■「はじめに」
□「乳児期」
□「幼児期」
□「児童期」
□「学童期」
□「思春期・青年期」
□「成人期」
□「壮年期」
□「老年期」
■「終わりに」
(追記)
□「基本的信頼 vs 不信」 2006年05月03日
新シリーズ、E.H.エリクソン「ライフサイクル、その完結」については、PCの場合は右サイドバーを、スマホの場合は末尾を、それぞれ参照してください。
(2008年1月25日:テンプレート及び、一部文章を訂正)
(2013年5月10日:テンプレート及び、一部文章を訂正)
(2015年1月17日:テンプレート及び、一部文章を訂正)
『はじめに』
人間、長く生きていると、フッと不安になることもあるでしょう。今まで大丈夫だったのが、大丈夫じゃなくなることだってある。
眠れない。不安だ。イライラする。なぜか、うまくいかない。
理由は分かりません。でも、実際に困ったことが生じてしまう。そんなことが、あるようです。
人生はある意味、階段のようなものなのかもしれません。生まれてから今まで、ひとつずつ、階段を上ってきている。そして我々は、知らず知らず、どこかで何らかの階段を、飛ばしてきているのかもしれません。
階段を飛ばしてきた。そのツケが、今になってやって来ている。そんな布置が、ひょっとしたら、あるのかもしれませんね。
今から、エリクソンのライフサイクルについて、ざっくりと紹介させていただきたいと思います。これから出てくる8つの段階を、人生の階段だと捉えるのも、いいかもしれません。
そこで、「!」というものがあれば、ひょっとしたら、過去が現在に、影響を与えているのかも。
心理学について考えていると、そんな「時間差の罠」が、そこかしこに見えてきます。問題は目の前でも、それにつながるものは、別の場所、別の時間に、今なお生きているかもしれないのです。
(以上、2013年5月追加の文章)
自我は私の中にあり、また、自我は人の目に映る私を認識します。私といえるものこそ自我であり、相手を通して私を認識するのも、自我です。
私の中にあって、「私というもの」を認識するのも自我、外部の人を通して、「そこに映る私」を認識するのも自我。
「過去の私」と「今の私」をつなぐのも、自我。
そんな、たった一人の自分を形成するのが、自我なのです。
自我は相手と自分を明確に区別し、また、相手の目に自分がどう映っているかも認識します。
が、その自我が弱っていたらどうでしょう?
あるいは、自我が確立されていなかったら、どうでしょうか?
☆
自我が弱いと、相手と自分をうまく区別できないかもしれません。
そして(相手と自分を同一視してしまい)、
・私の気持ちをみんなも知っていなければならない。
(知っていて当然)
・私の意見とみんなの意見は同じでなければならない。
(同じで当然)
↓
・でも、誰も私の気持ちを分かってくれない。
――そういう風に、悲しんでしまうかもしれませんね。
あるいは、相手と自分が同じでないことを気に病み、
・私の気持ちを知られたくない。
・私の意見を否定されるのが怖い。
・だから、何も見せたくない。
――そんな風に思ってしまうことも、あるかもしれません。
更には(自我というものが)疲弊してしまうと(疑心暗鬼が生じ)、
・私の気持ちをみんなは知っているのではないか?
・私の意見はすべて否定されてしまうのではないか?
――そう信じ込んでしまうことだって。
(と、これは、あくまで一例です。それに、程度はともかく、誰にだってそう思うことはあるでしょう。ただやがて、忘れるだけ)
☆
「人の目に映る私」というものを考えた場合、自我が弱ってしまうと、「人の目に映る私」が気になって、気になって、身動きが取れなくなるかもしれません。(「私の中の私」より、「私の外の私」が勝ってしまいます)
更に、人の目に映ること自体を拒否したり、人の目に映る自分をすべて否定的に捉えてしまうかもしれません。(そうやってでも、今は弱い「私の中の私」を守ろうとするのです)
そして、そうなるのだって、何か事情があったりする。だから誰も、責められない。
☆
こういうことは、少なからず、誰にでもあるとは思うのですが、上記のような傾向があまりにも強い場合、自我が弱っている面があるのかもしれません。あるいは、自我が確立されていない面があるのかもしれない。
では、自我を確立させていくには、どうすればいいのでしょうか?
それをエリクソンの「人間の成長段階」というものを参考にしながら、見ていきたいと思います。
☆
エリクソンは、人間の成長を8段階に分けて考えました。
1:乳児期
2:幼児期
3:児童期
4:学童期
5:思春期・青年期
6:成人期
7:壮年期
8:老年期
以上の8段階です。
それぞれの段階について、もう少し詳しく見ていきましょうか。
ページの先頭に戻る
(1) 『乳児期』
物事を成すには、土台がいります。何かを形づくるには、土台がいる。(土台がないものほど、危ういものはありません。それは簡単に崩れがちです)
健全な自我を育てるにも、健全な関係を育てるにも、ある程度の土台がいるようです。それが今から紹介する、「基本的信頼」と呼ばれるもの。
人に対して、自分に対して、この「基本的信頼」があってこそ、健全な自我や関係が育つのです。基本的な信頼があってこそ、人間関係は成り立つし、自分や相手を信じたり、受け容れたりもできるんでしょう。
そして、この「基本的信頼」を育てるのが、親と子の関係になります。
☆
生まれたばかりの子供がまず触れるのは、親のまなざし。それまで一体だったものが、生まれることによって、二つに分離し、互いの「1」(子)と「1」(親)が触れ合う。
親のまなざしの中に、「私というもの」があり、「1」(母子、お腹にいた状態)から「1と1」(生まれて、母と子になる)になった おぼろげな存在は、もともとひとつだった、もうひとつの「1」(母)の中に、自分というものを感じるのでしょう。
ということは、その親のまなざしや見方は、「私というもの」に大きな影響を与えることになる。
親が生まれた子の存在を喜べば、子は自分の存在を喜び、親が生まれた子を否定的に受け取れば、子は自分を否定的に受け取るかもしれません。
自我が育つその前に、比較的浅い、そして自我と近接している、無意識の層に、そういう土台が形成されるのです。
あるいは、親が生まれた子に戸惑えば、子は自分に戸惑うかもしれません。
それが何であれ、まるで映し鏡のように、それを受け取ってしまう。
これが「私というもの」の根源となります。
親は乳児期において、「子を映し出す鏡」なのです。一心同体から分離したばかりの、非常に近しい、鏡。それほど、結びつきが強いんですね。(だって、つい先ほどまで、ひとつだったんですから…)
☆
この時期には、無償で愛されること、自分の存在を認めてもらうこと、喜びを持って迎えられること、などが求められます。
それによって、自身も世界を愛し、周囲の人や世の中を信じ、自分の存在を信じ、認めることができます。生まれてきてよかったんだと思える。
このような周囲の、無償の「基本的信頼」に支えられ、自分に対する「基本的信頼」も育っていきます。また、それが、人間が生きる上での、安心の基盤になるんですね。(生まれてきておめでとう、ぼくは大丈夫、ぼくは生きていいんだ、という風に)
さらに言えば、これが成人してからの人付き合い、人間関係にも影響を与えるようです。
しかし逆に、これが得られないと、「不信」へとつながるかもしれません。(更に、この「不信」は、将来的な「無気力」や「諦め」、「不安」につながるかもしれない)
自我というものを考えた場合、この「基本的信頼」に支えられ、自我は育つことになるのでしょう。もし、基本的信頼という支えが弱いなら、自我もまた弱くなるかもしれません。土台がない分、ぐらぐらしがちかもしれませんね。
極端な言い方をすると、十二分に愛された子供は、将来、必要以上に愛されることを望まないですむようです。(既に、十分愛されていますから。もう、おなか一杯です)
一方、十分に愛されていない子供は、成長後も愛を渇望してしまうかもしれません。(まだ、十分に愛されていませんから。おなかが空いています)
少し言葉を変えるなら、乳児期に「依存」を十分に経験した人は、それ以上の「依存」を必要としないわけで、逆に、「依存」を十分に経験していない人は、成長後も、「依存」を渇望する傾向があるのかもしれません。
(そうしてまでも、乳児期に経験できなかった「依存」を埋めたい部分があるのでしょう。意識的なものを越えて、人間としての総体が、それを補償しようとするのです)
ここで、子供を構い過ぎることで「過保護」にならないだろうか? と心配する方がおられるかもしれませんが、乳児期では心配ないと思います。
それよりは、むしろ、上記のように、十分に構ってもらった子供のほうが、将来、それ以上 構われることを望まなくなるようです。
(人間は、無いものは欲しくなるし、足りているものは欲しくならない。お腹が空けば欲しがるし、お腹が満たされれば満足します。心だって、同じなんですね)
繰り返しますが、乳児期に受けた周囲からの無条件の「基本的信頼」が、自身への「基本的信頼」を育てるのです。満たされた経験が、安心を紡ぎ(つむぎ)出します。それが、土台になるんですね。
「ああ、自分は生きていいんだ!」という安心感を得ることができる。
☆
上記のように、乳児期では「基本的信頼 vs 不信」という要素が対立します。
理想としては「基本的信頼」が十分に育つことが望ましいのですが、実際問題として、100%ということはありえません。できるだけ子供に無償の愛を注ごうとしても、始終構い続けるわけにはいきませんから、どうしても「不信」も育ってしまいます。
ただ、「基本的信頼 vs 不信」というものを考えた場合、結果として、「基本的信頼 > 不信」となっていればいいわけで、それによって、安心・安定が得られます。
(それに、多少「不信」の気持ちがあったほうが人間らしいし、人生を生きる上で役立つようにも思います。何も信じられないのも困りますが、「不信」がないと、悪い人まで信じてしまうかもしれないわけだし、親に一体化してしまい過ぎると、自立や分離が困難になる面もあります)
また、たとえ乳児期の基本的信頼が欠けていて、今が不安定だったとしても、これから、少しずつでも基本的信頼を獲得できるような経験をし、逆に不信を取り除くような経験ができれば、今、「基本的信頼 < 不信」で不安定なのが、「基本的信頼 > 不信」と変容し、安定できるかもしれません。
過去そのものを変えることはできませんが、過去につながった今の自分を見つめることで、未来の自分は変えられるかもしれません。足りないものに気づき、それを何らかのカタチで補償・補完できれば、新しい未来が待っているかもしれません。
こういった作業を、一般論ではなく、各個人の人生に当てはめて、徐々に経験し、変容していくことが大切なのだと思います。
ブログの関連記事:「子どもが育つ魔法の言葉」
ページの先頭に戻る
(2) 『幼児期』
この時期から、躾(しつけ)など、周囲からの要求に出会うことになります。そして、「周囲からの要求」と「自分の内なる要求」とのバランスを、学習することになる。
これがうまくいくと、人は「自律性」を持つことができるようになりますし、これがうまくいかない場合、それができないという「恥」の感情や、うまくできない自分への「疑惑」というものが育ってしまうかもしれません。
自律性を持つ――自分をコントロールしていく――為には、ある程度、自分の内なる欲求を我慢することも覚えなければなりません。それを支えるのが、我慢することで生じる未来(良い結果)を信じることであったり、経験すること。また、それを支えるのが、乳児期の「基本的信頼」です。
(基本的信頼に支えられた子供は、周囲や より良い未来を信じ、その為に我慢したり、自分をコントロールすることを学べる)
まだまだ弱く頼りない存在でも、常に母なるものが傍にあるというイメージが、安心や信頼を育て、より良い未来を信じる心を育てる面もあるかもしれない。
ここで大事なのが、周囲や未来を信じ、自分をコントロールすると共に、それによって得られた良い結果や達成感などを十分に体験すること。(ああ、これでいいんだ! これでよかった! と)
だから、褒めるとか、抱きしめるとかいうのは、本当に大事になってくる。そして、それが意欲や自信を育てることにつながるようですね。(恥や疑惑を消していく効果だってあるでしょう)
はじめに、「周囲からの要求」と「自分の内なる要求」とのバランスを覚えていく、と述べましたが、この時期が人間としてはじめて二面性のバランスを学ぶ時期であり、選択や決断を学ぶ時期なのかもしれません。(といっても、まだまだ、その芽生えですが…)
これによって、人は、両者のバランスの中にあって、自分をコントロールしていくこと(自律)を学んでいきます。
自分のしたいことと、親が望むこと、
自分のしたいことと、してはいけないこと(したら叱られること)、
自分のしたいことと、我慢することで得られる達成感や褒められること、
自分のしたいこと(ある種の分離)と、そのあと抱きしめられる一体感、
そんな中で、ジレンマも経験するでしょうか。
(故に、揺れるかもしれませんね。そして、そんな時、支えになるのが、前述の「基本的信頼」なのでしょう)
また、乳児期では、一方的に「〜される」存在であったのが、この頃から、自分を主張することも始めるようです。そういった意味でも、自我の芽生えと取れるかもしれません。(そして、それだけに、育てる方は大変ですね)
この自律性ですが、それを育てるには、「見守ること」や「待つこと」が大切になってくるようです。
もちろん最初から何かを出来るなんてことはないですから、繰り返し教えることは大事ですが、その教えたことをいつ出来るようになるか、それを待ち、見守ることが大切になります。
ここで出来ないことを安易に非難しすぎると、「恥」や「疑惑」を育ててしまうことになるかもしれません。(「ほら、失敗した」、「あなたには無理なの」とか)
(それによって「ああ、ぼくはダメなんだ」と思ってしまうかもしれない。思わないまでも、そういう感情の塊や解れ(ほつれ)が、無意識下に形成されるかもしれません。そしてそれが、思いがけない時に、影響を与えたりする)
「恥」や「疑惑」というのは、自分の行動を制限する呪縛に育つ可能性があります。成人してからの無気力や自己否定の癖。その奥底には、何らかの経験があったりするのです。
養育者が支配的過ぎても、「自律性」を育てる事ができず、周囲への「恥」の感情や、自分自身への「疑惑」を育ててしまいそうです。
(この親の支配ですが、いつも叱ったり、嚇し(おどし)たり、ということだけではなく、「抱え込み」によっても成されるようですね。条件付の愛で子を縛り、支配する場合もある。あるいは、分離不安で支配することもあるかもしれません。もちろん、それを意識してやっているわけではないんでしょうけども…)
上記のようなことから、
・子供をコントロールし過ぎないで、ある程度、子供の自律性に任せること、
・安易に出来ないことを非難したり、否定しすぎないこと、
・押し付けもしないし、見離しもしないこと、
――そういうことが望まれるようです。
しかし、親といえども人間だし、そう完璧にはいきませんよね。だから、多少の恥や疑惑は育つだろうし、また、それでいいと思います。
要は、程度問題であって、少しでも、「自律性 > 恥・疑惑」となればいいだけです。
その親にしたって、そのまた親に育てられているわけで、過去に遡るほど余裕がなかったであろうことは、容易に想像できる。親もまた、子供だったのだから。
そういう意味で、誰が悪いとか、誰の責任だとか、そういうことは安易には言えない。ともかく、「今」や「未来」というものをよくしたい、ただそれだけです。
話を戻すと、この時期は、抱え込むでも、放っておくでもない、親と子の距離が、重要になるようです。
この時期は、親にとっても、子にとっても、バランスを学ぶ、大切な時期なのかもしれませんね。
(その為にも、親自身が、健全な乳児期を経験しておく必要があるのかもしれません)
(ということは、それに気づいた世代が、自分の子にそれを与えようとする、ということなんでしょう。負の連鎖は、どこかで断ち切らないと…)
ページの先頭に戻る
(3) 『児童期』
児童期には、「自発性 vs 罪悪感」という要素が対立します。
「自発性」とは、「自分から物事を進んでしようとすること」です。あるいは、「他からの影響や強制などではなく、自分の内的要求によって行われること」ともいえるでしょうか。(「自分の内的な要求を表現すること」という捉え方も、できるかもしれません)
ここで大事なのは、「他からの影響や教え、強制」でなく、「自分から進んで」あるいは「内的要求によって」行なうことです。
自我というものを考えるなら、「自我が行動の中心になること」とか「自我を中心として自分が行動できること」といえるかもしれません。
そして、これに失敗すると、内的要求と外的要求のバランスを失い――というのは、「自分のしたいこと」と「周囲の要求」や「社会の規範」の間に深い溝ができ――自分に対する「罪悪感」を生んでしまうかもしれません。
児童期には、「あれをしたい」「これをしたい」と子供の方から言うようになると思いますが、ここで自発性をいつも否定してしまうと、罪悪感を育てることになりかねません。(自分の要求を示したり、自ら進んで行なうことが根本的に駄目なことだと思い込み、罪悪感を抱いてしまう)(「内的要求 < 外的要求」という状態でしょうか)
実際問題として、いつも子供の意欲的行動に従うわけにはいかないでしょうし、いつもそれに従う(隷属する)のも考え物ですが、できる限りの範囲で尊重することが、自発性を育てていくことになるのかもしれません。
逆に、いちいち手を貸したり、意欲的行動を否定し続けるなら、自発性が萎んで(しぼんで)しまったり、罪悪感を育ててしまう可能性もあるでしょう。(「自分のしたいことを主張すること=罪悪」というパターンが、出来上がってしまうかもしれません)
そして、子供の自発的行動が成功した時は、十分に褒めてあげた方がよさそうです。その達成感が支えになり、より自発性を育てるだろうし、次の意欲を生む面があるように思います。
また、たとえその行動が失敗したとしても、自発性を否定することなく、「残念だったね」とか「次は頑張りましょうね」と言ってあげるのが大事なんでしょう。(「ほ〜ら、失敗した」なんてのは止した方がよさそうですね)
ここでも、「見守る」ということが鍵になる。(突き放すでも、抱え込むでもなく、見守ることが大事になりそう)
まあ、現実的には、自発性のみを育て続けるのは無理なわけですが、結果として「自発性 > 罪悪感」になればいいわけだし、人生を生きる上では、多少の罪悪感や自発性を抑えることも、必要となるでしょう。
(罪悪感がなければ、悪い自分の態度を修正できません。ただ、罪悪感があまりに勝ちすぎると、自分から進んで行動することを制限してしまうということです。それはあまりにも生きにくい。しんどいです)(まあ、あまりに気ままなのも、考えもんですがね)
そして、尊重というのは、実際させるとかさせないとかではなく、それを越えたところで、その思いや行動を、尊び、重んじることなのだと思います。
それは、そっと見守ることであったり、じっと耳を傾けることなんでしょう。なかなか難しいですけどね…
ともかく、この時期には、「自発性 > 罪悪感」を目指すこと、その為にできる限り自発性を尊重すること、それが大切になります。
ページの先頭に戻る
(4) 『学童期』
学童期には、「勤勉性 vs 劣等感」という要素が対立します。
勤勉とは、一般には「一生懸命に精を出して励むこと」、「仕事や勉強などに、一生懸命に取り組むこと」となるでしょうか。あるいは、学童期というものを考えた場合、勉強に励んだり、クラブ活動など何かしらの活動に励んだり、先生の話に耳を傾けたり、宿題や課題をやり遂げたり、遅刻や忘れ物をしないようにしたり――ということも関わってくるでしょう。
ただ、ここで注意しなければならないのは、「勤勉性」とは「一生懸命に取り組んだり、励むこと」であって、その成果ではない、ということです。学業でいうなら、成績そのものではなく、如何に勤勉に取り組むか、その姿勢です。
ここで、勤勉性が評価されることなく、成績のみで否定的な評価をされたなら、勤勉性の価値は沈み、「劣等感」を膨らませることになるかもしれません。(「なんだ、一生懸命やっても無駄なのか」とか)
人生というものを考えるなら、良い成績をとることも勿論(もちろん)大事なわけで、そういう意味で、成績での評価もある程度は必要になるでしょう。ただ、大事なのは、成績がすべてではない、ということ。
成績が評価のすべてであったなら、それに失敗した時、すべてを否定することになりかねません。成績はひとつの判断材料に過ぎないし、それで人格や存在まで否定されるものではないです。
(とはいえ、ひとつの判断材料や成果としての成績をまったく否定することはありません。単純に考えても、良い成績は嬉しいものです)
更に、同じ学童期といっても、低学年の段階と高学年の段階とでは、ある程度分けて考えた方がよさそう。
一般的に、低学年であるほど成績より勤勉性が評価されてよさそうだし、ある程度高学年になると、それなりに成績というものにも価値を見出してもよさそうです。(もちろん、すべてを、一般論的・公式的に語れるものではありませんが)
ここでも大事なのは、「勤勉性 > 劣等感」となること、勤勉性を上回るような劣等感を育てないこと、です。その為にも、「何かしらに一生懸命に取り組むこと、励むこと」を尊重する姿勢が大切になる。
(この場合、そのときの時代背景や価値観、取り組む対象によって、評価されたりされなかったりしがちですが、そういうものを越えて、「一生懸命に励むこと」自体も評価した方がいいかもしれません。まあ、(学業など)本業はあるものの、それがある程度できているなら、趣味の世界に「一生懸命に励むこと」も評価した方が、勤勉性を育てるという点においては、大事になりそう)
(まあ、評価しないまでも、いちいち否定せんことですな。日本を席巻するダメダメ教からは、早く脱退した方がよさそうです)
また、自我というものを考えるなら、ここでも、「内的要求と外的要求のバランス」ということが大事になるのかもしれません。自分の「内的要求」に従い、一生懸命に取り組んだものが、「外的要求」(親や先生、周囲の価値観)により判断されたなら、それが否定された場合は劣等感、評価された場合は優越感を生む面もある。
人生を歩む上で、内的要求も外的要求も大事なのですが、
・劣等感に悩んでいる人は外的要求が強すぎて、内的要求が蔑ろ(ないがしろ)にされている面があるのかもしれません。
・逆に、過剰な自信を持ちすぎる人は、内的要求の方が勝ちすぎて、外的要求を蔑ろにしている面があるのかもしれません。
(ここでも、二者択一ではなく、人生を生きる各個人のバランスが肝要になるのでしょう)
単純に考えても、内的要求にしたがって取り組めば、勉強や活動なども面白いだろうし、外的要求が勝ちすぎると、それは義務という面が強くなり、面白みを失うでしょう。(もっとも、外的要求も、義務も、ある程度は必要ですが)
あるいは、外的要求をすべての価値観にしてしまうと、それに失敗した時、「ああ、自分は駄目な人間だ」「価値のない人間だ」と思ってしまい、劣等感を育ててしまうかもしれません。
あと、いわゆる「良い子」が「親の都合のいい子」とイコールになり、あまりにも同化してしまうと、どうなるか。親の都合に、あまりに同化してしまうと、その子の個性が死んでしまいます。そして、その代償が、後々現れることも。
この時期には、ある程度、内的要求を尊重し、それに一生懸命に取り組む姿、「自発性」を尊重した方がよさそうですね。(もちろん、程度ものですが)
ただ、ウソで評価しても、そういうのは伝わるものなので、それは止した方がよさそう。
ページの先頭に戻る
(5) 『思春期・青年期』
思春期・青年期には、「アイデンティティー vs アイデンティティー拡散」という要素が対立します。
「アイデンティティー」という言葉を説明するのはなかなか難しいですが、これは「自我同一性」とか「自己同一性」と呼ばれるもので、
・「自分とは何者か?」
・「自分は自分をどのように定義するか?」
とか
・「自分は一体何の為に生まれてきたのか?」
・「自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか?」
・「自分は一体何になっていくのか?」
――そんな問いに、自分なりの答えを出すこと、と言えるでしょうか。
あるいは、状態というものを考えるなら、
・「自分が自分であると、しっかり受け入れられる状態(確信できる状態)」
・「自分が自分であるということに、迷いや動揺が無い状態」
・「自分が自分らしくありながら、社会や集団の中で自分なりの居場所を確保できる状態」
――といえるでしょうか。
更には、
・「私というものを確信し、私というものに、一貫性、同一性を与えるもの」とも言えるかもしれません。
(いつでも、どこでも、ちゃんと私を私と感じることができる)
児童期までは、親や先生、身近な人などを手本とし、そのような対象と、ある程度、同化して自分を形成していくものですが、この頃からは、他者とは違った自分とか、たった一人の自分とか、そういうものが問題となってきます。
本格的に、自分というものを形成していくんですね。ですから、それまでの自分とサヨナラするわけで、なかなか難しい時期です。
それまで、前者のように、他者と自分を「同一化」していたのが、この時期からは、後者のように、自分が自分に「同一性」を持たせようとすることになります。
それは「今までを壊す」という意味でもありますから、なおのこと難しいです。蝶が飛び立つ前にサナギになるように、この時期の人間も、サナギのように退行してしまうかもしれません。少しずつ壊しながら、変容していくのだから。
このように、「(他者との)同一化」と「(自分の)同一性」、同一化していた対象への「理想」と「失望」、自分自身に対する「理想」と「失望」―― それらの間を揺れ動いたり、葛藤したりしながら、自分というものを確立してゆく。(故に、非常にデリケートな時期でもあります)
そうしながらでも、自分というものを探し、自分が、自分の人生の、主人公になってゆくんですね。その他大勢の人形から、たったひとりの自分自身になっていくんです。
そんな中で、他者の価値観に揺るがされない、自分自身の価値観を築いてゆこうとし、誰かの押し付けではない、自分の人生を探すようになります。
上記のような問いに対する答え・状態を得られた場合、アイデンティティーを確立でき、安定できますが、逆に、答えを出せなかったり、そもそもそういう問題を先送りにしていた場合、「アイデンティティーの拡散や混乱」という状態に陥ってしまうかもしれません。
自我がある程度しっかり確立されている場合、人は時や場面を越えて自分が一個の個人として存在することを確信し、自我は統一された状態にあるのですが、自我が確立されていない場合、本来統一されるべき自我が「拡散」したり「混乱」する場合があるようです。
(前者が、自我を中心に私というものがある程度まとまりを持っている状態とするなら、後者は、私というものがまとまりを持たず、霧のようにもやもやと拡散した状態といえるでしょうか。まあ、あくまでイメージですが…。私ここにあらず、という感じ)
アイデンティティーが確立されていない場合、自分の考えがありませんから、何をするにも人任せになったり、自分の選択したことに責任が持てないかもしれません。あるいは、方向性がありませんから、積極的に何かに関与するなんて事もないかもしれない。
上記のようなアイデンティティーの定義を見ても分かるように、現代日本のいわゆる思春期・青年期の者で、自分に対する問いに明確に答えられる人は少ないのではないかと思います。(その先の世代だって、どうだか)
それよりは、成人期や中年期、あるいはもっと遅くになって、アイデンティティーを確立せねばならない状態を迫られ、結果、いろんなものと対決しながら、アイデンティティーを確立していく、という場合の方が多いのかもしれない。
(中には、アイデンティティーを確立せぬまま、一生を終える人もいるかもしれませんが)
こういうことの一因には、日本の「場を大切にする風土」があるかもしれませんね。
場を大事にするが故に、アイデンティティーというものをしっかり確立しなくても、場の中である程度(その一員たる)自分というものが受け入れられたり、場と同化することで迷いや動揺もなくいれたり、アイデンティティーというものが無くても、集団の中に自分なりの居場所を確保できた面があったと思います。
(あるいは、アイデンティティーというものが邪魔になったケースだってあったかもしれません)
ただ、生活様式が変容するにつれ、アイデンティティーの確立というものが持つ意味も、以前よりは大きくなってきているように思います。もう、それをせずにはおれない状況が、きているのかもしれません。
アイデンティティーが確立されていないために、アイデンティティー拡散・混乱のような状態に陥り、自分に自信や確信が持てなかったり、得体の知れない不安に襲われることもあるでしょう。社会に対して、積極的に関与できない場合も、あるかもしれません。
しかし、見方をかえると、それは自分に自信や確信を持つための、また不安を解消するための、積極的に社会に関与していくための、そんなアイデンティティーの確立という仕事が時代の必然として 望まれている、ということかもしれない。
ある種の悩みを抱える人は、その代表選手であり――河合隼雄さん風にいうと、選ばれた人であり――時代の病を負わされているのかもしれません。あるいは、今までは取り組めなかったが、ようやく取り組める時期が来たのかもしれませんね。
(話を戻すと)
この作業は、「自分自身の内部」でも「他者との交流の中」でも、行なわれるべき仕事なのでしょう。
(自分というものを無条件に認めることは、自分の内部でも行われねばならないし、それを他者との交流の中で経験的に感じることも大切になると思います)(自分を確立することは、同時に、自分を外に表現していくことでもあるんでしょう)
ただ、両方が大事であるということは、両方を同時にやるべきだということではなくて、別に、内的に確立してから、他者との関わりの中で確立したり表現してもいいわけだし、社会や集団の中で自分を表現することを覚えたり、自分の居場所を確立したりしてから、内的に確立していってもいいように思います。また、両方を場合場合で入れ替えながらやってもいいでしょう。
(この辺は、生まれ持ったタイプや性分にもよるんでしょうね)
大事なことは、最終的に、アイデンティティーの確立が成されることが望ましい、ということです。経路や方法は、特に問題ではありません。
三十代、四十代、あるいは五十になってから、この課題に取り組む人は、案外多いかも。なにせ、思春期・青年期には、塾だ、受験だ、何だかんだと、やる事が多くて、それに取り組むだけの余裕がないように思います。
何より、それに付き合うだけの大人が不在なのかもしれない。なにせ、大人といわれる人が、それを経験してない場合も多いんですから。
でも、まあ、年齢に関わらず、それをしなければならない時には、しないとしょうがないわけだし、しないでいると余計に苦しかったりするし、どこかで、こういう課題とは、向き合わねばならないのかもしれませんね。
アイデンティティーを確立できたかどうかの目安としては、
・悩み苦しんだ経験があるか?(悩みきった経験があるか?)
・そして自分の出した答えや考えに対し、積極的に関与しているか?
・自分で選択できるか?(多くをゆだねてないか?)
・また、その選択に責任を負えるか?
――などがあります。
まあ、程度ものですがね…
(その対象として、「職業観(感)」「宗教観(感)」「政治観(感)」を挙げることも)
ページの先頭に戻る
(6) 『成人期』
成人期には、「親密性 vs 孤独」という要素が対立します。
青年期にアイデンティティーを確立すると、成人期にはより現実的・具体的な課題に取り組むことになる。
青年期では「自分とは何者か?」という問いや「集団の中での自分の居場所の確保」などが問題となっていたのが、成人期では、職業やパートナーの選択、結婚するのか独身で通すかの選択、生活様式の選択などをしたり、それらの役割を、就職、結婚、社会生活などの中で、如何に果たすか、などが課題となってきます。
言葉をかえると、青年期に確立したものを、社会との関わりの中で如何に「カタチ」にするか、というのが問題になってくる。
この時、自分で(具体的な)選択をできるか? それに対し責任を負えるか? 積極的な関与ができるか?などの問題は、アイデンティティーを確立できているかどうか? ということにも関わってきそうですね。
確かに、自分で選択しなくても(ある意味、人任せで)、乗り切れる場合もあるかと思いますが、そういう時、どこかで行き詰ったり、納得できなかったり(場合によっては、「騙された」を連呼したり)、結局、どこかで、アイデンティティーの確立という仕事をしなければならなくなるのかもしれません。
誰にゆだねるのでもなく、自身をゆだねるだけの己を創らねばならない。(ということは、ある意味、先にやるか? 後にやるか? という違いなのかもしれませんね)
このような過程で、人との関わり合いの中で「親密性」を育てること、親密な人間関係や世界との関わりを築くことが大事で、逆に、これに失敗すると、「孤独」を膨らませることになりそう。
この関係は、同性・異性に関わらず、広い意味での特定の他者に対するもので、友情、愛、性的なもの、いろいろな関係・親密さがあるように思います。
ただ、やはり、異性との関係の中における「親密性」はそれなりに重要な意味を持つようです。(異なるもので補い合う、っていうのは意味深いですよ)
また、これらの関係は、互いのアイデンティティーの融合に裏づけされていることが望ましいようです。
アイデンティティーが確立されていない場合、相手に依存したり、頼りすぎたり、あるいは支配したり、対等な関係が築けないかもしれません。(また、未成熟が未成熟を呼ぶという、悪循環が生じる場合も)
ここでも両者の対立の中で、「親密性 > 孤独」となることが望ましく、今、「親密性 < 孤独」で不安であったとしても、自分というものを確立し、それを他者との中で表現したり経験したりするうちに、互いのアイデンティティーを尊重しながら、「親密性」を育てることができれば、「親密性 > 孤独」と変容することができ、親密性が孤独を癒すことになる。
ただ、己を確立してゆく人というのは、少なからず孤独を経験するもので、そんな中で、できるだけ破壊的にならないように、根本的な破壊を避けながら、孤独の中で、何かを創造することになるのだと思います。
関連記事:「死と再生と、象徴と/考える人 河合隼雄さん」
ページの先頭に戻る
(7) 『壮年期』
壮年期には、「世代性 vs 停滞性」という要素が対立します。
「世代性」とは、次の世代を育む(はぐくむ)という作業に積極的に関与する、関心を高める、というような意味ですが、それは、自分の子供を育てることも、職場や何かの集団で 次の世代を育てるということも、含まれます。あるいは、自分自身が深めたものを次の世代に託す、といった意味もあるかもしれません。
この「世代性」を持てないと(次世代を育成することに関心が持てないと)、個人的にも社会的にも、「停滞」してしまう傾向があるようです。
また、世代性を持つには、自分自身が確立されてなければならない。ある程度、自分を確立していなかったり、深みを持っていないと、それを次の世代に託せないだろうし、それ以前に託そうと思わないかもしれません。(乱暴な言い方をすると、託すもの自体がない)
これは職業的な意識もそうですし、社会的な意識、家庭的な意識、もっと個人的な意識もそうかもしれません。それらを含めて、私というものを確立し、ある程度カタチにしてから、それを次の世代に託そうとするのでしょう。
(内的にも外的にも自分自身の価値を高め、その価値あるものを次世代にバトンタッチしてゆく)
この時期には、いわゆる「中年の危機」といわれるような問題が顕在化してくるようです。
@『いろんなものに限界を感じ始める』
体力の限界、能力や可能性に対する限界、若い頃描いていた理想像への限界、いろんな意味での時間的な限界――それらを感じ始める時期かもしれません。
また、その為に、自分の人生を問い直したり、アイデンティティーを再確立しようとしたりする傾向もあるようです。その過程で悩み、鬱(うつ)などの症状を発症することも、あるかもしれません。
ただ、別の見方をすれば、そういう症状を通してでも、今までの人生を見直すことや、アイデンティティーを再確立することが望まれているのかもしれない。それは、その人なりの、「その時」なんでしょう。
A『自分の内なる異性との折り合いをつける(アニマ・アニムスとの対決と統合)』
目立って欠けている傾向は、無意識内の異性であるアニマ・アニムスと結びつきやすいのですが、この時期には、前へ前へと進んでいたものが、ある意味、下ることも余儀なくされ、自分が置き去りにしてきた面(生き方)に関心が行き始めます。
そういった意味で、アニマ・アニムスと対決し、統合していく時なのかもしれませんね。今まで生きられなかった半面と向き合うことが要求される。
壮年期には、今まで未解決だった課題が再現されやすく、そういったものと向き合うことを余儀なくされる部分が大きい。(ある意味、それだけの余裕や資格が得られた、とも取れるでしょうか)
そして、それゆえに、危機に陥りやすいのかもしれません。
そんな中で、
・限界と(アイデンティティーの)再確立を経験する
・内なる異性(アニマ・アニムス)との折り合いをつける
・今まで関わってきたものと分離してでも感じられる、私というものを確認する
(家庭や職業を切り離してでも、私というものを感じられるか否かの確認)
・次の世代を生み出すという、創造性への移行
―― などが要求されるようです。
そういった、今まで生きてこなかった部分を生きることを、要請される時期なのかもしれませんね。
ページの先頭に戻る
(8) 『老年期』
老年期には、「自我の統合性 vs 絶望」という要素が対立します。
この時期には、今までの人生を振り返り、良いことも悪いことも含めて、私というものや私の歩んだ人生を受け入れていくことになります。
これから訪れるであろう死や、今までの自分を受け入れていくことと、次の世代に関心をもって生き続けることが、「自我の統合性がとれた状態」といえるでしょうか。
逆に、それができない場合、絶望の淵に陥ることになるかもしれません。
死は恐怖に満ち、今までの人生を後悔しながら、絶望的になってしまう。自分の人生を生きること、自分の人生に意義を見出すこと、それらが出来ていないなら、どうしても絶望的にならざるを得ない部分があるでしょう。
「老年期」を、老衰や衰退といったマイナス要素のみで受け入れていくか、それとも、そういった要素もあるものの、円熟や英知、智慧、成熟といったプラス要素も含めて受け入れていくか、それはそれまでに「乳児期」から「壮年期」までを如何に生きたか、ということにも関連してくるのかもしれません。(それまでに、如何に自分を確立できたかが重要になってくる)
ただ、老年期に差し掛かったときに、十分な生き方を出来ていないから駄目かというと、そうではなくて、それまでの段階と同じように、もう一度生きれなかった部分を(ある意味、前の段階に戻ってでも)生きる事ができればいいのだと思います。(それが難しいとしても、です)
人間の時間というのは、必ずしも外的に流れる時間と同一ではなく、ある瞬間瞬間においては、とてつもなく濃縮したりもするんでしょう。
そんな内的な時間も持つ人間ですから、老年期に差し掛かった時といえども、あるいは、何らかの理由で先が見えていたとしても、その人なりの濃縮した時間を過ごせないとはいえません。
この段階に限らず、前の段階を十分に生きる事ができていなかったなら、それまでを振り返って、それを補うだけの生き方をしたり、再確立したり(あるいは、そのために壊したり)、そうしながら、良いも悪いも含めて受け容れられればいい話です。
そして、人生の最終段階で、「自我の統合性 > 絶望」となっていればいいのだと思います。
(誰の人生でもない、自分の人生です。過去や今を嘆いて過ごすか、過去に戻ってでも必要なものを補ったり、再確立して、新しい未来を創造するか、それは自分次第。そして、少しでもその助けになろうとするのが、心理学であったり、カウンセリングの技法なのだと思います)
ページの先頭に戻る
おわりに…
以上、ライフサイクルについて述べてきたわけですが、人の生き方に明確なモデルはありません。早熟な子もいれば、大器晩成な子もいます。回り道するする人だって、当たり前にいるでしょう。
したがって、(乳児期はともかく)その発達の時期が、一般とずれるのも、ある意味、当然かもしれません。(とはいえ、気になる方は、思い悩むよりは、発達心理学などの専門家に相談すればいいと思います)
また、上記の例――エリクソンのそれ――は、あくまで西洋のモデルであって、日本のモデルとは違っている事も、心に留めておいたほうがよさそう。また、男性の立場から見たものであることを鑑みると、女性のある段階段階が、抜け落ちているともいえるかもしれません。
ですから、違っている部分があっても、ある意味当然。こういうものは、時代や文化に左右されます。そして、もちろん、個性にも左右されますしね。
というわけで、あまり公式的に扱ったり、そこに押し込もうとするのではなくて、柔軟に対応することが望まれるようです。
それに、各成長段階の課題をクリアできていないから駄目だというのではなくて、それを頼りに、何とかやり直していく方が、建設的ですしね。目詰まりがあれば、それを掃除すればいい。あきらめない限り、「遅すぎた」なんてないんでしょう。(一度あきらめたって、次に始めれば、それでいいんだし)
固定したモデルがない以上、やり方も千差万別です。何がいいって正解がない代わりに、自分だけの正解もまた創り出せそうです。(まあ、そういう意味では、一種の羅針盤として使えそうですね)
前述したとおり、日本人はアイデンティティーの問題に直面することなく、成人している場合が多いようですが、だから駄目だというのではなくて、それを踏まえてどうするか? ということが大切になってくると思います。
それぞれの時代、それぞれの人が、その人なりに、生きてゆけばいい。
順番は違っても、各段階の課題に、少しずつでも取り組めばいい。枠に押し込んで、その中の人間を殺してしまっては、意味ないですもんね。
そして、老年期の課題が、自分を受け容れる作業であるように、失敗も成功も、良い部分も悪い部分も含めた、そんな自分を受け容れていけばいいのだと思います。
ページの先頭に戻る
基本的信頼 vs 不信
人間の生きる基盤、「基本的信頼」は乳児期に「満たされる」ことによって形成されます。
赤ん坊がおしめが濡れて泣き、それを取り替えてもらうことで、
お乳を欲しがって泣き、与えられることで、
人肌を恋しがって泣き、抱いてもらうことで、
何かを不快に感じて泣き、それを取り除いてもらうことで、
そうやって満たされ、少しずつ基本的信頼を獲得してゆく。安心していきます。なんせ、赤ん坊は自分では何もできませんからね。当たり前に。
したがって、泣くことなどで表現し、誰かに「それ」をしてもらうことになります。してもらうことで安心し、基本的信頼を育ててゆく。
で、逆に、あまりに満たされない事が続くと、「不信」を抱く(育ててしまう)ことになってしまいます。
まあ、まったく全部満たされるなんてことはあり得ないわけですが、あまりに「基本的信頼<不信」になってしまうと、不信が増大してしまうわけですね。
不信の方が勝っちゃうわけです。そして、他のものまで信じられなくなってしまう。
それではあまりに、生きづらい。
☆
で、上記のように乳児期に形成された不信は、人間の成長と共に育っていくことになります。しかも、「基本的信頼<不信」の状態が続くので、満たされない思いは、積もりに積もることになる。
欲しいものが与えられず、
いらないものを押し付けられたり、
欲しくない時に限って何かを用意されたり、
いつも理解されず、
○○のため言ってと、自分(養育者)の思う○○のためを与えられ、押し付けられ、
不要なものを与えられたり、
時には、負担を与えられるかもしれません。
――別に、いつも、全部がそうだとは思いません。しかし、上記のようなものが勝ってしまうんですね。トータルで見た場合。
また、こういうことは誰しもあることだとはいえ、その程度が大きいとちょっと困る。一般的という程度を超えると、負担大です。(それを簡単に、「誰にでもある」で片付けられると、傷つくわけですね)
しかも慢性化したりするわけですから、こりゃもう、しんどいですよね。不信が育っても当たり前だし、不安やイライラが育ったとしても、当たり前のように思います。積もりに積もっているわけですから。
で、相手や周囲はというと、自覚がありませんから、修正もされません。「何故?」はあっても、態度を修正することは なかなかない。
☆
でも、だから親や養育者がすべて悪いのかというと、そうでもありません。
その、親や養育者も、十分与えられた経験がなかったりするんです。
自身が十分に満たされた経験がないから、子にそれをしてあげることができない。
そりゃそうですよね。経験してないことは、してやれません。基本的に。(それを知らないんだから)
ですから、そんな親や養育者も、むしろ同じように、満たされない仲間でもあるわけです。(この辺が複雑ですわな)
簡単に親や養育者を責めて済む問題ではありません。(責めたい気持ちを押し殺すこともないですけどね)
☆
で、何が大事になっていくかというと、この「満たされなかったもの」を「いかに満たしていくか?」ってことなんでしょう。自然の理(ことわり)として、腹が減れば欲しがるし、お腹いっぱいになれば欲しくなくなりますからね。
欠けていたものをだんだんと自覚し、それをどう満たしていくか? それが鍵になる。
で、悩みなんかの側面は、その「どうやって満たしていくか」の答えを得るまでの葛藤だったりするんでしょう。(まあ、一面として)
ツイート
関連記事:「たいしたことない? たいしたことある?/あふれる水」
ページの先頭に戻る