『青年期と学童期』
【青年期】
今まで、老年期 → 成人期 → 前成人期 と遡ってきました。そして、その前にあるのが、青年期。
青年期で問題となるのは、同一性です。
同一性とは――
[1] 物がそれ自身に対し同じであって、一個の物として存在すること。自己同一性。
[2] 人間学・心理学で、人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一をもっていること。自我同一性。主体性。
(大辞林より)
わたしはわたしである、自分は自分であると、確信すること。それには、相手がいります。「1」は、もうひとつの「1」に相対してこそ、己というものを意識できる。
ただ、それにも前段階があって、幼児期や児童期には、同一化があります。すなわち、養育者など身近な大人から、考え方や感情、態度や行動などを取り入れ、学ぶ。いわば、真似のようなものから入るわけです。
そんな中で、自我が育つにつれ、ある部分は肯定し、ある部分は拒絶するようになる。真似から入って、選択するようになり、だんだんと自分というものが形成されてゆくことになります。
そして次には、社会の認証というものが待っている。ある時は、そのままで認証され、またある時は、態度や行動の修正を求められ、その後、認証される。最低限守るべきものや、持っておくべきもの、それらが認証の材料になるとともに、認証の過程で育てられもする。
ユングのペルソナでいえば、適切な態度は褒められ、残される。また、そうでない態度は拒否されたり叱られたりして、排除される。(参照:「ペルソナ│ユング心理学辞典」、「ペルソナとアニマ・アニムス│やさしいユング心理学講座」)
また、各個人も、社会を認証するといいます。一方的に社会が個人を認証するのみならず、社会もまた、(社会に認証されたいという)個人により認証されるのです。
ただ、中には、社会に認められたくないとか、認められる必要を感じないとか、そういう個人も出てきます。そして彼らは、社会に変わる共同体を求め、その一員になったりする。
青年期にある対立命題は、「同一性 vs 同一性の混乱」(identity vs. identity confusion)です。
ただ、同一性を獲得する過程で混乱は経験するものなので、同一性の獲得の中に同一性の混乱も含まれる、といった面もあろうかと思います。そうすると問題なのは、どこで終わるかでしょうか。一応の獲得や確立で終わるか、あるいは、混乱で終わるか。とはいえ、たとえ混乱で終わったとしても、退行からはじまるやり直しが待っていたりするので、厳密には終わりではありません。
同一性、わたしをわたしだと確信する感覚は、どこから来るのでしょうか?
真似から入った幼い我々は、その中でも取捨選択するようになり、真似する相手とは違った わたしになっていきます。相手から学びもしますが、同時に拒否もする。また、各年齢で、役割を与えられ、その役割とわたしというものをも、調和させてゆく。役割に従う部分、そして、反発する部分。このように、相手や与えられた役割の中でも、対立や葛藤が生じ、その中で、わたしが形作られていきます。
逆に、対立や葛藤を避けて真のわたしを作るのが困難であることも、分かってくる。それらを避ける人生もありますが、それはあくまで保留であって、これ以後の段階で、またわたしというもの(自己同一性)と向かい合わざるを得なくなるのが、実情だと思います。
こういうことからも、対立命題が避けられない問題であること、あるいは、必要でさえあることが分かります。
青年期の対立命題「同一性 vs 同一性の混乱」から生じる人間的強さは、「忠誠」(fidelity・loyalty)。
忠誠の対象は、人だったり信条だったりと、いろいろとあるのでしょう。人であるにしても、近い人である場合もあるし、どちらかといえば遠い人である場合もある。
幼児期は身近な養育者との関係で、信頼を育てます。忠誠は次の段階であり、もっと広い世界の中で、自分を導いてくれるだろう人(や考え方)を探すようになります。それに対し、愛着や傾倒を示し、故に心から支持し、行動する。これは義務ではないので心を圧迫することが少なく、むしろ自ら進んでそれをやる。逆に、邪魔するものに対しては、ひどい嫌悪感を示したりもする。
この忠誠と対をなす不協和特性が、「役割拒否」(role repudiation)。忠誠が自ら進んでやろうとするのに対し、頑なに拒否します。
役割拒否について、エリクソンは下記のように説明してくれている。
同一性の形成に役立つと思われる役割や価値と、自己には異質なものとして抵抗し戦わねばならぬ役割や価値とを峻別しようとする、積極的かつ選択的な衝動である。
(「ライフサイクル、その完結」P98)
「峻別」(しゅんべつ)とは、はっきりと区別することや、厳しく区別すること。
青年期、与えられた役割の中で、受け容れられるものとそうでないものを、明確に区別しようとする。ただし、そのすべてが意識的であるというわけではなく、半ば衝動的でさえある。よくは分からないが役割を猛烈に拒否したり、与えられた役割とそれに反しようとする衝動の中で、葛藤状態を経験したりもする。
そう考えると、この役割拒否でさえ、同一性を獲得するために必要な通過点であるような気がします。
が、その際、あまりに役割に対する圧力が強いと、役割拒否の傾向が強くなることは、容易に予測できます。大きな圧力は、エリクソンが上で述べたような衝動を、加速させる。
それによって現れる傾向として、エリクソンは3つ挙げてくれています。1つは、「自信の欠如」で、ぐずぐずしたり気おくれしたりする。2つ目は、「一貫した反抗」。強い圧力に対し、一貫して反抗せざるを得なくなる。そして3つ目が「否定的同一性」(negative identity)で、非行的な行為に走らざるを得なくなることも。
非行に走れば、当然、それを修正し、役割をより強く押し付けることになりますが、その圧力が否定的同一性をより加速するわけで、事態はより深刻なものになるかもしれません。他の生き方を認めないということは、こういうことにつながることもあるようです。
こういったことを経験してまでも、自己は同一性を獲得しようとします。それはもはや理屈ではなく、それを超えて初めから決まっていること、であるとさえ思える。
社会は個人に対し、役割を与えます。また前世代は次世代に対し、役割を与える。時には、強いることもあるでしょう。そんな中で、ある者は役割と調和し、同一性を形成します。またある者は、役割を拒否したり戦いながら、同一性を形成する。あるいは、人は、その両方をやるのかもしれません。そして、その片方が勝ちすぎる時、危機が訪れるので、同一性の獲得には、危機が隣り合わせになることが多い。
しかし、逆に、こういった葛藤をも包含した同一性の獲得という過程があるおかげで、世界が保たれてるといった面もあるのでしょう。なぜなら、硬化した状況は、破滅を招きやすいから。どんなによいものも、同じところに留まると、澱み(よどみ)や歪みを生じさせやすい。それを避けるには流動させることが必要で、同一性獲得の過程で生じる葛藤なり対決は、世界を流動させるという意味においても、大きな意味を持つととれるのではないでしょうか。
同一性の形成は、世界がそうであるように、それぞれの要素が集まった全体性として現れるようです。
生まれ持った性格や身体能力、同一化する身近な人たち、それぞれが持っている衝動の方向、防衛のカタチ、与えられた役割、属する集団や社会、それぞれを徐々に統合するゲシュタルトであると、エリクソンは言っています。
(【ゲシュタルト】一つの図形やメロディーのように、個々の要素の総和以上のまとまった意味と構造をもち、変化・変換を通じて維持される形姿。形態。「大辞林より」)
またこれらは、内部に潜んでいる力とその人が生きる世界、その両方に適応する過程で、現れてくるともいいます。これらは往々にして逆の性質を持ち、故に葛藤が生じやすいのですが、その中からこそ、同一性は現れ、育ってくるという。
前者は限られた仲間内での儀式化を生み、後者は要請された儀式(公的行事)への参加を意味します。その両方との関わりの中で、人は揺れもしますが、やがて己を見出してゆくのでしょう。逆に、片方に囚われざるを得ないような事情ができた時、同一性の獲得が難しくなる。同一性はいわば混沌から生まれるものなので、固定化されたひとつからは生まれないのでしょう。悩み、揺れ、葛藤し、そういった中からこそ、生まれる。それは同一化からの明確な卒業を意味し、また、同一性の獲得を意味するんでしょうね。
実際に社会に出るまで、我々は猶予期間・モラトリアムを与えられます。知的にも肉体的にもそれなりに成熟しますが、義務や責任の遂行を猶予される。その猶予期間中に――本来は、でありますが――いろんなことを試せる。社会は青年たちに比較的自由な時間を与え、その中で彼らは、自己を発展させるいろいろな実験を試みる。意識してそうすることは少ないかもしれませんが、まるで何かに突き動かされるように、各人の何かを試みます。
ということは、逆に、青年たちから自由な時間を奪ったり、発展の可能性のある試みを嘲笑するなら、それは同一性の獲得に、悪い影響を与えるかもしれません。自由は自由で危険をも包含しますが、そこにある意味を忘れると、あとで代償を払うことになるかも。
【学童期】
青年期の前にあるのは、学童期。
ここでは、「勤勉性 vs 劣等感」(industry vs. inferiority)という対立命題が出てきます。
勤勉とは、課題や勉強などに一生懸命に取り組むこと。その中で、予定を守ったり、共同のルールに適応したりということも、学ぶ。この時期の子らは、遊ぶことを愛するとともに、学習することをも愛す。自然な状態にさえあれば――時期や対象にばらつきはあるでしょうが――あふれる好奇心を満たすため、すすんで学ぶ。
しかし、逆に、過度の押しつけや、学習意欲を阻害するものが度々出てくると、学習意欲を萎えさせることになるかもしれません。本来自然と出てくるはずのものが、御節介により歪められることもある。それにより懸命に励むという姿勢が阻害され、また、それを阻害させている対象が余計に頑張ってしまうという、悪循環に陥る可能性もあります。
勤勉性の対立命題は、劣等性の感覚。これがうまく働く場合は、力を引き出そうとする努力につながりますが、そうでないことの方が多いのかもしれません。すなわち、うまくできない子供の活動意欲を萎えさせる。あるいは、極端な競争意欲を掻き立てたり、退行させたりもする。
この時期に現れる人間的強さは、「適格性」(competence)。
適格性については、以下のように述べられています。
成長過程にあるこの時期の子どもの中では、事実性(factuality)を確かめ、それに精通(マスター)する方法や、同一の生産状況の中で力を合わせる人たちを実際に動かす現実(actuality)を共有する方法が成熟しつつあるが、これらの方法全てを子どもの中で徐々に統合していく働きをする感覚が、この適格性なのである。
(「ライフサイクル、その完結」P101)
実際にある物事を確かめること、関わることによって生じる現実を共有すること、それらを統合するのが適格性であると。それが何であるのか、それによって何が生じるのか、適格に捉えることを学びます。
勤勉性(industry)と対をなす不協和特性は、「不活発」(inertia)。
前者は、学童期に経験される的確な熟達感(できている、上手になっていると、感じられること)で、やる気を助長します。これに対し、不活発は、生産的な活動を麻痺させる恐れを有しています。
そしてエリクソンによれば、前の段階の制止、「遊びの制止」と宿命的な関係を持っているという。
<チェックシート>
・自分というものを確立できているか?
・葛藤をずっと、避けてはいないか?
・マネを卒業し、たったひとりの自分になれているか?
・何かに一生懸命 取り組んだ経験があるか?
・「できた」「やれた」という感覚を持っているか?
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