 愉快なのか? つらいのか?
・今の自分に何が起こっているのか?
それらがどうも分からない。(改めて考えると、分からない。感じ取れない)
そんな状態から、目詰まりを取り除いて(あるいは目詰まり関係無しに)、今を生きてやろう、今を感じてやろう、そして成熟した状態へと変容しよう、というのが、『ゲシュタルト療法』の試みです。
過去に生きるのではなく、今を生きようとする。過去に囚われるのではなく、今を感じる。今までのパターンや、無限の環というものを打破するために、今を感じてやろう、今を体験してやろうとする、そういう試み。
今ある自分から、多くを知ります。
☆
成熟した人格の持ち主は、はっきりと自分の意思を伝えることができます。これは何も「ずけずけものを言う」ということではありません。相手に配慮した上で、自分の意思を示したり、自分を表現することができる。
一方、気持ちを伝えるのが苦手な人は、相手の気持ちを考えすぎたり、場の雰囲気を気にしすぎたり、そうやって自分の感情まで殺してしまいがちです。ある意味、自分殺しでしょうか? 感情を殺し、自ら人形のようになっているのかもしれません。
社会で生きる以上、このような気遣いもある程度は大切ですが、あまりに自分の感情を抑えすぎたり、更に進んで、自分自身というものまで殺してしまっては、生きた心地がしません。自分を、自分の存在を、世に示すこともできません。これではまるで、生きているのか死んでいるのか分かりません。
それに、自分を殺し我慢する人は、意外と配慮に欠けたことをしがちだったりする。いつも我慢しているのでエアポケットができたり、いつも我慢しているのだからと 間の悪い発言をしてしまうことも。(「我慢しているのに勝手だと言われる/河合隼雄文庫 」参照)。
それよりは、自分自身のことも、周囲のことも、承知した上で、
・自分の気持ちを相手に伝えられたり、
・自分の気持ちを自分で感じられたり、
・心(無意識)の要求を知った上で、何をするか判断したり、
そうやって、「自分らしく生きる」方が気が利いているようですね。
このように、「自分の気持ちを知り、自分らしく行動できるようになること、自分らしく生きること」がゲシュタルト療法的な生き方。(ある意味、「私は生きてるよ〜」と叫ぶことでもあるのかもしれません。叫ぶ→示す、表現する)
その為にも、「今」というものを感じ、生きる、体験していくんですね。
☆
ゲシュタルト療法の目的は、「その人の人格の持続的な成長・成熟」です。
したがって、これは心理的な病気や症状の治療としても有効であるし、病気というほどではないけれど悩んでいる人、自分の人格を成長させたい人、人間的に成熟したい人、それらの人にも有効。
また、息苦しさを感じていたり、何らかの閉塞感を感じていたり、そういう人のヒントにもなるかもしれません。
【全体性(ゲシュタルト)の回復】
ゲシュタルト心理療法は、精神分析医のフレデリック・パールズ(1893〜1970)によって開発され、広められた心理療法。因みに、ゲシュタルトという言葉は、ドイツ語で「全体のかたち」「全体性」という意味をさすそうです。
この「全体性」という言葉が示すように、ゲシュタルト療法には、「自我と肉体の分裂状態からの回復」、「自我と肉体の橋渡し」という意味合いもあるよう。
現代社会に生きる我々は、自我と肉体のつながりを無くしがちです。理性的に生きるあまり本能的要素を殺してしまったり、社会性を優先させるために人間性を殺したり、それゆえにパンクしたり、感情を抑えつけた挙句に抑えきれず爆発させてしまったり、そういうことを繰り返しがちです。
また、方向を変えただけではうまくいかず、今度は身勝手だと言われたり、社会から孤立してしまったりする。
つまり、「どちらか」では、成り立たないのです。片方に偏ると、どっちにしろ不具合が生じる。なので、失った関係を回復するというのは、すごく大事になるんですね。
「理性と本能の分裂や乖離(かいり)」、「自我と肉体の分裂や乖離」、「自分の一部と、自分の全体」「こだわりのある感情と、心の総体」、「(広い意味での)一部と全体」「個と全」、そこに「橋渡し」をつけようとするのが、ゲシュタルト療法の狙いでもあります。
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【ゲシュタルト療法の九原則】
では、具体的に「ゲシュタルト療法の原則」を見ていきましょう。
第一原則:『今に生きる』
・過去に囚われすぎることなく、今を生きようとします。
・未来に対する不安に囚われるばかりでなく、今を感じようとする。
・ともかく、今を生き、噛みしめます。
第二原則:『ここに生きる』
・何かをしているのに、家庭のことや、仕事のこと、
ある特定の物事や人のことばかり考えてしまう、
――そうではなくて、目の前のことと向き合います。
・ともかく、ここに生きる。
第三原則:『想像をやめて、現実的に物事をとらえる』
・悪い想像ばかりして、不安になったり、気が沈んでしまう、
良いことばかりを想像して、実際に行動しない、
――そうではなくて、現実問題と向き合います。
・ともかく、想像をやめて、現実的に物事をとらえる。
第四原則:『考えることより、感じることを選ぶ』
・あれこれ考えるのではなくて、自分が何を感じているかに目を向けます。
(頭で考えた制限をなくして、直接感じたり、味わったりする)
・ともかく、考えるのではなく、感じることを意識し、選ぶ。
第五原則:『判断するよりも、表現する』
・こういう考えは駄目と判断する前に、とりあえず表現してみます。
・いい悪い、好き嫌いではなく、どう感じたかを表現する。
・自分を取り繕ったり、正当化したり、相手を誘導したり、気遣ったり、
――そうではなくて、ありのままの自分を表現する。
(信頼できる相手に表現するのがいいでしょう)
・ともかく、決めるのではなく、表現してみる。
第六原則:『不快な感情も受け入れる』
・嫌なことを避けてばかりではなく、ともかく向き合ってみる。
(そこから見えてくるものも、あるかもしれません)
・否定いしたり逃げたり抑え込むのではなく、受け止める。
・自分は何を感じているのか、それを受け入れるようにする。
第七原則:『権威者を作らない』
・誰かの言うことを盲信してしまう、頼りすぎてしまう、任せすぎてしまう、
――そういう人を作らないようにする。
・絶対的な存在は、作らない。
・誰かにすべてをゆだねるのではなく、ゆだねられる己を育てます。
第八原則:『自分自身に責任を持つ』
・自分のことを棚上げしたり、誰かのせいにするばかりではなく、
自分の言動や態度など、自分のしたことに責任を持ちます。
・人のせいにする癖をやめる。
・自分が選択してるんだという意識を持ち、その責任は自分で負います。
(人に任せるのもまた、選択なのです)
第九原則:『自分自身であろうとする』
・誰かに作られた自分ではなく、ありのままの自分であるようにする。
・誰かをうらやんだり、誰かの真似をしようとするのではなく、自分らしく生きようとする。
・作られた自分と、サヨナラする。
・たった一人のかけがえのない、自分であろうとします。
☆
このように、徹底的に「今」に目を向け、「今」を体験しようとするんですね。それによって、表と裏のギャップを修正する。
何が表で何が裏かというのはともかく、例えば、「表:思っていること」と「裏:していること」とか、「表:思い込もうとしていること」と「裏:内から溢れてくるもの」とか。(こういうのは、どちらが裏で、どちらが表か、捉え方によって違いますが…)
時に、人の意識は偽ろうとしますが、意識ではコントロールできない感情なり何なりは、そのまま現れようとし、それは表情になったり、声になったりして、人間の表面に現れてきます。
それを「今」を感じることで、捉え、いろんなことに気づいていこうというのです。
いきなりこのように生きろといわれても難しいと思いますが、少しずつでも、こういう生き方ができると、いろんな気づきがありそうです。そして、徐々に人間的に成長できるかもしれません。
我々は、過去にこだわったり、今の不幸の原因を探したり、何故? 何故? と、自分や周囲を責めたりしがちですが、それだけでは堂々巡りで何も変わらないようですね。
なので、そんな時は、、「今」や「ここ」、「表現すること」や「ありのままの自分自身」を大切にすることなどで、新たに得るものがあるかもしれません。また、生きるのが楽になる面もあるのではないでしょうか。
特に、過去に囚われすぎて後ろ向きになっているような時は、目詰まりが取れるのかもしれません。あるいは、「今」というものに方向転換することで、見逃していたものに気づくかもしれない。
それにより、より全体を眺められるかもしれませんね。そして、総体としての、自分に落ち着いてゆく。
今は苦手な、「今を感じる」ことや「今を生きる」ことを、少しずつ体験することで、自分というものに気づいていき、つながりを回復し、一番ほしがっていたものに気づき、声に出し、行動して、今まで囚われていた、パターンや環を壊していきます。
ただ、ひとりでは難しいでしょうから、信頼できる人や、専門家と共にやる方がいいかもしれません。
まあ、これらはあくまでヒント、答えはその先です。
私は私のために生きている。
私は誰のために生きているのでもない。
私は誰にもゆだねない。
私は己にこそゆだねる。
あなたはあなたのために生きている。
あなたは誰のために生きているのでもない。
あなたは誰にもゆだねない。
あなたはあなた自身にこそゆだねる。
そんな私だからこそ、あなたのためになり、
そんなあなただからこそ、私のためになる。
今、何をしました?
今、何を感じました?
今、欲しいものはなんですか?
(追記)
このようなことを見ていくと、ゲシュタルト療法には「足場を固める」という意味合いもありそう。
過去を嘆いたり未来を不安視したりするのではなく、今を見つめる。それによって、未来に対処することだってできます。今に一生懸命になれば、過去を嘆くヒマだって、なくなるでしょう。目の前のことと向き合えば、いろいろ考え込むことも、少なくなりそう。
時間は「過去−現在−未来」とつながってますが、より実際的な今を強調することで、認知の歪みを修正します。今はちゃんと確認できるので、修正しやすい。実際に感じる癖さえつけば、悪い予感に悩むこともありません。
表現することは外に出すことなので、目詰まりを解消したり、外とつながりを持つ効果も期待できそう。
人任せにすることをだんだんと止め、したことに責任を持つようにし、そうすることで、自分自身というものが固まり、やがて成熟できそうです。また、成長すれば自然と、自分というものが外に現れていくようになる。
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私は私の為に生き、あなたはあなたの為に生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのなら、それは素晴らしいこと。
出会えなくても、それもまた、素晴らしいこと。
――パールズの言葉――
自然へ…
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