【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、E.H.エリクソンの「ライフサイクル、その完結」より、紹介をします。
ここでは、「成人期」と「前成人期」について。

『成人期・前成人期』



老年期の前にあるのが、成人期。その前にあるのが、前成人期(early adulthood)になります。


【成人期】

成人期の対立命題は、「生殖性 対 自己‐耽溺と停滞」(generativity vs. self-absorption and stagnation)

生殖性にはもちろん、子孫を生み出すことが含まれますが、それだけではなく、創造性や生産性も含まれます。新しいものや新しい考えなどを生み出すことも含まれる。つまり、ここでは、広い意味で「生み出す」ことが問題となります。

一方、耽溺(たんでき)とは、一つのことに夢中になって、他を顧みないこと(大辞泉)。一般的には、よくないことに熱中する場合に使われます。また、停滞とは、動きが滞って先に進まなくなること。

生殖性 対 停滞でいうと、活力があり多くを生み出す様と、活力が衰え生み出すことがなくなる様が、対立します。この段階にある人は自らに問うかもしれません。「何か価値あるものを生み出せるだろうか?」

しかし、創造する人に停滞はつきもので、何かを生み出す人は、生みの苦しみを経験するものです。いつも何かが湧いてくるわけではありません。停滞があってこそ何かが生まれるともいえる。

そしてこの対立命題から、「世話」(care)という人間の強さ(エリクソンの言うところの「徳」)が現れます。生み出す人は、生殖性と停滞との葛藤の中で、世話することを覚えるのです。生み出す→大切にする→世話する。

人にしろ、物にしろ、生み出したものに対しては、ケアする必要が出てきます。生み出さない時にはこの必要は生じませんが、生まれたものはケアしないと維持できないし、育たない。

生み出す人は、次に、ケアする人になるのです。

そしてエリクソンは、その前のすべての段階の「蓄え」が、生み出すことにつながっているのだと、教えてくれます。

ただ、すべての人が生殖性に成功するわけではありません。これに失敗した時、人は、疑似の親密性を半ば強迫的に求めたり、あるいは、自己像への強迫的な耽溺という形で、退行するといいます。また、退行するということは、前に進まない、つまり、停滞感を感じるということに、つながってしまう。隙間を埋めるのに必死になる一方で、どうしても、それを感じずにはおれません。


さて、物事には何でも裏表があるように、世話の対立要素も、存在するようです。エリクソンはそれを、「拒否性」だとしました。すなわち、特定の人や集団を、自分の生殖(生み育てる)関心の中に含むことへの嫌悪感が、それに当たります。世話の反対の、世話したくないという気持ち。

ただし、世話するということは、特定の何かを世話するということであり、それは同時に、他は世話しないということでもあるので、難しいところです。多くの人間はスーパーマンでも聖人君子でもないので、すべてを世話することはできません。逆に、すべてを世話しようとして、結果、誰も世話できないことだって、ある。

この難しさを意識しながら、その葛藤を超えて何かを世話するということが、望まれているようです。怖いのは意識しないことであり、それは理想を提唱しながら何も実行できないことや、何かを世話する一方で他の何かを拒否性により虐げることにもつながりかねません。

では、拒否性は完全に抑圧すべきか? これも難しいところです。前述のとおり、すべてを受け入れていては、世話することが困難になる。また、拒否性をあまりに抑圧しすぎると、やがて自己を抑圧する危険まであるといいます。何かを拒否したいという衝動や本能は誰しも持つので、それを否定しすぎることは、人間そのものをも否定することにつながるかもしれない。

拒否性を無条件に肯定することはできない。しかし同時に、拒否性を無条件に否定することもできない。そんな中で、我々は答えを出さねばなりません。





【前成人期】

成人期の前には、前成人期が存在します。さらにその前には、乳児期から青年期までの各段階が存在し、それらを経た者が、この段階に辿り着く。

青年期に同一性を獲得した者は、相手を探すようになり、そこで(自分の)同一性を(相手との)親密性の中で、融合させるようになります。そこで同一性を確認し合ったり、共有したりしながら、同時に、補い合ったりもする。ただし、人と付き合うことには影なる部分も生じ、そこに犠牲や妥協というものもまた、出てくる。

前成人期に存在する対立命題は、「親密 対 孤立」(intimacy vs. isolation)

エリクソンは孤立について、「誰からも離れ、『誰からも目を向けられぬ』状態にあることへの恐怖」だとしています。(「ライフサイクル、その完結」P94)

(状態ではなくて、状態への恐怖だとしているところが、興味深い)

そして、対立命題の葛藤や敗北は、退行を呼ぶ。この場合、同一性の獲得へ一度戻ったり、あるいは、パートナーを獲得する前に、一番初めに確認しなければならない「最初の相手」との愛情の確認、という仕事を強いられるかもしれません。また、それを拒否することで、状況はさらに混沌とする可能性もある。

とはいえ、親密と孤立の対立が何も生まないわけではありません。ここでは、「愛」という人間的な強さが生まれるといいます。親密と孤立の葛藤に何とか耐え、それが一応の解決に至った時、愛が生まれるというのです。

エリクソンは愛について、「男性・女性という分割された機能や役割から必然的に生ずる対立関係を解決しうる、成熟した献身の相互性である」と言っています。

違った性質を持つものが対立や葛藤を通し、やがて互いを認め補い合う。ユングの心理学でも至る所で出てくるこの関係こそが、愛であるというのです。違うものを同じにしようとするのでもなく、対立や葛藤を隠すでもなく、それを経てこそ、愛が生まれると。

ただ、ここにも裏側や影が存在します。親密性と対をなす不協和特性として、「排他性」というものが出てくる。成人期に拒否性があるように、ここには排他性があります。そして、生殖性には(ある程度の)拒否性が必要なように、親密性にも(ある程度の)排他性が、エッセンスとして必要になる。

特定の相手以外を退けなければ、特定の誰かと親密にはなれません。誰かを選び愛するというのは、同時に、他を退けるということも含みます。ということは、排他性を完全に否定するなら、特定の誰かを愛することをも、否定することにつながる。排他性を抑圧し、選ぶことを悪とするなら、愛は成就しえない。世界への愛はあるにしても、個人の愛は成されません。

エリクソンは言います。「なにものも拒否し得ない、あるいはなにものも排他し得ないという無能力は、極端な自己-拒否と自己-排斥に行き着かざるを得ない(あるいは極端な自己-拒否と自己-排斥の結果としてしかあり得ない)」と。


各段階が次の段階の土台となるように、この親密性は次の生殖性の土台となるといいます。

親密性の獲得と経験は、他者との共有という要素に確信を与え、それをより広い世界にも適用させる。また、広い世界で生きる中で、帰る場所を保証し、さらには一個人の同一性をも確認させる。それぞれの「わたし」は、深く親しい「相手」を通して、「わたし」を確認することができるのです。








<チェックシート>

・何かを生みだしたと誇れるか?
・生み出したものをケアしているか?

・孤立を恐れすぎてはいないか?
・自分と違う誰かを認めることができているか?

・拒否と排他を意識できているか?





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