『四諦と四念処』
人はなぜ、悩み、苦しむのでしょう?
今回は、仏教をヒントにして、読み解いてみたいと思います。
<四諦>
四諦(したい)とは、仏教にある四つの心理。「苦諦(くたい)」「集諦(じつたい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の総称。四聖諦(ししようたい)ともいう。
苦諦:一切は苦であるという真理。
集諦:苦には原因があるという真理。
滅諦:苦は消滅するという真理。
道諦:苦を滅する道があるという真理。
この世は所詮、苦しみだらけである。世界の本質が、苦しみなのだ。
なので、苦しみから逃れることなどできない。逃れようともがくから、余計に苦しい。
しかし、苦しみには原因があるものだ。それが仏教でいう「煩悩(ぼんのう)」である。
原因があるならば、対処のしようもある。
感情は、反応である。水面に波紋が生じるように、心の中に生じる。
何かを見聞きする、何かを経験する。それによって、感情が生じる。
また、それと共に、どう受け止めるかによっても、感情は変わってくるようだ。
ただの荒縄も、それをヘビだと思えば、ヘビに接したような感情が生まれるものである。
心の苦しみもまた、感情。
何かを経験して、苦しくなる。
が、それと共に、受け取り方によっても、変わるのではないだろうか。
煩悩を正しく処理すれば、苦しみは軽減されるのではないか?
人生は、それ自体が苦である。
人間の持つ根源的な苦に、「生・老・病・死」がある。これを、「四苦」という。
さらに四苦 [愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじようく)] が加わり、八苦になる。
例えば、愛する者と別れねばならないのは、苦しい。
求めても得られないのも、苦しい。
そんな苦しみの原因は、「煩悩」であるという。
・求めすぎる。
・思い通りにならないと、怒る。
・物事を正しく判断できない。
・言っても仕方ないことで、嘆く。
求めすぎるから、余計に苦しい。
思い通りにならないと怒るから、余計に苦しい。
物事を正しく判断できないから、余計に苦しくなる。
しょうがないことでいちいち嘆くから、余計に苦しい。
苦しみが本質であるこの世界であるけれど、この「余計な苦しさ」を取っ払ったら、どうだろう。
苦しいのは避けられないとしても、余計な苦しさだけでも、無くしたらどうだろう。
・求めすぎるのを、やめよう。
・思い通りにしようとする姿勢や考えを、捨てよう。
・最低限の認識力を身につけよう(認知の歪みを捨てよう)。
・仕方ないことで嘆くのは、もうやめよう。
ありのままに。
ありのままに…。
<四念処>
四念処(しねんじょ)という言葉がる。
これは、「身念処」「受念処」「心念処」「法念処」の総称。
身念処(不浄観): 肉体も世界も、もともと汚れたものなのだ。
受念処(一切皆苦): 生きること自体、苦しみなのだ。世界自体が結局、苦しみである。
心念処(諸行無常): すべては変化する、同じに留まらない。生成・消滅を繰り返している。
法念処(諸法無我): すべての存在には、主体とも呼べる「我」がない。
きれいであることに こだわり過ぎても、仕方ない。
もともと、汚れているのだ。
苦しいと嘆いても、仕方ない。
もともと、生きること自体、苦しみなのだ。
変わることを怖れたり、嘆いても仕方ない。
すべてが、時々刻々と変化している。
変わらない方が、おかしいのだ。
変化しないものなど、ないのだよ。
我を強くするから、錯覚してしまう。
一つひとつの細胞が生成され、また消滅しているように、世界もまた、動いている。
同じであると思える方こそ、錯覚だ。
「ただ、それだけのこと」
「ただ、それだけのこと」
自然を拒否するから、苦しいし、悩ましい。
世の理を ―― 変化しないと ―― 間違って認知しているから、苦しいし、悩ましい。
すべてはただ、それだけのこと。
ただ、それだけのこと…。
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