注意)他のページと同じく、かなり私見に彩られています。
このコンテンツは、認知の歪みを指摘するためにあるのではありません。この後に書く、認知の歪みの修正に関する記事の前段階として、存在しています。
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デビッド・D・バーンズ「いやな気分よ、さようなら」より。
→ 「考え方を変えれば気分は変わる」
ひょっとしたら、悩まないでいいことで、悩んでいるのかもしれませんよ。
また、あれこれ考えるのも、それが歪んでなかったら、それはそれでいいものです。
要は、歪みなく、ちゃんと悩んだらいい。
すると、その先が見えてきます。
★『認知の歪み』★
認知とは、ある事柄をはっきりと認めること。
ある部分では、目の前のそれをはっきりと知覚すること。また、判断したり、推理すること。はっきりと記憶することも含まれるでしょう。
知覚する、記憶する、推論したり、判断したりする。こういうことは当たり前に行われているように思うかもしれませんが、実は、そうでもないようです。
知らず知らず、歪みが生じている場合がある。そして、その歪み故に、苦しんでしまうことも。
我々は何かを信じます。それが確かだと信じ、疑わない。
それは確かに、ある部分ではそうなのですが、限定された条件を外れると、そうではなくなってしまいます。また、以前はそうでも、今は違っていることだってある。なのに、認知の歪みを持っていると、場合分けが困難になるようです。目の前にないものを見てしまったり、一部だけを見て全部を見たような気になってしまう。
本来そこにないものを見てしまい、怒ったり、不安になったり、あわててしまうことも、実はしばしばなのです。
では、世の中には、どういった認知の歪みがあるのか、これから見ていきたいと思います。
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★『全か無か思考(all-or-nothing thinking)』★
第1回 「全か無か思考」(all-or-nothing thinking)
オール・オア・ナッシング
すべてか、あるいは、ゼロか。全部か、無しなのか。白か黒か、善か悪か、正か邪か。そんな、妥協を許さないような態度のことを言います。
成功か、失敗か?
完全か、不完全か?
多くは、実際にはあり得ないような、完全さを求めてしまう。そして、完璧でないものを、過小評価する。その一方で、1つ持っている人を(完璧だと)羨み、持ってない自分を、よりダメだと思ってしまう。
例えば――
[自分に対しては] ○○できない自分はダメだ。
[相手に対しては] ○○できないあの人は大したことない。
[社会に対しては] ○○のない社会なんておかしい。
このように、ひとつ不足していると、全部ダメだと思ってしまうような心理状態。
また、それによって何が生じるかというと――
[自分に対しては] 完全でない自分に失望する。
[相手に対しては] 完全でない相手にイライラする。
[社会に対しては] 完全でない社会に絶望してしまう。
いろんなものに望みをなくし、嫌になってしまいます。
ところで、「○○に対し」ですが、それのみに固執する時、他のものを見ていなかったり、不問に処しているのも、興味深いですね。
例えば、自分が完璧でないと悩む人は、他者が完璧でないことを、あまり見ようとはしません。また、他者が完璧でないとイライラする人は、案外、自分には甘かったりする。そして、社会が完璧でないと憤る人は、個人はどうなのかとか、自分や身近な人はどうなのかとか、そういうことはあまり考えなかったりします。
このように、全体を見ることはあまりせずに、狭い範囲にこだわり、完璧じゃないと失望する。このタイプの人は、自分だけの望遠鏡を持っており、それを通して世界を見ます。
望遠鏡を置いて、自分の目で世界を見れば、「!」「あれ?」「こういう部分もあるのか」となるのですが、なかなかそうならない。
実はこれ、相手云々に対してだけではなく、事象に対しても、いえるようです。
全体についてはあまり考えず、狭いケースにこだわり、完璧じゃないと言う。
例えば、他のいろんなことができるけど、ひとつのことができないと、嘆く。他に持っているものがあるけれど、ひとつのものを持っていないと失望する。このように、他は無視して、ひとつのことで判断してしまいます。
まさしく、オール・オア・ナッシング。ひとつを全部にしたり、ひとつで無にしたりしてしまう。
でも、そもそも、完璧な存在なんて、いるんでしょうか?
ひとつの要素だけで、人間全体を語れるものなのでしょうか?
わたしは完全ではない、でも、○○はできるんだ!
あの人は××ができない、でも、△△は得意そうだ!
社会はどうも不完全なようだ、でも、いいところもたくさんあるよね!
このような、「でも」がある。
ただ、認知の歪みを持っていると、この「でも」が、逆に使われてしまいます。
わたしは○○ができる、でも…。
あの人は△△が得意だ、でも…。
この社会にはいいところがある、でも…。
思考のクセで、悪い方へ悪い方へと、流れてしまう。
人も社会も、考え方だって、いいところもあれば悪いところもあります。うまく働くこともあれば、そうでないこともある。ある部分ではよくって、別の部分ではそうでないこともある。
要は、場合場合ということです。部分部分ということ。
よい部分と、(必ずしも)そうでない部分。できる部分と、できない部分。得意な分野と、苦手な分野。
我々人間は、このようなたくさんの部分からなっています。いろんな部分が組み合わさって、ひとりの人間が構成されている。
けれど、囚われがあると、一点に意識が集中してしまい、他を見れなくなってしまうようです。だから、一点だけを見て、成功か失敗か、完全か不完全か、そうやって決めつけてしまう。完全な状態を想像し、完全でない現実に幻滅する。
人間も、社会も、部分からなる全体で、存在しています。部分は部分で嘘ではなく、全体の一部ですが、確かに存在する。ただ、あくまで一部なので、評価だって、実は一部に過ぎません。誰かが勝手に、全体のように扱っているだけ。
ちょっと視線をずらせば、それだけではない他の部分が、存在するのです。
この、ちょっと他を見ること、これが案外、大切かもしれませんよ。
この、オール・オア・ナッシングによる判断、近年、よく見受けられる傾向ですよね。
・万能でないと、軽んじたり、批判したりする。
・ひとつと全部を混同してしまう。
これは行動においても言え、全部そうするか、あるいは、まったくしないか、極端なことになってしまうことも。
例えば、叱られた時など、それで全否定されたように感じてしまう。そして、極端な行動をとってしまったり、極端な反論をしたりする。
(例)
「静かにしてください」は(苦情のもとになっている)「××をするな」ということでは、必ずしもない。
それは、「気を遣いながら××する」とか「時や場所を選んで××する」ということ。
全体や周囲に気を配って、ちょっと工夫するということ。
その「ちょっと」に目が行きにくくなっているようです。今の日本は…
完璧という呪縛、
それはどこから、きているのでしょう?
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「Dichotomous reasoning」という言い方も、あるようです。
dichotomous reasoning:二分法的思考
何でも白と黒で語りたがり、中間がない。
世の中にあるものの多くは、完全な白でもなく、完全な黒でもなく、その中間にある独自の色なのですが。
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