『自我防衛、私と我々、三種の現実(リアリティー)』
「自我防衛と社会適応」
自我が不快なものや不安を回避するため、あるいは、自我が認めがたい衝動や感情を統制するために、防衛機制が用いられます。抑圧や退行、否認や反動形成といったものが、それにあたる。(「防衛機制」参照)
つまり、防衛機制とは、自我の安定のためには欠かすことのできないもの。安定を乱す要素から自我を守る、生まれながらに備わっているメカニズムです。
ある討論会において、防衛機制の持つ社会的・共同的な意味について、論じられたといいます。(1) 防衛機制は、深い相互関係を有する人々によって共有されるものであり、(2) それ故に彼ら個々人の生活および共同的な生活の中で、一つの生態学的な価値を持っているのではないか、ということが問題になった。(「ライフサイクル、その完結」P115)
個人に見られる防衛機制と、共同体の儀式に見られる防衛には、類似点が見られるといいます。個々人の持つ個人的な防衛が共有され、しかも長い期間を経ることで慣習化されて、集団の持つ防衛に変質するとしたら、どうだろう。
基本的に防衛機制は個人のもので、個人に内在する感情や衝動を封じ込めるために使われます。しかし、それが比較的うまく機能しているところでは、集団単位で共有されることも。逆に、この防衛機制が弱体して硬直化し、個人を孤立させるものになると、個人化され内面化された儀式主義と同じようなものになるという。
親と同じような防衛機制を持つ子供は、同一化を通してその機制を用いるのか? それとも、親と同じ危険や怖れを共有し、それに対応するために同じ機制を使うのか? なかなか難しいところです。
うまくいっている防衛機制。それは、表面的には穏やかで、波風の立たない、一種理想の状態かもしれません。しかし、その奥では、防衛によって隠されているものがあるわけで、表面上は穏やかでも、未来の危機を内在しているのかもしれません。未来に起こるであろう問題を蓄積してる、といってもいい。
逆に、防衛機制が弱体化し、中にあるものがあふれ出てきた場合は、どうでしょう?
これはとても穏やかな状態とはいえず、むしろ波風の立つ、危機的な状態。けれど、これを超えることによって正常化が得られるといった、いわば通過儀礼のようなものなのかもしれません。
前者は、表面上は問題がないものの、未来の問題を確定させるようなもの。一方、後者は、表面上は大問題でありながら、根本的な危機を避けるための試練といった様相があります。
なので、表面だけを見て、いい悪いは判断できない。
集団単位で投影を行うというのは、想像しやすいかもしれません。自分たちのことは考えず、あるいは、自分たちのことを考えられないので、身近に敵(己の影を投げかける先)を作って、何でもかんでも非難します。何か理由を見つけては、その他関係ないことや、合理的でないことまで、いっしょくたにして攻撃する。
また、集団で何かを抑圧することもあるでしょう。集団の価値観では罪とされるものなどを、何とか意識に上らないように、抑えつける。
このように、防衛機制というのは、個人で持ちながら、集団でも共有することがあるようです。
「私と我々」
当たり前ですが、集団は個人によって成り立っています。個人が集まって集団になり、それぞれの私が集まって我々になる。
エリクソンは、この「私」( I )という感覚について――正常な時には――中心的であり、能動的であり、全体が統合され、はっきりと気づいている存在であるという感覚、と言っています。
意識の中心として私を感じることができ、自ら動き働きかけることができ、過去から現在に至るまで私は私であると意識が統合されており、はっきりと私というものを感じられる、そんな感覚。
しかし、人間には、自我が認めがたい衝動や感情があって、それがこのような感覚を乱れさせる。そして、防衛機制はそれを抑えるためにある。(健全な範囲で機制が働いていれば、ですが)
我々は個体差を持ちながらも、この「私」という感覚を共通に持っている。そして、ふたり以上がそろえば、「我々」という感覚を共有できます。
「三種の現実(リアリティー)」
エリクソンは、二つの状態を対比させることで、私という感覚の、危機的状況と望ましい状況とを、示してくれています。
・活力を奪われた存在 ⇔ 能動的で自ら動き出す存在
・辺縁に追いやられた存在 ⇔ 中心的で包含的な存在
・押し潰された存在 ⇔ 自ら選択する存在
・混乱し困惑した存在 ⇔ ものごとがはっきり見えている存在
「これら全てが結局、自分の時間と空間の中に安心して存在しているという感覚や、自分が選ぶと同時に選ばれた存在であると感じる感覚に成っていくのである」と、エリクソンは言っています。(P126)
また、人間の発達を人生の段階ごとに追っていくと、問題が見えてくるという。前述の中心性感覚を、各段階ごとに、次第に増加していく他者との関係の中で、再生していかねばならないというのです。
この他者のうち何人かは、極めて親密な存在であり、個々人を認識できる他者です。生活を共有する身近な人。しかし、大多数の他者は、相互関係で結ばれているとはいえ漠然としている他者。互いに現実感覚を共有することによって確固たるものになろうとする、そんな他者だと、エリクソンは言います。
目の前の現実を共有する。あるいは、互いがこう感じたと言い合うことで、感覚を共有する。このようにして、それぞれの「私」と「他者」は、「我々」になる。
成熟しつつある現実感覚を構成する三つの不可欠の成分について、エリクソンは書いています。(P127)
まず、ファクチュアリティ(factuality)。これは、我々が日常的にいう「もの」的な事実の世界であり、最低限度の歪曲や否認を伴って知覚され(最低限度の歪曲や否認しかない状態)、同時にその時の状態(認知発達の段階や、技術や科学の状態)の中で可能な、最大限度の妥当性を伴って知覚されるもの。
些細な間違いや勘違いはあるものの、基本的には――認知発達段階や科学技術、知識などが同程度であるところの――みなが「同じそれ」だと知覚できるもの。疑いようのない事実。
第二に、リアリティー(reality)があります。これは、知った事実を、その本質を我々が認識できるようにするひとつの意味関連にまで高める、説得性のある一貫性と秩序。また、ひとつの言語とひとつの世界像を共有する一団の人間たち全員が共有する真実価値のことであると、エリクソンは言います。
単に事実というだけでなく、現実感というのみでもない。納得できたり、説得力があったり、そんな状態にまで高まったもの。「!」とか「ああ」という感覚があって、それを我々は共有する。
現実のこの側面を表す言葉として、エリクソンは、「了解可能性」や、より視覚的な「意味構造」という用語も、あげています。
もうひとつの現実は、アクチュアリティ(actuality)。能動的で相互作用的な意味合いを有したもの。相互活性化を意味します。他者との関わり合いの中で、自分がここにあるという中心性の感覚を持つことができる。
現実感覚は、ひとりでは持てず、他者との相互活動や相互作用の中で、確認されます。1人は、2人以上であることで初めて、1人を意識できる。
まとめると、(1) ファクチュアリティは、目の前にある事実といったもの。誰がどう見てもそうだという現実。誰もが確認できる、現実。(2) リアリティーとは、単に事実を確認できるだけでなく、事実の本質までもを「!」と受け取るといったもの。(そこには、何らかの内的な体験があるのかもしれません)。(3) アクチュアリティは、人と人との間で感じる、現実性の感覚。
このようなことを考えると、三種の現実のうち、我々はそれぞれ、ある現実には精通し、別の現実にはそうでないかもしれません。
「誰もが確認できる事実」といった現実を大事にする人もいれば、「もっと内的に訴えるような現実」を大事にする人もいる。また、「人と人との間で確認できる現実」を好む人もいるでしょう。そして、どれかには強く、でも、他のものには弱かったり、疎かにしているかもしれない。
そして最善の状態とは、この三つの現実が機能している状態なのでしょう。「証明可能な事実」を認識できるようになると共に、それを見据えることで「意味関連にまで高まったもの」を受け取り共有できるようになり、それらを「相互作用の中で確認」できるような状態だと。
人は初め、ひとりで生まれます。そして、母なるものと分離して接する中で、相手と自分という感覚を、だんだんと育てることになる。また、成長と共に世界は広がり、その中でひとつの定位感覚を所有し、共有することになるでしょう。また、「してもらう私」から「する私」へと育ち、さらに社会性の中で「する私」にも「してもらう私」にもなる。そんな中で、いろんな現実を受け取り、また、共有します。
乳児期は、「してもらう」私。それが自我の発達と共に「する」という欲求をあらわすようになる。そして、共同体の中で、「したり」「してもらったり」することを覚えるでしょう。人生の各段階には、「する」と「される」「してもらう」があり、得られなかった何かにも、それが関わっているかもしれません。
次回は、超自我などについて…
<チェックシート>
・自分を自分だとはっきり感じとれるか?
・自分で選び動けているか?
・自分というものが押しつぶされていないか?
・疑いようのない事実を、ちゃんと認識できているか?
・「ああ!」という感覚を共有できているか?
・人と人の間で、現実を感じられているか?
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