【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
このページでは、E.H.エリクソンの「ライフサイクル、その完結」より、紹介をします。
ここでは、「超自我と伝承される問題」について。

『超自我と伝承される問題』



「超自我」


「超自我」という言葉があります。辞書には、以下のように記載されている。

【超自我】(大辞泉)
精神分析の用語。良心ともいいうる、内面化した倫理的価値基準に従おうとする動機群。イドの検閲を行う作用をもつ。上位自我。

【超自我】(大辞林)
精神分析学で、イドや自我とともに精神を構成するとされる、良心の機能を営むもの。イドからくる衝動や自我の働きを、道徳・良心などによって抑制し、道徳的なものに向けさせる。

イド【id】(大辞泉)
《ラテン語で、それ、の意》精神分析で、人格構造に関する基本的概念。人間が生まれつき持っている無意識の本能的衝動、欲求など精神的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に支配される。

イド【id】(大辞林)
(ラテン)フロイトの精神分析の用語。リビドーと呼ばれる無意識的な心的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に従う。エス。


無意識的な要素は基本的に、快を求め不快を避けますが、それだけだと社会は成り立ちません。人間は獣ではないので、己を律せねばならない。自我は「意識して○○する」といったものですが、その上位に超自我があって、人間の本能的な衝動などを、道徳・良心・倫理観などにより、抑制しようとします。欲に従いそうになった時などに、「ちょっと待て」と止めさせる。そして、「○○してはならない」とか「○○せねばならない」とかいう風に、倫理に従わせようとします。

エリクソンは、そんな超自我について、フロイトの『続・精神分析入門』から次のような文章を紹介してくれています。

通例、両親とそれに類似する権威は、子どもを教育する際に自分自身の超自我の指示に従う……つまり子どもの超自我は、実際には両親をモデルとしてではなく、両親の超自我をモデルとして形成される。子どもの超自我の内容は両親のそれと同じものになり、このようにしてそれは伝統の担い手になる。つまりこのようにして世代から世代へと伝えられたあらゆる不変の価値判断の担い手になるのである。

(P131)

さらには、このようなことも。

人類は決して現在にばかり生きているものではない。超自我のイデオロギーの中に、過去が、種族及び民族の伝統が生き続けており、この伝統は現在の影響や新しい変化には、ただ徐々にしか譲歩しないのであって、伝統は超自我を通して作用するかぎり、経済的条件とは独立した強力な役割を人間生活において演ずるのである。


我々は今を生き、今を問題とします。あるいは、今を悩み、今を苦しむ。しかしそこには、個人の過去を超えた、伝統のようなものが作用しているかもしれないというわけです。こういう「世代を超えた問題」や「一族の問題」といったものは、個人のカウンセリングの中に現れることもあるでしょう。

各世代は、価値観や道徳観の中で葛藤を生じさせたり、あるいは、一方的に抑圧したり・されたりする。それが対決を生んだり、また、対決まで行かないがために別の問題を生じさせることも。

はじめ我々は、目に見える問題や症状に目を向けるでしょう。そして次に、相手との関係や、布置についても考えることになる。例えばそこに、古い価値観 対 新しい価値観、今までの道徳 対 それを打ち破ろうとするもの、といった布置がある場合、それぞれには、もっと奥まったものがあるかもしれないと。はじめの引用にあったように、道徳や価値観の担い手である超自我のモデルは受け継がれるので、目の前の相手と対決しようとしている人は、自分の内部も含めた、そういった今や伝統といった感さえある、そんなものと対決しているのかもしれない、というわけです。


ライフサイクルのモデルの中で、エリクソンは次のような例を示しています。

想像力溢れるエディプス期と自主性罪責感という幼児期の危機との間のバランスをとるために、超自我は、遊戯性溢れる自主性を封じ込めるとともに、一つの基本的な道徳的方向づけの確立をも促すような、禁止の体系(ネットワーク)を前面に出さざるをえないのであろう。


自分の判断で行動する態度は必要で、育てねばならないのだけれど、やりすぎれば失敗したり傷つけたりして、罪の意識を感じることになる。そこで、どこかでブレーキをも育てねばならない。そこにも、超自我が関わってくると。

このブレーキは人と人の間で育てるものだと思われますが、前述のとおり、相手(養育者)の超自我に影響されます。人が育ち育てられることを通して、超自我モデルは継承されるわけです。





青年期には、アイデンティティの確立が問題になります。何らかの自分になろうとする。またそれを、あふれる空想とエネルギーが後押ししてくれます。これは、既存の秩序を強化する形で現れることもあれば、それに異議を申し立てる形で現れることもある。急進的な秩序を求めることもあれば、伝統的な秩序を求めることもあるでしょう。しかし、それがどんな形であるにしろ、すべてアイデンティティーの混乱を助けてくれると、エリクソンは言っています。

何かになろうとする、何かを求める、何かに向かう、その方向性が、拡散や混乱を避けさせてくれるのかもしれません。それが正しいかどうかは別にして、また、若さゆえの過ちや やり過ぎが存在するにしても、この時期にひとつに向かうということには、意味があるのでしょう。

またこの時、超自我の側に立つのか、それに対抗する側に立つのか、あるいは、保留されるのか、そんな問題も、奥に隠れているのかもしれません。

(そして、青年期にやらなかった人は、後でやることになる。また、それも悪くはないでしょう。単に時期が違うだけです)


エリクソンは次の成人期に、倫理的感覚の誕生の可能性を想定しています。

さらに、この成人期を、「幼児期の道徳主義の行き過ぎや青年期のイデオロギズムの行き過ぎから抜け出してきた成人期」(P133)と説明している。

正しいと思ってきたものに疑問を持ったり、持たざるを得なくなったりして、疲弊したりしながらも考え、対決し、そこで、今までとは違う新しい生き方や倫理観を、生み出す。この辺は、ユング関係のコンテンツの至るところで書いてきました。よくいう「中年の危機」も、こうした側面があります。

また、これは、個人の内面だけの話ではありません。我々は人の中で生きるし、我々に生じている問題にしても、実は、人と人の間で生じている。さらに、前述の超自我の件を考えれば、歴史や伝統というものも、そこに作用していることが分かります。

なので、エリクソンはこんな言葉を送っています。


「汝自身の成長を促すとともに、他者の成長を促すことを、他者に対して行え」(P133)


例えば、社会で暮らす以上、あなたがよくなれば世の中が素晴らしいものになるのかというと、必ずしもそうではありません。みんなが概ねよくならないと、社会はよくならない。

同じように、悩む人自身が成熟したから問題が解決するかというと、残念ながら、そうではありません。例えば、いくら自身が成長し変容しても、その人を煩わせる存在が不変なら、やはり煩わしさは解消されないのです。個人のカウンセリングで、みなの変容が求められるのは、そういうわけ。

しかし、何も希望がないかというと、そうでもない。人が人と接し、人の中で暮らすから苦しみもするのですが、それと同時に、人が変わろうとする時、周囲も変わらざるを得なくなる、といった面があります。そこに因果律を用いようとすると無理が出ますが、結果としてみんなが変わるし、逆に言えば、みんなが変容しなければ個人も――完全には――変容しないということになるのです。

ともかく、人というものを考える時、個人と集団、あるいは、個人と社会、両方の要素が、深く関わってくるんですね。


大雑把にいえば、幼児期には道徳的な課題があるし、それを育てることになるでしょう。また、青年期にはイデオロギー的なものが、成人期には倫理的なものが、問題になる。(あくまで一般論として、です。各個人においては、ズレのようなものはあります)

ということは、道徳性はイデオロギーや倫理の土台になるし、それと同時に、それぞれの特性のポテンシャルを有している。また、イデオロギーの中には、道徳的特性もあるし、倫理的特性が存在する。最後の倫理的段階にしても、そこには道徳やイデオロギーの要素が、内在しているはず。

このように、それぞれはつながっていることが分かります。



今一度、超自我のことを考えれば、それは道徳性や良心を獲得・維持する上で、必要なものなんでしょう。ひとりの人間を、できるだけ健全であるように努めさせる。あるいは、危機から離れさせる。

が、何事も、程度というものがあります。そして、人間から衝動というものを、完全には切り離せない。なので、自我は、上位者たる超自我と本能的衝動との間で、板挟みになります。

この板挟みの圧力が強くなりすぎた時、自我は身動きがとれなくなる。そして、それが何らかの症状となって、表に出てきます。

これはある意味、躾(しつけ)にも似ています。

子供には、「○○したい」「○○したくなる」といった衝動がある。しかし、そのすべてをゆるすわけにはいかないので、身近な大人が躾をすることになります。この衝動と圧力との間で、子供は道徳性や良心を育てる。大仰に言うと、社会に適応することを学んでいきます。

が、逆に言えば、このバランスが著しく外れると、ややこしいことに。

躾は圧力だとして、それを放棄すればどうなるでしょう? あるいは、躾を絶対とし、衝動を無価値だと断じれば、どうなるでしょうか? どちらの方向を向くにせよ、極端な態度は、怖ろしい結果を生みそうです。

そして、このような布置が、個人の内面にもあると。


超自我は必ずしも悪ではなく、必要なものでさえある。が、それは神ではなく、絶対者でもない。この、完全に善でもなく、完全に悪でもないものに対して、どんな見方をし、どんな付き合い方をするのか?

そういった答えを各個人が出すのには、意味があるのかもしれませんね。

また、その過程で揺れるのは、いいんではないでしょうか…




次回は、精神分析などについて…








<チェックシート>

・何か一つの方向に進んだ経験があるか?
・幼児期や青年期とは違う、成人期以降の価値観を持てているか?
・道徳観と、どう付き合えているか?





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