【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは「ユング心理学の用語」の、「アニマ・アニムス」「トリックスター」について紹介をしています。


【目次】



(1ページ目)
「元型」
「自我」
「ペルソナ」

(2ページ目)
「影」
  @「影」
  A「影」と「ペルソナ」
  B「投影」
  C「もう一つの影」

(3ページ目)
「コンプレックス」
「劣等感コンプレックス」

(4ページ目)
「アニマ・アニムス」
「トリックスター」

(5ページ目)
「個性化/個性化の過程」
「共時性」

(6ページ目)
無意識 
(2008年02月27日追加)
  個人的無意識
  普遍的無意識

【その他、療法など】
「ゲシュタルト療法」






【アニマ・アニムス】 



「アニマ・アニムス」(anima・animus)


ユングは、男性の中の女性的元型を『アニマ』、女性の中の男性的元型を『アニムス』と呼びました。
(アニマとは、ラテン語で「魂」を意味します)

男性の場合、一般に、強さ、判断力、たくましさなどの、いわゆる「男らしさ」を外的に求められますが、それを補償するものとして、内的に、「アニマ」が存在すると。そして、それとの対決を通して、弱さ、柔和さなどを体験し、互いに統合させることにより、より完全なる存在へと成長し、近づくのです。
強さだけでは足りないところに、弱さを体験し、統合してゆく。そんな行程があるんですね。

これはもちろん、女性と「アニムス」との関係にも言えます。
一般には、柔和さ、やさしさ、待つことなどを、外的には求められるのですが、「アニムス」との対決を通して、強さ、意見すること、判断すること、運命に立ち向かうことなどを学びます。

(男性らしさ女性らしさは時代によって変化するし、地域や文化によっても変わってくるので、なかなか難しいですが…)

「外的に求められる」と書きましたが、多くの場合、そういう下地を生まれながらに持つという面もありますね。まあ、この辺は、「必ず持つ」と言えるものではなく、ということは、求められるものと逆の性質を持って生まれることも少なくないということになります。
まあ、実際のところ、男にしろ女にしろ、上記のような性質を両方持つわけで、その割合というのは、「100対0」や「90対10」というものではなく、むしろ、「55対45」とか、そういう微妙な差なのではないかと思います。


このアニマ・アニムスですが、その対決の初期段階では、未熟さが現れる場合が多いようです。というか、生まれ持った性質でも、普段から使い慣れないと当たり前に未成熟なわけで、そういう道を通って成長するんですね。
今まで眠っていた性質と対面するんですから、そりゃ驚くかもしれないし、敏感かもしれないし、戸惑うかもしれないし、いろんな意味で未成熟です。そして、それと関わっていく過程で、段階を経て成熟していくんでしょうね。

男性の場合は、アニマの初期段階では、自分の内的な弱さに気づき、戸惑うこともあるでしょうし、落ち込んだりもするかもしれません。
女性の場合も、アニムスの初期段階では、どこかの新聞から拾ってきたような安い一般論で武装し、その例外を赦さぬ態度で、自分や周囲を苦しめる場合もあるかもしれない。それに気づいて恥ずかしい思いをすることもあるでしょう。
ただ、こういうことは誰にでもあって、いわば通過儀礼のようなものです。その先に進むための、通過点ですね。


アニマ・アニムスは、ペルソナと対をなすものです。
ペルソナを「外的に適応した態度」と考えるならば、アニマ・アニムスは「内的に適応した態度」と考えられます。
また、ペルソナが自我や周囲(外的世界)の影響を強く受けながら形づくられる一方で、アニマ・アニムスは無意識や内面(内的世界)の影響を強く受けます。
ペルソナが、外界に対して適応するために、周囲の空気を読み、自我で正しい態度を学んでいくのに対し、アニマ・アニムスは、そのようなペルソナを補償する内的な要求でもあります。
したがって、アニマ・アニムスは、タイプ論でいうところの「劣等機能」と結びつきやすいようです。つまり、普段の生活や態度などから、目立って欠けているものと結びつきやすい面があります。

そういうことを考慮すると、アニマ・アニムスを橋渡しとして、自我が自己と向き合っていける、という風にも言えるでしょうか。
そうやって、今まで欠けていたものを、取り込んでゆくのです。


アニマ・アニムスは、自我が生きていない反面・半面という意味では、「影」と重なりますが、影が自我に近しい存在であるのに対し、アニマ・アニムスは、もう少し離れた存在です。
自我が夢の中で同性として表れるのに対し、アニマ・アニムスというものが異性として表れるのは、そのためです。
同性ということは自分に近く、異性ということは――人間としては同じなんだけれど――離れた、ある意味、対極に位置するものなんですね。
そういうものと関わることによって、今まで足りなかったものを補完したり、今まで生きていなかった面を生きることになるのです。

男がこの世で男として生きながら、やがて女性的な面も取り入れ、人間として成熟してゆく。
また、女がこの世で女として生きながら、やがて男性的な面も取り入れて、人間として成熟してゆくわけです。
そういうことを、人間の内面の深い部分と向かい合うことで、成してゆくのです。
(単に性が反転するのではなくて、一方をある程度確立した後、もう一方と向き合い、それを取り込んで、より完成された存在へと近づく。決して、片方だけになることではありません)


アニマ・アニムスは、実際の結婚や恋愛とも関係します。
このとき、パートナーに対し、自分のアニマ・アニムスを投影し、要求ばかりを続けるならば、ややこしいことになるかもしれませんね。
相手にばかり要求するのですから、自身の内部からの(自身が変わるための)要求は果たされないことになります。だから、課題は残されたままです。
自身の奥の、アニマ・アニムスとの契約は果たされません。


このように、他の元型と同じく、アニマ・アニムスもまた、それを他人のものとして扱っている間は(安全だけれども)虚しいのですが、それを自分のものだと受け容れ、付き合おうとした時、(それはなかなかつらい道ですが)今まではなかった未知のものを得られるんでしょうね。

目に見えないものが、今まで足りなかったものを、補償してくれます。



やさしいユング心理学:第七章 アニマ・アニムス



参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書 [アニマ]:ユングの用語。男性の心にある無意識的な女性的傾向。
goo 辞書 [アニムス]:ユングの用語。女性の心にある無意識的な男性的傾向。







ページの先頭に戻る



【トリックスター】 



「トリックスター」(trickster)


トリックスターとは、昔話などで、いたずら者、ピエロ、ペテン師などの像として現れるモチーフです。
但し、単なる騒がせ屋やイカサマ師としては終わりません。そこには変容や創造が生じるんですね。

特徴としては、その登場時には、「価値が低い」と思われる点が挙げられます。
実際、昔話においても、現実問題においても、トリックスターはその登場時には、「厄介者」や「迷惑者」として扱われます。
昔話などでは、意味のないような悪戯(いたずら)をして迷惑がられたり、非難されたり、あるいは、その場にそぐわない騒動者として現われ煙たがられたり、人を騙して追いかけられたりもします。

ただ、大事なのは、そのトリックスターの活躍のおかげで、「終わってみれば、うまく収まっていた」とか、「終わってみれば、いい方向に向かっていた」というところに落ち着くというところ。

初め、迷惑だと思われた存在のおかげで、結果的に、うまくいくのです。
そのおかげで、場やその集団なり構成員たちが、変わっていたりするんですね。


このモチーフは、日本の昔話にもみられ、吉四六(きっちょむ)や彦市の話がそれにあたるでしょう。
このような像は、初め、村人に悪戯をしたり、場を騒がせたりするわけですが、その愉快さに昔話を読む方はニヤニヤさせられたりします。但し、主人公の周辺の者にとっては迷惑な話で、当然、主人公を低く扱っている場合が多いようです。(この辺は、日本においては、迷惑だけど憎めない奴、という像で描かれている場合も少なくないかもしれません)

このいたずら者、厄介者として扱われた主人公は、物語の後半では、その「とんち」や「機転」、「ずるさ」を駆使して、権力者や支配者、時には天狗などから宝を奪い、時にはそれを村や村人に還元したりします。
(単に、力あるものを引き落として終わる場合もあるかもしれません)

初め厄介であったり、村人に迷惑ばかりかけていたような存在の活躍で、(一般人が手を出せなかった)権力者が失脚したり、権力者の独占していたものが村人に還元されたりして、その場が良い方向に向かうのです。


このような像は、現実世界にも現れるようです。
例えば、いつも悪戯ばかりして親を困らせる子供とか、引きこもることで社会から低く見られている者、いつもおかしな見解を示し笑われている者――などがそれでしょうか。

このような場合、いつも悪戯ばかりしている「困った子」との対決を通して、家族の問題に目がいき、結果、家族の関係がよい方向に進む場合もあります。
あるいは、引きこもっている「困った人」と向き合うことで、その奥に隠された問題が浮かび上がり、その対決を通して、本人にも周囲にも変容がもたらされる場合もあるでしょう。
また、いつもおかしなことを言う人の意見の中に、その時代の価値観や閉塞した体制を打ち破るような可能性が見出されるような場合もあるかもしれません。
(因みに、「困った〜」という表現を使いましたが、実際にこれらの人がそうであるとは限りません。ただ、周囲の人間が、そう思っているだけです。あるいは、本人もそう思っているかもしれませんが)

断っておきますが、「困った者」になることが素晴らしいのではありません。
そういう状態を通して、建設的なものを創造したり、丸く収まっていくのが素晴らしいのです。
言い方をかえれば、そういう「困った者」が現れたり、「困った事態」が起きない限りは、閉塞した状況というのは打破されず、つまり、「困った存在」により場が破壊されることで、変化が生じ、収まるところに収まっていくんですね。
で、そこに変容や創造が生じれば素晴らしいことだし、破壊に留まれば、価値が低いことになります。価値云々は別にしても、つらいですわな。


トリックスターはいつも有効に働くとは限りません。
未熟なトリックスターは単なるいたずら者や厄介者で終わったり、その場や空気を壊すだけの破壊者に留まるかもしれません。
逆に、トリックスターが高次の働きをするような場合は、新しい秩序や価値観をもたらす、英雄となる場合もあるでしょう。
また、トリックスターが大活躍しても、その周囲の者に変化を受け容れるだけの度量がない場合は、トリックスターは破壊者として断罪されるに留まるかもしれません。
変化するということは、個人が変容することにとどまらず、場や周囲の人たちも変容することを意味するのですから…。(頑なに変容することを拒み、結果、変化を招く人を殺しているような場合もあるかもしれません)

そうすると、場に変化をもたらそうと(無意識的に)頑張っているトリックスターが、単なるいたずら者や破壊者として、断罪されている場合も少なくないのかもしれませんね。
そして、その裏では、その先にある可能性まで殺されているのです。
(もっとも、何でも壊せばいいというものではありませんが)


このようなことを考えると、身近に生じている様々な困りごとにも、トリックスター的な要素が存在するのかもしれません。
それを厄介者として断罪している場合には変化は生じませんが、そういうものと付き合っていると、破壊という痛ましいことが生じる半面、その次に創造の芽が生じるかもしれません。

無意識にはそういうところがあって、無意識から生じる厄介ごとに我々は悩まされたりしますが、それを頭から否定している間は苦しいだけで変化は起こらないものの、それと付き合ってゆくとき、「今まで」の破壊と共に、「これから」の芽生えを感じることがあります。

変化とは破壊することでもありますから、どうしても、こういう破壊と創造をつかさどる(はじめは)困ったと思える存在と、付き合わねばならないのかもしれません。

そういう意味では、病気とか症状も、トリックスター的な要素を持つわけですね。
そして、騒動のあと、結果、うまいこと事態が収束した時にはトリックスターの姿が消えていたりするように、困りごとや症状というものも、その時には役割を終えて、姿を消すのかもしれません。


このように、トリックスターというものは、騒動師であり、場をかき乱す存在であり、それと同時に、新しいものをもたらす存在でもあります。

そこには破壊と創造があるんですね。




参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo 辞書:トリックスター
(1)詐欺師。ぺてん師。手品師。
(2)神話や民話に登場し、人間に知恵や道具をもたらす一方、社会の秩序をかき乱すいたずら者。道化などとともに、文化を活性化させたり、社会関係を再確認させたりする役割を果たす。







ページの先頭に戻る



<< 「コンプレックス」「劣等感コンプレックス」に戻る
「個性化/個性化の過程」「共時性」に進む >>







サブメニュー


Copyright (C) 2004〜 南方城太郎、城太郎日記 All rights reserved.

壁をブチ破れ、さすれば能力は格段に跳ね上がる!!




ブログパーツ アクセスランキング