認知の歪み
★『まとめ』★
「認知の歪み まとめ」
さて、いろんな認知の歪みについて見てきました。
我々は案外、実際を無視し、いろんなことを決めつけています。部分で全部を語ろうとしたり、個人的な体験を一般化したり、否定的なことだけに注目したりする。そして、それにより、人生を暗いものだと決めつけてしまいます。本当はいいことも悪いことも両方あったのに、否定的なものを拡大してしまう。そして、未来に対しても、同じようにしてしまうのです。
これはいわば、「わざわざ自分で悪い方向に仕向けている」のであって、「実際にそう」というわけではありません。仮にそうだという部分があるにせよ、他の部分は違う。なのに、そこは見ようとはしません。頑なに、否定的なものばかり、拾い上げようとする。
目の前にある暗い世界は、ひょっとしたら、認知の歪みにより生み出されたり、拡大されているものかもしれないのです。そんな虚構を見て、右往左往してしまっている。そこに実際はなく、あるにしても、割合が無視されている。悪い部分は実際より拡大され、よい部分は無視されたり。そんな歪んだ理解が、実際より悪く見せているのかもしれません。否定的なものに見せているのかもしれない。
それはまるで壊れた眼鏡をかけているようなもので、レンズの歪みによって一点だけが拡大されているのかもしれない。また、レンズがたいそう汚れているので、実際より暗く見えているのかもしれません。目の前に見える大きな傷は、実はレンズについた小さな傷なのかもしれない。
そんな風に、実際はどうってことないのに、見えている世界だけが、どうにかなっているのかも。何かあるにしても、そこにだけ注目することで世界を狭くしてしまい、一部を世界の全体だとしてしまう。一点の傷、一点の汚れ、そこにだけ注目し、それが世界だと、肩を落としてしまう。
ということは、認知の歪みを修正できれば、暗い世界――そう思い込んでいるもの――を覆せそうです。「ん?」と顔を上げて、辺りを見回せば、注目しているもの以外の 何か(何かいいもの) があるかもしれない。
認知の歪みを持って否定的になると、時に「消えてしまいたい」と思うかもしれません。これについても、ちょっと考え直した方がいいかも。その訴えが感情からきているものだとしたら、通訳せねばなりません。
感情、気持ち、あるいは、体。それらは言葉を持っていないので、頭にそれを正確に伝えるには、通訳が必要。「消えてしまいたい」とは、どういうことなのか? 何を消してしまいたいのか? 本当に欲しているものは、何なのか?
それはひょっとしたら、「今までを消したい」ということかもしれない。「今の姿を消したい」ということかも、しれない。つまるところ、「脱したい」ということかもしれません。何らかの「救いを求めている」ということかも、しれない。
つまり、「生まれ変わりたい」ということ。
そして、認知の歪みが解消されれば、生まれ変われるし、目の前の世界も――正確にはその見え方が、ですが――変わる。
スーパーマンにはなれないかもしれないけれど、必要以上に背負っていた荷物を降ろすことができる。眼鏡の汚れに気づいて、ふき取ることができる。レンズの傷と、世界の傷とを、混同しないようになってくる。必要以上に自分を責めなくなり、また、必要以上に他者を責めなくなる。幻想により悪者を作ることも、なくなってくる。
いっぺんにそうなるわけではないけれど、だんだんとそうなる。いっぺんに好転しないことを嘆くことも、だんだんとなくなる。目の前の一輪の花の美しさに気づくような、そんな当たり前の自然を、取り戻す。
笑う時は笑い、泣きたい時は泣き、怒りたい時は怒る。それを邪魔する「考え」っていうやつを、やっつける。世界がいかにも悪いものであるかのように吹き込んでいた「考え」を、やっつける。
世界を正常化させるのではなく、考え方を正常化させます。揺れ幅を持ちながらも、ちょうどいいくらいに落ち着かせる。そしてそれが後に、世界を正常化させることにも、つながるのでしょう。
さあ、ぼちぼち、次のステップに進みましょうか。
ただ、疲労や絶望感が大きい場合は、適切な医療機関を受診することを御勧めします。
同じやるにしても、専門家が傍にいる方が、ずっと安全で安心ですから。
[割合ということ]
ちょっと前に、ある記事がブックマークで話題になっていました。かいつまんで書くと、ある食品に微量の毒(毒性を示す物質)が入っていると伝えたところ、「○○に毒が入っていたなんて」という反応があったというもの。
確かに毒が入っているという言い方は衝撃的ですが、実際はというと、健康に害がない程度のほんの微量の毒が入っているだけです。食べ続けると蓄積して云々というものではありません。その人が言いたいのは、健康に害を及ぼさない程度の物質を避けるために、おいしくて健康効果もある食品を食べないのはどんなもんだろう、ということ。
冷静に考えれば、分かることです。食べることで もたらされるリスクと、食べることで得られる恩恵、それらのバランスや割合を考慮すれば、答えは出てきます。
しかし、認知の歪みが蔓延する世の中では、割合が無視されがち。
逆に、問題ない程度のリスクでも拡大され、騒がれてしまう。結果、得られるはずのものを、ふいにしてしまう。
このような傾向がどうも、世間で散見されるように思います。
リスクの割合や程度が無視され、拡大されて、大騒ぎになる。騒ぎになるだけならまだいいのですが、その影で、犠牲になる人が出たりもする。そんなに危険でないものがとても危険だと誤解され、それに対応する人たちが、大いに疲弊したりする。時には、悪者にされる。
危険なものを楽観視することはないのですが、それにしたって割合というものがあるので、それを無視すると訳が分からなくなります。また、ケースケースで起こるであろう状態が違う場合は、そういうのも考慮せねばならない。△△なら注意が必要、でも、○○なら概ね大丈夫、そういうこともあるでしょう。またその中で、「まれに起こること」だって、あるはずです。
そういうものが、どうも、ごっちゃになってしまっている感がある。
△△なら注意が必要ということが無視されたり、○○なら概ね大丈夫ということが無視されたり、すべき注意が疎かになったり、しないでいい注意で振り回されたりする。
分けて考えるとか、合理的に思考するとか、そういうのが、社会的に歪んできている印象さえあります。
もちろん、これにだって割合というものがあるのですが、それがどうも、無視できない程度になっているような気がする。
というわけで、日本のあり方とか、社会問題とか、そういう部分でも、認知の歪みは関係するのだと、私は思います。
極端な言い方をすれば、「会話が成立しない」という問題が生じている。あるいは、「会話が成立しないことが問題とされていない」という危機がある。合理的思考が、著しく欠けている部分がある。
なので、例えば、教育に関しても、知識の習得と同時に、「(ある程度の)合理的思考の獲得ということも、あればいいのにな」と思います。いや、子供たちのことだけでなく、大人に対しても、ですよ。子供はこれから自然に成長し、よくなっていくものだと思いますから。ただ、それを 邪魔しない 大人であらねばならない。
その点が解消すれば、読解力だって身につくし、心配されている学力だって、自ずと上がるでしょう。また、同時に、学力だけがすべてでないということが、大人にも分かってくる。そうすれば、いろんな生き方があることも分かるし、子供たちの選択肢も広がる。つまるところ、生きやすくなる。
そういうところがあるわけだから、認知の歪みの修正は、意味あることだと思うのです…
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