【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは、「ユング心理学の用語」の「元型」「自我」「ペルソナ」についての紹介をしています。


【目次】


ご注意)
この辞典は管理人の私見に彩られたものです。
したがって、これがユング心理学においての通説というものではありません。
有識者の前で自慢げにこの辞典に書かれたような解説を話したなら、大いに笑われたり、冷ややかな視線を送られることが予想されるので、ご注意下さい。
(因みに、当HP内の他のコンテンツも同じです)



「元型」
「自我」
「ペルソナ」

「影」
  @「影」
  A「影」と「ペルソナ」
  B「投影」
  C「もう一つの影」

「コンプレックス」
「劣等感コンプレックス」

「アニマ・アニムス」
「トリックスター」

「個性化/個性化の過程」
「共時性」

無意識 
(2008年02月27日追加)
  個人的無意識
  普遍的無意識

【その他、療法など】
「ゲシュタルト療法」






【元型】



「元型」(Archetype、Archetypus)


「元型」とは、人類が共通して持つ、普遍的な「型」のことです。
我々は無意識の深い領域の中に、この共通の「型」を持っていると仮定されます。

例えば、「母親」を認識する時、我々は実際に知っている母親を認識すると共に、無意識ながら、心の奥の方にある「母なるもの」の元型イメージに触れています。
我々ひとり一人の中に――そのずっと奥のほうに――「母なるもの」の元型があって、それを目の前にいる「母親」(あるいは、それに近しい人)に投影して見ていると共に、その「母親」の中にも、「母なるもの」の元型があって、そういう意味で、我々は二重に、「母なるもの」の元型イメージに触れているわけです。
我々は自身の中にある元型を誰かに投影するし、その誰かは、自身の中の元型を――元型のある部分を――生きていたりするんですね。 また、その逆も然りです。


この「母なるもの」は、人類が共通して持つイメージであって、これに実際の経験(自身の母親と接した経験、近くにいる他の母親と接したり眺めた経験、その社会・文化における母親象など)が加えられ、自我は「母親」というものを総合的に認識します。
つまり、どちらにも左右されるわけです。ある人は実際に経験した母親のイメージに強く影響されるかもしれないし、ある人は潜在的な(元型的な)母親のイメージを強く受け取るかもしれません。また、その両方が重なり合って、混乱したりもするんでしょう。

元型は「普遍的」(=すべてのものに共通)であるものの、自我が認識する際に「個人的無意識」というフィルターを通すため、「普遍的」意味合いを持つと同時に、「個人的」意味合いも持つことになります。
言葉をかえると、無意識の底にある「普遍的なもの」が、現実世界にある「個人的なもの」(個人が見ているもの)を通して現れるので、両方の影響を受けるんですね。
平たく言うと、「すべてのものに共通する」といったものはあまりに広すぎて把握できないので、「経験的に知っている何ものか」というカタチで、自我は把握する。
あるいは、我々の前の「A」は、その奥に、「元型」を持っているのですが、そのあまりにも多様で広大、それでいてある種の傾向を持つ、無意識内の可能性が、この世という我々の現実世界に、顕現可能なカタチをもって、現れてくるわけです。
で、我々は、人間の行動なり態度なりを観察し、その奥に、元型という共通の型を見出すわけですね。おぼろげながら、感じ取る。
あるいは、元型のほうから見た場合、我々の奥の方に眠っている共通の型が――そのままだとあまりにも広大すぎて意識では捉えられないのだけども――目の前にある(その型と共通のエッセンスを持つ)何かを通して、現れたり、つながったりしてくるわけです。
そういうものを、我々はずっと奥のほうに持っているわけです。そして、その一部を何かしらのカタチで、見ている。

したがって、元型自体は普遍的・不変的でありながら、自我が認識するイメージは多分に個人的な色彩に彩られます。(あるいは、その個人が所属する集団や文化の色、時代背景などに彩られます)

例えば、なんだかよく分からない「X」があったとして、今の時代に生きる我々は、それを「A」という風に把握したり、非常に「A」によく似たものと認識するかもしれませんが、他の時代の他の地域に生きている人は、それを別の「B」や「B」によく似たもの、と認識するかもしれない。

同じ傾向を持って、それそのものは普遍・不変なものであっても、それに触れた人の認識は、それぞれで変わってくるわけですね。非常に大きなものは、それのどの部分を見るかによって、印象は変わってきます。例えば、山は、山のどの部分を見たり、どの部分を経験したかによって、随分と印象が変わるでしょ? 海だって、同じですね。このように、大きく広いものは、それのどこに触れるかによって、随分と変わってくるのです。

で、その本来多面的な元型ですが、その内のある面が強く現れるケースもあって、例えば、「母なるもの」の元型の場合、それが「育てる」とか「抱きしめる」といった肯定的な面として現れる場合もあるし、「呑み込む」とか「抱え込む」といった否定的な面として現れる場合もあります。実際、元型はその両方を包含しているんですね。どちらにも、なり得る。

そして、ある種の物体が、見る方向によって姿や印象が変わるのと同じで、元型イメージもまた、見方によって、受け取るイメージは異なってくるわけです。
ある方向から見ると、聖母マリア様のようであり、別の方向から見ると、山姥や魔女みたいだったりする。そういうものを全部ひっくるめての、「母なるもの」なんです。

存在そのものは同じで不変でも、多面性を持つ以上、見る方向や受け取り方で、その印象は、当然違ってくるわけです。また、そのそれぞれの要素や特徴の内の一方(=肯定的な面だったり、否定的な面だったり)が強く発現する、そういう布置もあるんでしょう。

我々は「元型そのもの」を認識することはできません。
元型とは、それくらい深い(無意識の)領域にあり、また、意識ではそのすべてを把握できないほど、多様で広大なものです。
但し、その、未知の「それ」は傾向と要素を持っており、我々はその「それ」と奥でつながり、また同じ傾向と要素を持つ既知の「何か」を通して、「それ」を感じたり、そのイメージを受け取ったりするんですね。
「母なるもの」でいえば、その元型を我々ひとり一人も心の奥に持ち、また、目の前の「母なるもの」の中にも、そのイメージを見出すのです。


というわけで、元型は普遍的な意味を持ち、同時に個人的な意味も持つことになります。
そして、その傾向なり要素は、肯定的な意味も持つし、同時に、否定的な意味も持ったりします。
その「どちらか」ではなくて、その「どちらも」持ち、またその時々で、「どちらか」の要素が強く発現したりもするわけですね。
そういった注意が、元型を扱う場合には必要なわけです。
そして、もうひとつ大事なことは、元型というのは己の中にもある、それを忘れてはいけないのだと思います。

「元型」は無意識の――しかもかなり深い――領域のものです。したがって、自我は、「元型そのもの」を認識することはできません。そもそも次元が違うというかなんというか、その世界の成り立つ構造自体が違うので、こちらのシステムでは、あちらのものを捉えることはできないのでしょう。
自我が捉えるのは、その元型とつながるイメージであって、そのイメージに触れることで、我々は無意識の深い領域にある共通の型を、見出してゆくのです。


ユングは以下のように語っています…

――元型は「遺伝的に継承された観念」ではなく、「継承された機能様式」であって、それはちょうどヒナが卵からかえるような、鳥が巣を作るような、ある種のスズメバチが毛虫の運動神経節を刺すような、あるいはウナギがバミューダ諸島への行き方を見出すような、生得的なやり方に相当する。言い換えれば『行動パターン』である。元型のこの側面、すなわち純粋に生物学的な側面こそが、科学的心理学の本来の課題である――

(ユングが言いたいのは、おそらく、それが共通の「型」であること。つまり、生物学の分類と同じく、経験的に観測できる事実であること、なんでしょう。元型というものは、人間及び人間の内面を、深く、そして正直に、観測した時に確認できる、共通の型だと、言いたいのだと思います。それは各種の欲や本能と同じく、人間に備わっている機能様式なんですね。人間の奥の方にありながら、態度や行動として目に見えるカタチで現れる、そんな様式です)


ユングは、人間が心理的発達、社会的適応していく過程で、それぞれ特別な役割を担う「元型」を仮定しました。
それが、「影」「アニマ」「アニムス」「老賢者」などです。
人間は、その時々の段階で、それらと対決したり、触れ合ったりしながら、成長していくんですね。


関連記事:「やさしいユング心理学 第四章 元型」



関連記事:「元型と集合的無意識/ユング心理学概説(2)」





参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書:「元型」
>ユングの用語。
>本能とともに遺伝的に備わり、集合的無意識を構成する心像の型。
>民族や文化を超えて物語・神話・文芸・儀礼などの主題・モチーフの中に
>繰り返し現れる。太古型。祖型。






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【自我】 



「自我」(ego)


「自我」は幼児の成長過程の初期の段階で、「自己」から分離して生まれるといわれています。はじめ、あやふやだった意識が、やがて、「私」といえるものになっていくんですね。
はじめ、お母さんのお腹の中で純粋な「1」であった存在が(一体化していた存在が)、この世に生まれ出て、いろんな相対する「1」と出会うことで、私自身という「1」を意識していきます。
しかし、「自我」と「自己」は完全に分離するわけではなくて、密接につながっています。
ある見方では、自己は自我を包含しているし、大きな自己の上に自我が(乗っかるカタチで)存在していたりもします。
もう少し、身体のほうのことも考えると、人間の活動を維持する無意識的なたくさんのものの上に、意識(自我)というものがあるわけです。
我々はこのページを読んだり、マウスをクリックしたり、そうした意識的な活動もしますが、意識していないところで、呼吸していたり、心臓が動いていたり、細胞が死と再生を繰り返していたりと、そういう無意識的な活動に支えられている。

自我は、我々が生きていく上においての意識の中心であり、自我があるから、我々は「私」や「自分」というものを認識できます。私や自分というものを、しっかり認識するのが、「自我」です。
また、時間を超越して、過去の自分と今の自分を結びつけるのも、「自我」。
どこにあっても、「私」といえる、「私」を感じられる、それが自我なんですね。

したがって、自我が弱いと逆に、過去の自分と現在の自分を結びつけることができず、「自我拡散」や「自我分離」してしまうかもしれません。
あるいは、ショッキングな経験により、過去の自分と今の自分を切り離した結果、このような事態が起こる可能性もあるでしょう。
日々暮らしながら、「私」というものがあまり感じられなかったりするかもしれません。
しかしまあ、自我というのは育てたり、育ったりするものなので、人生のある期間で、その仕事を優先するのも、ありかもしれません。我々はいろんな仕事に追われますが、自我を育てるのだって、人間にとって大切な仕事です。(というか、疎かにすると、けっこうたいへんだったりします)

人間の成長段階の、前半での大きな仕事の一つは、「自我を鍛えること」「自我を確立すること」であるといわれます。
しかし、西洋に比べて、日本人は自我を鍛えるのが下手なのかもしれませんね。(下手というより、慣れてない?)
あるいは、日本という場や空気の中では、自我を鍛える必要は、西洋ほどなかったのかもしれません。逆に、それが邪魔になったケースもないとはいえませんね。(自分を殺してでも、周囲との調和をはかるとか…)
こういう状況では、自我が育ち難かったり、確立し難かったりしそう。(そういう意味で、誰も悪くないですね。場や布置の問題だから)
また、元来、日本人は、意識的要素よりも無意識的要素を大事にしてきた面もありますから、この辺も影響しているかもしれません。
ただ、これだけ西洋文化や西洋的な生き方が入ってくると、そうもいっておれなくて、そのモデルに従うんではないんだけれども、今ある状況の中で、日本人なりの自我を育てることは、必要かもしれません。
表層的なものがたくさん入ってくる中で、内面的な生き方にも影響が出てくるだろうし、「日本の外」というものにも付き合っていかなければならないのだから、日本人らしい自我の確立というのは、急務かもしれませんね。
(それをやるのは、いわば第一期生になるのだから、こりゃ、しんどいですな)
(まあ、数々の個人という先輩はいるものの…)
(↑社会としてそれはやれてないが、個人としてやった、先輩方はいる)

そういう意味で、それぞれの人生の中で「アイデンティティの確立」というのは、今まで以上に大きなウェイトを占めてくるのかもしれません。
(それを人生の中期や後半でやる場合も、多くなるかもしれませんね)
(こりゃ、たいへんだ)

関連記事:「エリクソンの成長の8段階――思春期・青年期」


前述しましたが、「自我」や「意識」は単体で存在しているのではなく、「自己」や「無意識」という母体を持ちます。
人は生まれ成長する過程で、自我を確立し、やがて自己に還るのです。

ユングはこう言います、

――自我と自己の関係は、動かされるものと動くものとの関係、あるいは対象と主体の関係である。なぜなら、自己から放射された決定要因が自我をあらゆる方向から取り囲む。したがって、自己は自我よりも座標軸の上方にあるのだ。
無意識と同じく、自己は先天的な存在であり、自我はそこから生まれて進化するものである――


(自己から生まれ、自己の中心に内在する成長願望、理想像への渇望、そのようなものに突き動かされ、成長・進化していくものが「自我」であるのかもしれません)
(分かりやすいところでは、本能とか欲望にも、我々は動かされるし、それによって生命が維持されている面もありますからね)





関連記事:「自己と自我 人生の諸段階/ユング心理学概説(4)」







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【ペルソナ】 



「ペルソナ」(persona)


ペルソナの語源は、古代ギリシャで役者がかぶった「仮面」のことだとされています。(あるいは、「役柄」)
ユング心理学では、「社会的元型」とか「順応元型」とも言われ、「社会に適応した態度」とも言われます。

我々が社会で生きようとすると、ある程度、望まれた「態度」や「役割」を要求されます。その場その場で、相応しい態度をとらねばならなかったり、役割を果たさねばならなかったりするでしょう。言いかえると、そういう仮面を被らねばならないんですね。そういう役柄を与えられるわけです。
仮面と言ってしまうと、その中身を隠すみたいで印象が悪いかもしれませんが、その場その場で、相応しい服装に着替えるように、態度なり行動なりを、それなりにコントロールしなければならないということです。
そうしないと社会は回らないわけだし、だいたいみんな、知らず知らずのうちに、そうしているはずです。(家ではああして、学校ではこうして、あるいは、仲間内ではこうで、会社ではああで――そういうのが、ある程度あるはずです。また、ないと困ります)

大雑把に言えば、このように、社会や場が要求する(適切な)態度や役割、あるいは、自分が適応しようと思う態度や役割、それが「ペルソナ」です。
我々はそういうものを身につけているわけです。(その程度はあるものの…)

人間成長の初期においては、親や近親者、先生などの期待に応えようとして、「ペルソナ」が形成されます。
ある時は、その態度や行動は、大いに受け入れられ、褒められます。またある時は、それは受け入れられず、時に罰せられたり、非難される。時には愛され、時には叱られます。そういうことを通して、ペルソナが形成されていくんですね。
知らず知らずのうちに、適切と思われる態度は残され、適切でないと思われる態度は排除されていきます。(ああ、ここではこうした方がいいのか、ここではこうしない方がいいのか、そういうことが無意識的にも行なわれ、身についていくのです)
こうして適切な態度が形成され、周囲との調和が育てられる。
例えるなら、その場に相応しい洋服を着るように、その場に相応しい表情をするように、そういった適切な態度(=ペルソナ)が、段々と形成されていくんですね。

ただ、ここで親や先生など、身近な大人の態度に一貫性がないと、ペルソナの形成に支障が出るかもしれません。親や先生の都合や気分次第で、子供に何の問題もないのに怒ったり、突き放したりすれば、子供はどのような態度が適切で、どのような態度が適切でないのか、分からなくなってしまいます。学べません。そして、いちいち大人の顔色を伺わなくてはならなくなってしまうかもしれません。
あるいは逆に、何でも褒められたなら、何が悪いのか学べませんから、適切な態度というのは学べないことになります。ありのままというのは、ある面では素晴らしいのですが、ある面では、場にそぐわないということでもあります。
もっと怖いのは、身近な大人があまりにも無関心なら、学ぶ機会自体が奪われてしまうかもしれません。そうなると、適切な仮面は形成されないわけですから、どこでも裸でいるような、そんなことにもなりかねません。
(但し、生まれつきこういうことが――苦手を越えて――出来ない場合もあるので、その時は、発達心理学等の専門家に相談するべきかもしれません)

このような経験を通して、受け入れられやすい「ペルソナ」が残され、人間の成長とともに洗練されていくことになります。
また、受け入れられない「ペルソナ」は無意識(個人的無意識)の中に追いやられ、抑圧されてゆく。
そして、後者はやがて「影」を形成する一因となります。


このように、ペルソナは人間が社会で生きていく上で必要なものなのですが、ペルソナだけに頼っていても、人生のどこかで壁にぶつかるかもしれません。
周囲に適応しよう、社会に適応しようとしすぎても、仮面(ペルソナ)の中の人間の部分が死んでしまいます。そして、今度はその中身が存在を主張し始めるかもしれません。
(「アンタは世間体や社会性を大事にするけど、私というものを一向に大事にせんのやな」みたいな…)

社会で暮らしていくには、裸で歩き回るわけにもいかないので、それに相応しい服を着たり、それに相応しい仮面を身につけなければならなかったりするのですが、そればかりだと、中の人間の部分が、不平不満をぶち上げてくるんですね。
「窒息死しそうですよ」「不自然ですよ」――そういうことを、症状を通したりして、訴えかけてくるのです。
「バランスが悪いよ」と。

あるいは逆に、自分の中身を大事にしすぎて、ペルソナの形成を疎かにしてたりすると、人ごみの中で裸でいる夢を見て、バツの悪い思いをしたり、そもそも、周囲と調和してないので息苦しくなってきたり、そういうこともあります。
(重すぎるペルソナが鎧として、場違いなペルソナがその場にそぐわない制服として――そういう風に夢に現れる場合もあるでしょうか)

こういう両方を、現実問題として突きつけられたり、夢というカタチで訴えかけられたり、あるいは、何らかの症状として、(内面から)ふっかけられたりもするんですね。

まあ、どちらを大事にするかは、その人のタイプにもよるんですが、人生のどこかで、ある部分を育てなければならないだろうし、また別の時期には、今まで疎かにしていたほうを、育てなければならなくなったりもするでしょう。
そうやって、人間というのは、外にも内にも、適応していくんですね。

自分というものを大事にする人は、まず自分というものを育て確立してから、周囲に対する適応というものを育てるだろうし(そうせざるを得ない状況に追い込まれたりもするだろうし)、周囲との調和を大事にする人は、まず調和を身につけてから、自分というものを確立することになるでしょう(そうせざるを得ない状況に、追い込まれたりもするでしょう)。

ただ一般的なことをいうと、最初にペルソナに取り組むだろうし、その後に、アニマ・アニムス、自己など、内的に深い部分と向かい合うことになるんでしょうね。
そして、その過程で、自らの影との問題にぶつかったりもするでしょう。



【追記】

そうすると、ある「場」で形成されたペルソナが、また「別の場」に身を置くことで、通用しなくなることもあるので、環境の変化によって、「ペルソナの作り変え」みたいな仕事を、要請される場合もあるかもしれませんね。

環境の変化というのは、いろいろとしんどい仕事を運んできたりしますが、ペルソナという意味でも、なかなかしんどい仕事を、要請してくるのかもしれません。



日記内の関係記事:
「ペルソナ 人生の諸段階/ユング心理学概説(5)」

「人の目」
「ペルソナ」
「ペルソナと期待」


「やさしいユング心理学 第七章 ペルソナ」







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