認知の歪み
★『レッテル貼り(labeling and mislabeling)』★
第9回 「レッテル貼り」(labeling and mislabeling)
レッテルとは、商品に貼りつける札のこと。それが転じて、人物や物事についての断片的な評価を言うようになりました。物事の一部を見て札を貼り、その全体を札に書かれた評価で、覆ってしまう。
【レッテルを貼る】
ある人物などに対して一方的・断定的に評価をつける。「卑怯者の―・られる」
(大辞泉より)
例えば、何かの失敗を見て、ダメ人間のレッテルを貼る。そして、そのレッテルで、人間全体を評価してしまいます。そうなると、相手がどんなことをしようと、また、どんな状態にあろうと、ダメ人間だと認識されてしまう。
確かに、それには失敗した。でも、他の部分ではむしろ成功を収めている。成功しないまでも、問題なくやれている。そうだとしても、レッテル貼りという認知の歪みにやられていると、その札(レッテル)が、すべてになってしまうのです。
「ああ、(これについては)失敗してしまった」ではなくて、「(すべてにおいて)わたしはダメ人間だ」「どうしようもない敗北者だ」と、極端な認識になってしまう。ひとつの札(レッテル)が、したことや人格まで、すべてを覆い尽くしてしまいます。本当は、ほんの一部なのに。
これは他の認知の歪み同様、自分に向けられる場合もあれば、他者に向けられる場合もあります。自分に向けられれば、自分にダメ人間の烙印を押すといった、自己否定的なものや自己破壊的なものになってしまう。また、他者に向けられれば、あいつはダメだと、人格否定してしまうことになる。
悲しいことに、ひとつのことで、まるで全部がダメであるかのように、評価されてしまいます。
我々は今この瞬間にもいろんなことをしているわけで、トイレに行っただけでトイレ人間などと言われても、困りますよね。ずっと仕事や勉強をしていて、ほっと息をつく。その瞬間だけを切り取られて、サボリ人間などと言われたら、悲しくなります。マンガを読んだからマンガ人間、コーヒーを飲んだらコーヒー人間。こんな馬鹿なことはないでしょ。
でも、認知の歪みにやられると、こんな馬鹿なことをしてしまう。そして実際、同じようなことは、世の中で起こっているわけです。そしてそれを、影響力の強い者がやると、一気に拡散してしまう。
また、これが認知の歪みであることを多くの人が知らないと、一緒になって誰かをダメ人間にしたり、否定的なレッテルを貼ったり、それを問題だと思わないような、恐ろしいことが生じてしまいます。
レッテル貼りはいわば、罵るための道具。人によって、自分を罵ったり、相手を罵ったり。そして、罵るだけでは何も改善されず、不毛な結果に終わります。気分が悪くなるだけ。
このように、レッテル貼りは、合理的な考え方ではありません。ひとつで全部を覆ってしまうのは、おかしい。ひとつで人格否定にまで至るのは、どうかしています。
さらには、それが自分であれ相手であれ、人格否定されてしまうと、気力まで奪われてしまうことになる。改善する力があっても、よくなる可能性があっても、それに取り組めなくなってしまうのです。
気に病むこと、それ自体が悪いのではありません。ひとつで全体を覆い、間違った認知を持っているのが問題。
また、人が悪いのでもない。考え方が悪い。
だから、考え方を直せばいい。
修正すれば、希望はあります。
レッテル貼りを脱却するには、どうしたらいいでしょうか?
(1)
早急な判断をせず、時には「それは本当か?」と疑う。
「確かに、そうかもしれない」→「でも、断じることもないだろう」
「部分的にはそう」→「だけど、それだけでもない」
時には、立ち止まること。
特に、人格否定には、慎重になること。
ひとつで全部を語られると、人はウンザリしてしまいます。
個人攻撃は、やられるとつらいし、する方も罪を負うことになりかねない。
(2)
「必ずしもそうではない部分」や「意外とよい部分」に、気づいていく。
人間はたくさんの要素からなるので、他に目を向ければ、「!」と思えることもあるはず。
レッテル貼りをする人は、その時点で見るのを止めてしまうので、気づけてない。
(あるいは、視点を固定しまうので、新しい発見がない)
他に目を向ければ、おもしろいことが見つけられるのに。
(3)
人を、カテゴリに分けない。
否定的なラベルを貼り、カテゴリに分けることは、人を追い詰めることになる。
また、名づけることで満足するので、本質が見えなくなることも。
<<「すべき思考」に戻る
「自己関連付け・個人化」に進む >>
ページの先頭に戻る