『第9の段階』
今までエリクソンのライフサイクルについて、いろいろと書いてきました。一番初めのコンテンツでは、乳児期から老年期まで8つの段階に分けて、私見ながら解説した。(「エリクソンのライフサイクル成長の8段階」)
おそらくそこで思ったであろうことは、「人間は何歳くらいにどの発達段階に達するのだろう?」ということ。ある人は(過去を含めた)自分のことを考え、ある人は我が子や身近な子(人)のことを考え、○歳のわたしやあの子(あの人)は、どの段階にいるのだろうか? そう思ったのではないでしょうか。
エリクソンはそれについて、「人間が何歳頃にどの発達段階に達するかには大きなバリエーションがある」と言っています。(P151)
つまり、生まれた瞬間は別にして、各人がいつ頃どの発達段階に入るかは、人それぞれであると。なので、年齢を細かに設定するのは妥当ではないというのです。
もちろん、だいたいの傾向はありますから、何歳から何歳と書けなくはない。海外のサイトを見ると、明記しているところもありました。が、あまりにそれに固執すると、「実際はどうなのか?」という視点が疎かになるおそれもあります。なので、○歳だからこの段階なのだろうというよりは、それを踏まえつつも、実際の人間が何に取り組んでいるか? とか、そういう部分にも目を向けたほうがいいと。身体と同じく、心や各段階も、早熟だったり奥手だったりというのは、当たり前に存在すると。
こういうことを前提に置きながら、エリクソンは敢えて、第8の段階である老年期において、ある年齢幅を特定しました。その時期特有の生活体験や危機を浮き彫りにするために、時期を設定し、焦点を当てたのです。
その時期とは、80歳後半から90歳代。エリクソンによれば、この時期にはそれまでとは異なる新たなニーズが現れ、見直しが迫られるといいます。最晩年になって、新たな生活上の困難が訪れると。
これが新たに付け加えられた、第9の段階ということになります。
当然この時期になると、身体は弱り、言うことを聞かなくなってくる。どんなにケアしても避けられない老いが、そこにはあります。「今までとは違う」とか「当たり前にできていたことができない」とか、そこで人は少なからず絶望を味わうことになる。自分の身体をコントロールすることができない。その事実が、自尊心と自信を傷つけてゆきます。
エリクソンはある時、「八つの発達段階の記述がほとんどいつも、まず最初に同調要素が述べられ、次に失調要素が述べられる」という点に気づきました。例えば、「信頼 対 不信」「自律 対 疑惑」のように、相対する要素は、まず調和のとれた要素が述べられ、次にバランスを失った状態が述べられます。
エリクソンのいう「同調要素」は、成長と拡大を支え、時に目標を与え、自尊心やコミットメントを贈ってくれます。そして、我々が「失調要素」にさらされる時、この同調要素が支えになる。例えば、不信という問題と対する時、それと相対する信頼が、支えになる。
もちろん、各段階において、同調要素の方が勝っていることが望ましい。けれど、我々は、必ずしもそうならないことを知っています。どこかの発達段階で、どうしても失調要素の方が勝ってしまうようなことが起こる。
ただ、エリクソンは、以下のようなことも言っています。
葛藤と緊張が、成長と強さとコミットメントを生み出す源泉であることには変わりないのだが。
(P152)
シンプルな理想をいえば、例えば幼児期においては、「基本的信頼」だけで満たされていればいい。しかし、現実問題として、それは困難であるし、また、「不信」が絶対悪かというと、そうでもありません。
「誰でも信頼してしまう人」、そういう人は、危うい。世界中の人間すべてが信頼に足る人であるとは限らない以上、無条件に誰でも信頼するというのは、現実問題として、危ないですよね。例えば、世の中には、詐欺行為を働く人もいるから。なので、不信だって必要で、持っていないと困る。
ただ、割合という問題がありますよね。不信もなくてはならないし、あって悪いものではないですが、一番最初のコンテンツで繰り返し書いてきたように、「基本的信頼 > 不信」の状態が望ましいのです。人は受け容れられていないと、そして自分のことを受け容れていないと、なかなか生きにくい。
(参考記事:「自分を好いてくれる人を好きになれない理由/Q〜わたしの思考探究〜 泉谷閑示」)
さらに、同調要素と失調要素との葛藤は、単に苦しいだけでなく、その先には得られるものがあるという。
さて、ここで今一度、各発達段階を振り返ります。そして、第9の段階の老人が、どのような同調要素と失調要素に直面していくのか、どのような緊張に対処していかねばならなくなるか、各段階ごとに見ていきましょう。
「基本的不信 対 信頼:希望」
ライフサイクルについて書いた最初のコンテンツで触れたように、基本的信頼は、すべての人間の土台です。これなしに、人間は生きてゆくことができない。生まれた瞬間の乳児は、ひとりで生きてゆくことができません。なので、身近な人たちに愛されねばならない。また、逆に言えば、こうして今生きている我々は、身近な大人に愛され、ある程度以上の基本的信頼を得ているともいえるのでしょう。
基本的信頼があるから、我々は人を信じ、明日に希望を抱くことができます。もちろん、上で述べたように、不信だって必要な要素です。ただ、あまりに大きすぎると、生きるのを不自由にする。何かの経験で不信を植え付けられ、それが育ってしまうと、そいつは我々からいろんなものを奪っていく。そしてそれがあまりにも大きくなると、明日という日を信じられなくなることも。
老人は自らの能力に不信感を抱かざるを得ないと、エリクソンは言います。身体はどうしても、不自由になってくる。みなができて、自分もできていたことが、だんだんとできなくなります。目を逸らそうとしても、それからは逃れられない。多かれ少なかれ、日々の生活の中で、屈辱を味わうことになります。将来に対する期待は次第に影を潜め、それとは逆の、絶望と向かい合うことになる。
しかし、老人はやがて、受容することを覚えます。太陽がそう動くように、人間もまた、昇った後に沈むのだと、だんだんと悟る。また、沈んだ後にある次の日の出を、知ることになります。
エリクソンは言いました。「光ある限り希望がある。どんな朝にもまばゆい光と啓示があるが、それが何をもたらすか、誰が知っていよう?」
「恥と疑惑 対 自律性:意志」
守られるだけだった赤ん坊も、やがて、自分で動こうとするようになります。何かを持とうとしたり、自分で歩こうとしたりする。だんだんと「自分でする」ことを覚えていきます。この頃は、その練習といったところでしょうか。
座って手足をバタバタさせるようになり、這うようになり、立つことを覚えて、やがて歩き出します。そしてここから、いろんなことを試みるようになる。自発的行動が、見られるようになります。これはいわば、自立の土台。自分ひとりでやることを、だんだんと練習し、覚えているのです。
が、そこは幼児であるし、練習段階。何かしらの失敗はつきものです。やり方も当たり前に稚拙なので、親の方は心配したり、あれこれ口出ししたくなります。
けれど、これを「自立の土台」と考えた場合、やはり、「見守る」ことや「まかせる」ことが大事になって来ます。子どもはいろいろと失敗しながらも、ひとりでやろうと試みているのです。なので、いちいち口出ししたり、手を貸すのは、子どもの自発性が育つのを邪魔することになりかねません。
子どもにしてみれば、こういった段階の成功体験が、その後の糧になる。また、自分でやろうとしているのを見守ってもらった体験も、その後の人生の「だいじょうぶなんだ」という感覚につながることでしょう。
自律とは、「他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること」をいう(三省堂「大辞林」)。
ただし、この時期はあくまで練習段階。よって、「度を越えてコントロールを失うと、不安定な状態に後戻りし、自信を失い、自分の能力に対する疑惑と恥の感覚に襲われる」(P154)ことになります。
老年期にも、「自律性 vs 恥と疑惑」の問題が再燃するという。
人は生まれ、思うように動けなかったのが、だんだんと動けるようになってきます。が、昇った太陽は下るのが宿命。思うように動けていた人も、だんだんと思うようには動けなくなってくる。
つまり、自律性をだんだんと信じられなくなります。そしてこれは、疑惑につながるでしょう。今までできていたことができなくなるので、恥の感覚まで持つようになる。さらにこれらは、自分で何かをやり遂げようとする「意志」まで挫くようになります。
自分を自分の思うようにコントロールしたいという、自律性。しかし、歳をとると、自分の力だけで全部やるのは困難になってくる。すると今度は、幼児期とはまた違った形で、周りにあれこれと口出しされるようになります。そしてこれが、人の気持ちを挫くんですね。自律性を萎(しぼ)ませ、恥と疑惑を植え付けてゆく。
「罪悪感 対 自発性:目的」
他からの影響を受けず、自ら進んで行おうとする、自発性。これは、ひとりで示すこともあれば、集団で示すこともある。「自分でやる」場合もあれば、「自分たちでやる」場合もあります。親や先生といった大人から離れ、自分たちでルールを決めたり、自分たちで何か活動をはじめたりする。誰かに言われて、ではなくて、自分たちで、ですね。
若い頃、上昇の期間は、自発性が誇らしいものに思えます。何の疑いもなしに、エネルギーを受け取ることができる。しかし、80歳を過ぎてくると、違ってくるのだという。自発性に伴う熱狂は既に過去のもので、そこにあった「度が過ぎていたもの」や「冷静さを欠いていたもの」に気づかざるを得なくなる。
熱狂のまっただ中にあった時は気づかないのですが、一歩下がることで、罪悪感が芽生えてくるのです。また、それは自発性に待ったをかけることになり、目的も見失わせてしまう。
「劣等感 対 勤勉性:適格」
物事に一生懸命に取り組む、「勤勉性」。また「適格」とは、必要な資格を満たしていること。社会で生きる上で、この2つは欠かせないものかもしれません。少なくとも、評価の対象となる。
勤勉性も適格性も両方持ち合わせていた人でも、歳には勝てません。やがて能力もエネルギーも、停滞してくる。これは避けられない現実なのです。いろんな面で、昔のようにはいかなくなります。
自分が適格か疑問を持たざるを得なくなり、また、昔のように一生懸命取り組むことも難しくなる。なのでどうしても、劣等感というものも出てくる。
「同一性混乱 対 同一性確立:忠誠」
わたしはわたしであると確信できる感覚、「同一性」。他とは違う自分であるという認識。これは自分、それは自分でないと、明確に分けられること。
こういった課題は、主に青年期になされます(なされなかった場合は、後でやり直しますが)。「わたしは何者で、何になろうとしているのか?」と、まずは漠然と考えるようになる。また、自分の考えるものと他者の考えるもの、両方に目をやることにもなる。「わたしは何者だろうか?」そして「他者はわたしをどのように捉えているのか?」と。
外面的には、「役割」があります。これは形あるもので、人にも説明しやすい。「わたしは○○です」と、具体的に言うことも可能です。これはユング心理学でいうところのペルソナでもあり、ある人は職業名、ある人は所属する団体名、好み、服装、学派など、いろいろあるでしょう。これらが同一性の代わりになることもあります。
が、「わたしは何者であるか?」という問いに満足する答えを与えるのは、むしろ形のないものかもしれません。それは「わたしは○○である」と胸を張って言える「感覚」だと。
例えば、85歳を過ぎた時に、何と呼ばれるだろうか? 若い頃は、地位や役割があって、その名で呼ばれていた。しかし、それは、永遠に続くものだろうか? 役割がなくなった時、何という名前で呼ばれるだろう?
こうして、曖昧だった同一性の問題が再燃するのです。ペルソナを置いた今、仮面に下の「それぞれのわたし」と向き合わざるを得なくなる。そうすると人は、混乱するかもしれません。
「孤立 対 親密性:愛」
人は人と出会い、親密性を育てる。相手の中に自己を見出し、充足を得ます。やがて家族となり、子どもも生まれるでしょう。その子もいずれは独り立ちし、自分の人生を歩んでいく。
しかし、すべての人がそうであるわけではありません。思い出の中に生きようとしても、その思い出がない人だっているのです。そしてそれらの埋め合わせとして選ばれる傾向にあるのが、芸術や文学、学問に対する徹底的な傾倒であるという。
第九の段階に入ると、多くの場合、今まで馴染んでいた関係の持ち方が維持できなくなるという。無能性と依存性が、暗い影を落とすというのです。能力はどうしても衰えてくる。どうしても誰かに頼らざるを得なくなる。
こうして前とは違ってしまった人を前にして、周囲の者も困惑するでしょう。前と同じやり方をするわけにもいかず、どうしてよいか分からなくなる。この「ぎこちなさ」が、親密な交流のチャンスを老人から奪い取ると、エリクソンは言っています。さらに、交流範囲も、それまでと同じとはいかなくなってくる。
「停滞 対 生殖性:世話」
「生殖」とは、うみふやすこと。これは家族の面でもそうであり、仕事の面でもそうです。子どもを産み、育てる。他の意味でも、人を世話し、育てる。広い意味で「つなげる」と言ってもいいかもしれませんね。
故に成人期は、忙しいのが常です。人を世話し、義務と責任を負うことに、忙殺される。それらにまつわる様々な場面(行事、冠婚葬祭、式典など)に参加することを強いられるでしょう。これらは本当にたいへんなことでもありますが、ただ、それだけでもない。有形無形の得られるものがあるので、何とかやり通すことができます。世話する喜びが、そこには少なからずあると。
しかしやがて、それにも卒業の時が。子育てからは解放され、所属していた職場も去ることになる。これは、世話することからの解放を意味します。ある意味、自由になる。けれどその一方で、老人は、期待されなくなった感覚や、必要にされていないという感覚、役に立たないと宣告されたのではないかという疑惑まで、持つようになってしまう。これらが、停滞の感覚を呼び起こさせます。
ただ中には、昔と同じではないという現実を受け入れつつ、別のカタチで「何かを生み育て、世話する」ということを見つける人もいるようです。もちろん、歳をとって世話されることも多くなるのですが、別の部分で、世話することも続ける。
「絶望と嫌悪 対 統合:英知」
エリクソンは、下記のような主張をしている。
「英知」の最終的な定義の中では、我々は、英知は、見て覚える力の中に宿るとともに、聴いて覚える力の中に宿ると主張する。また、統合は、触覚(tact)、触れ合うこと(contact)、触れること(touch)を要すると主張する。
(P162)
英知、優れた知恵や深い知性、エリクソンの言う「死そのものに向き合う中での、生そのものに対する聡明かつ超然とした関心」。それには、見ることと聴くことが不可欠であると。さらには、統合には触れるという要素が必要だという。しかし、老人は、良好な視力も鋭敏な聴覚も持っていないのが普通です。
そこで出てくる失調要素である、「絶望」。しかし、この絶望も、第8段階と第9段階では、その意味が違ってくるといいます。第8段階の問題は、今までの人生を受け容れられるかどうか。その際、後悔があまりにも勝つと、絶望してしまう。もう、やり直しの時間は短いので、絶望せざるを得なくなります。
しかし、これが80代から90代になると、また変わってくるというのです。この頃になると、もう回想もしておれなくなり、もっと実際の問題に関わることが多くなってくる。能力の喪失や崩壊が、関心の全てとなってくるというのです。エリクソンはこれを「贅沢な回想的な絶望などしてはいられなくなる」と表現している。(P163)
さらに第9段階の老人は、たくさんの喪失体験を経験しているものです。遠い人、近い人、家族に友人、多くの人との別れを経験してきている。そして今、自身も旅立とうとしています。
そう考えると、何と過酷なんだろうと思えます。生き抜く手がかりなど、ないように思える。しかし、エリクソンは、そこにも希望があるという。頼るべき確固とした足場があると、主張します。それは、基本的信頼。生まれて初めて向かい合う対立命題、その同調要素です。
基本的信頼という土台がないと、我々は生きてゆくことができない。しかし逆にいえば、これがあることで生きていけると。この人間の土台は、人を決して裏切らない。そして、基本的信頼 vs 基本的不信という葛藤から生まれるのが、「希望」という人間的な強さ。
エリクソンは言う。
基本的信頼感のない人生はほとんど想像することも難しい。もしあなたがまだ、生への願望や、更なる恵や光となるものへの希望に満ちているのならば、あなたは生きる理由を持っている。もし老人が第九段階の人生経験に含まれる失調要素を甘受することができるのならば、老年的超越性(gerotranscendence)に向かう道への前進に成功すると、私は確信している。
(P164)
エリクソンは、個人のライフサイクルは社会的文脈と切り離しては十分に理解できない、と主張する。個人と社会は、綿密に関係しあっていると。ということは、個人の人生の一部である第9の段階もまた、社会と深く関わっているのでしょう。
これは、何を意味するか?
老年期が社会に理解されない時、老人は排除され、無視され、見落とされてしまう。そうなるともう、英知を生み出す者ではなくなり、恥のみが表面化してしまうでしょう。ただ、逆もまたしかりで、老人の多くが英知を生み出すことを放棄した時、社会は彼らに、恥や絶望しか見出せなくなってしまう。
このように、老人と社会は、相互に作用しあっているようです…。
次回は、「老年期とコミュニティ」について…
<チェックシート>
・何かができないということを受け入れられるか?
(それが悪いことだと、錯覚してないか?)
・何かをコントロールできないという現実を受け入れられるか?
(万能を求めすぎて、苦しんでいないか?)
・自分と自分ではないものを、明確に分けられるか?
・地位や役割以外で、「それがわたし」だと言えるものがあるか?
・以前とは違う自分を受け入れられるか?
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