認知の歪み
★『すべき思考(should thinking)』★
第8回 「すべき思考」(should thinking)
誰でも持つ、「○○するべきだ」という考え。それはそれで悪くありませんが、あまりに硬化すると、角が立ったり、重荷になるかも。楽しそうに生きている人は、「○○すべきだ」を持つと同時に、「××してもいいよね」という感覚を持つみたい。硬軟、併せ持つようです。
「○○すべきだ」は、頭が設定する理想的な考え。一方、心や身体は、必ずしもそれには応じません。というか、考えるものではない。心や感情というものは自然な反応だし、身体は本能的なものに従っています。したがって、「頭」と「心や身体」との間には、少なからずギャップが生じる。
問題なさそうに生きている人でもそんなギャップは持つのですが、どこかで心や身体にも従っているようです。基本的には頭で心や身体を律するものの、どこかで心や身体の言い分を聞いて、赦す部分を持っている。適度な“ゆるさ”を有しているようです。
すべき思考に支配されると、このゆるさが消失してしまいます。何事においても完璧や理想をめざし、その影で心や身体は犠牲を強いられることになる。律するのはいいのですが、いつも律するので、心や身体は休まりません。
これは人と人との関係に置き換えると、分かりやすいかもしれませんね。いつでも、ああしろこうしろ、気を抜くな、などとガミガミ言われれば、そりゃ、まいってきます。例えば、仕事や学業である程度そうするのは分かるにしても、家に帰ってからもそうだと、堪らなくなりそうです。人は息を抜かないと、息が詰まってきます。
すべき思考にやられている人は、上のようなことを自分にしているのです。いつでもどこでもといった感じになるので、休まる暇がない。「○○すべきだ」「○○せねばならない」、そういう強い気持ちに支配されて、自分で自分を追いつめてしまいます。プレッシャーを、いつも、与えてしまう。
ノコギリは通常、ペラペラと揺らぐ状態にあります。でも、力を入れて両端を持つと、硬くなって今にも折れそうになる。まるで悲鳴を上げそうな状態。すべき思考はこのようなもので、自分で自分を締め上げ、今にも折れそうに、悲鳴を上げそうになっているのです。頭は力を入れるように指令を出し、心や身体は悲鳴を上げる。そんな布置ができあがってしまいます。
また、すべき思考が相手に向けられても、しんどくなります。相手も、自分も、しんどくなる。
「○○すべきだ」「○○せねばならない」が、「どうしてしないのか!?」「なぜ、できないのか!?」という イライラを生み出してしまうのです。
善悪でいえば、正しい。でも、相手にはプレッシャーがかかり、自分もフラストレーションを受ける。なので、よい結果も得られない。つまり、正しいけれど、いいところが少なくなってしまう。なんか、もったいないですね。
「○○すべきだ」「○○せねばならない」といった律する部分は、なくてはならない。でも、そればかりではうまくいかないし、現実には即さない。心や身体はついていけない。自分にしろ、相手にしろ、ですね。
なので、硬い部分にゆるさを持たせることが、鍵になるようです。
すべき思考は目の前のことだけでなく、過去までも裁くかもしれません。「○○すべきだった」「○○せねばならなかった」。
そこに生じるのは、罪の意識。○○しなかったという罪悪感で、自分を責めるかもしれない。あるいは、どうしてしてくれなかったと、相手を責めることもあるでしょう。
これもすべてが悪いということはありません。罪の意識は必要だし、誰かを非難する感情だって、あっていい。
でも、そればかりだと、しんどいですよね。
結局、認知の歪みの修正とは、一方向しか見ていなかったのを広い視野にしたり、ひとつのことしか考えてなかったのを他のことも考えるようにしたりと、固まっている部分をほぐすことなんでしょう。力の入れ過ぎを解いてやること。
信じることは大事なのですが、信じすぎると ガチガチになるので、それをゆるめることを覚える。
必要以上に罰することはないし、必要以上に気に病むこともない。
ほどほどが生きやすさを与えてくれます。
するかしないか、ではなく、やり方なんです。
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