『人間的強さ』
以前、ライフサイクルについてのコンテンツで、8つの人間の成長段階と、それぞれの段階における対立する要素を紹介しました。その対立する要素について、エリクソンは以下のような見解を示しています。
基本的信頼 vs 基本的不信 といった対立する要素の「vs」は「〜 対 〜」という意味だけれど、同時にそれは相補性をも含み、「〜 とその逆の 〜」という意味でもある。
おそらくそこには、必ずしも前者が肯定的なもので後者が否定的なものではない、という意味があるのでしょう。あるいは、そうであるにしても、両者は――その割合は抜きにして――必ず存在するものであるし、また実は、なくてはならないものだと。晴れと雨が両方必要なように、寒暖が両方必要なように――あるいは必要であるかは関係なしに――相反する互いは自然に存在し、また両者が存在することで生まれるものもあると。
エリクソンによれば、それらの葛藤によって――あるいは、その過程で――希望や意志などが生まれるといいます。
それは、各々の段階で現れる、人間の強さであり自我の特性。
人間的強さはそれぞれ、以下のように現れるといいます。
乳児期 :希望(hope)
幼児期初期:意志(will)
遊戯期 :目的(purpose)
学童期 :適格(competence)
青年期 :忠誠(fidelity)
前成人期 :愛(love)
成人期 :世話(care,caring)
老年期 :英知(wisdom)
我々はそれぞれ、これらの人間的な強さのうち、どれかを持つと同時に、どれかを持っていないのではないでしょうか。
エリクソンはこう言っています。
人間的強さの出現が、各段階段階で、いかに本来的に容易ならぬ脆さにつきまとわれているか。
(中略)
それだけでなく、この生まれつつある強さが、各段階段階で、いかに本来的に根本的な害悪に包囲されているか。
(「ライフサイクル、その完結」P77より)
それを持つのは、望ましい。
けれど、同時に、難しさがあると。
今回は、その人間的な強さにも注目しつつ、各段階を見ていこうと思います。
元になる本は、「ライフサイクル、その完結」(みすず書房)です。
『老年期』
老年期における対立命題(最後の危機のテーマ)は、「統合 対 絶望」(integrity vs. despair)。
そしてこの対立命題の葛藤から、「英知」(wisdom)という人間的な強さが現れるといいます。
エリクソンは英知を、「死そのものに向き合う中での、生そのものに対する聡明かつ超然とした関心」であると言いました。
人生の最晩年において、避けられない死というものと向き合う中で、その反対要素である生に対して、こだわりなく自然な態度で臨む。
また、英知と対をなす不協和特性として、「侮蔑」をあげている。
侮蔑とは、見下し、さげすむこと。すなわち、老いて自由に動けず、何を任されるでもなく、身を寄せる相手や人も見出せず、そんな中で、自分を――過去の自分や他者と比べたりして――さげすむことです。あるいは、自分を蔑むことに耐えられない場合は、他の手ごろな誰かを、蔑むかもしれません。
では、英知とは何か?
英知とは一般に、すぐれた知恵や深い知性のことを言います。あるいは、老賢者の持つもの。
ということは、英知を持つには老いた賢者になるしかないのでしょうか。老いは自然とやって来ます。しかし、賢者に自然となれるでしょうか。とすれば、賢者への道とは、どういうものなのでしょう。
エリクソンの言うように、死そのものに向き合う中で、聡明かつ超然とした関心を持てるでしょうか。
道の始まりは、生まれること。そこで、基本的信頼と基本的不信という対立命題の葛藤から、希望という人間的な強さが生まれるという。人生の始まりは希望であり、それが終点へと向かう。
終点の対立命題は、「統合 対 絶望」。希望の反対側に、絶望が位置しています。
若い人は暗い未来を想って絶望しますが、老人は過去を振り返って絶望するのかもしれません。エリクソンの発達段階でいえば、得られなかった対立命題――例えば、親密、同一性、自主性、基本的信頼など――を想い、嘆くかもしれない。
しかしそれも必ずしも悪いとはいえず、「発達のための退行」であり、年齢特有の葛藤を解決しようとするひとつの試みであると、エリクソンは言います。
退行とは文字通り前の段階に戻ることですが、そうやって前の段階に戻ることには意味があるというわけ。嘆きという形で戻るので否定的に見えるけれど、戻ることもまた、必要だと。
絶望の対立命題である統合は、ひとつにまとめるという意味があります。エリクソンは統合を、一貫性と全体性の感覚であると言いました。ということは、統合は人生全体で成されるもので、老年期のみで成されるものではないことが分かります。
だから、戻ることにも意味が出てくる。
もちろん、すべてが順調ですべての人間的強さを獲得していればそれに越したことはありませんが、それは理想であって、現実ではない。また、それを成そうと思えば個人の資質のみならず、周囲との関係も大きく影響するのだから、なおのこと困難です。なので必然、やり直しのようなものが求められる。
エリクソンはこう述べています。
我々は、人間の潜在的能力は、好条件下にあれば、それまでの発達段階での統合的経験が実を結ぶように、多かれ少なかれ自然に働くことを考慮に入れておかねばならない。
(「ライフサイクル、その完結」P85より)
極端な言い方をすれば、自然な状態にあれば好ましい状態におのずと収まる、ということ。しかし、我々は残念ながら、自然な状態にはないようです。好条件というのは、なかなかない。
幼年期や若い頃は、自然とは言えないような干渉を受けることもある。それに、放置がよいわけでもない。また、自我が育ってくると、その干渉を自分に向ける。何かをよいことだと信じ、それを続けます。しかし人間には、状況が変わってもそれを信じ続けるという、困った癖がある。なので、環境や自分の身体が変化しても、それを信じ、続けようとする。心や身体が嫌がっていることを、頭がよいと信じ、強制していることもしばしばです。
このような不自然は例えば、睡眠というものにも現れる。睡眠時間というのは個人差もあるし、また、年齢によっても変化するようです。一般的には、歳をとると必要な睡眠時間は短くなるといいます。なのに、若い時に必要だった睡眠時間にこだわり過ぎると、実際に必要なものと必要だと思い込んでいるものにギャップが生じ、結果、睡眠の質が低下するなどの困った点が出てくるのだそう。
(「歳をとると必要な量が変わる/睡眠や食事」参照)
(ただし、気分よく長時間眠る人は、この限りではありません)
あるいは、食事や趣味についても、本当に求めているのか、それとも求めていると頭が信じているのか、その辺は微妙なところがあります。
少し話がそれましたが、人間は自然な状態にあると自らを癒し、あるいは、対立する要素を統合させる力を有しているのでしょう。しかし、実際問題、自然な状態にはないし、自ら不自然な方へと進んでいる面もある。
つまりは、任せるということをあまり知らない。これは自分に向けられる時、身を任せるということになるし、他者に向けられる時は、自由にさせるとか、自主性に任せる、ということになるのでしょう。が、これができているかというと、なかなか難しいのではないでしょうか。
また、身を任せるといっても、自我の関与が必要でなくなるわけではない。むしろ、統合という作業には、自我の関与が欠かせない。
ここにまた、要素が対立します。
自我が強すぎると自然な状態から離れ、極端な状態になりやすい。しかし、自我の関与なしに、統合という仕事はできない。
これはユング関係のコンテンツでも書きましたが、特に晩年においては、自我を弱め純粋な観察者となり、自然や自己というものに身を任せるということは、すごく大事なことであるようです。無意識と対立するのではなく、むしろ、力を借りる。
(とはいえ、若い時は逆に自我を育てねばならない面があるので、なかなか難しいです。また、西洋と違って、日本的な風土では自我を強化しにくい面もあるように思います。なので、人によっては、こだわりを棄てながらも、自我を確立せねばならないかもしれない)
ここでまた、英知という言葉に戻ります。
一般に老人には――あくまで一般には、ですが――時間が与えられます。では、その時間を、何に使うのか?
時間と英知、それについて考えれば、おのずと答えは出るのかもしれません。
そこにマニュアルはありません。誰かが教えてくれるわけではない。部分的には教えてくれても、人生の答えを与えてくれはしない。
そんな中で、どうするか? ということ。
ここでいったん、老年期については終わり、前の段階に戻ろうと思います。
そして、また、この段階に戻りましょう。
(見切り発車的なところがあるので、どうなるか分かりませんが…)
<チェックシート>
・自分を侮蔑してはいないか?
・それに耐えられず、誰かに侮蔑を向けてないか?
・ゆったりと、過去を振り返られるか?
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