【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは「ユング心理学の用語」の、「コンプレックス」「劣等感コンプレックス」について紹介をしています。


【目次】



(1ページ目)
「元型」
「自我」
「ペルソナ」

(2ページ目)
「影」
  @「影」
  A「影」と「ペルソナ」
  B「投影」
  C「もう一つの影」

(3ページ目)
「コンプレックス」
「劣等感コンプレックス」

(4ページ目)
「アニマ・アニムス」
「トリックスター」

(5ページ目)
「個性化/個性化の過程」
「共時性」

(6ページ目)
無意識 
(2008年02月27日追加)
  個人的無意識
  普遍的無意識

【その他、療法など】
「ゲシュタルト療法」






【コンプレックス】 



『コンプレックス』(complex)


「コンプレックス」は初め、「感情によって色づけられた複合体」(feeling-toned complex)と呼ばれました。

あるいは、
「一つの元型によって結ばれた心の束」
「一つの感情によって結ばれた心のまとまり」
という表現もされます。

それは「複合体」であり、「束」であり、「まとまり」であって、同じようなものが、核にある(体験の)引力によって集められ、塊になっているのです。

自我が受け容れられないような体験は無意識に抑圧され、コンプレックスの核となります。そして、その核に、同じような感情を伴なう体験が絡み合い、束となる。
これが「コンプレックス」であり、「束」や「まとまり」、「複合体」と呼ばれる所以(ゆえん)ですね。


例えば、幼い時に父親から虐待を受けたような場合、それは到底、幼い自我が受け容れられる範囲を超えていますから、多くの場合、無意識下に抑圧されます。そうでないと、自我が破綻してしまうかもしれません。心が壊れかねません。
これが「コンプレックス」の核となる体験になります。
その後、この人は成長するにつれ、男性の暴力的なところ、攻撃的なところ、支配的なところを目の当たりにします。
それが他の人にとっては、男性として(あるいは人間として)許容範囲のものであったとしても、父親による虐待を受けた経験のある人にとっては、許容範囲として受け容れられません。当然、そのようなことには敏感になりますから、他の人がスルーするようなものも、自動的に拾い上げてしまいます。

そのような行為は、父親の虐待と同位とみなされ、同じくくりとして受け取られ、同一のものとして処理されるんですね。
但し、そういうところは意識できませんから、半ば無意識的に、そういうこと(自動処理)が行なわれるわけです。

なので、意識に上るのは、男性というものは暴力的だ、攻撃的だ、支配的だ、そうに決まっている――というところに落ち着いてしまいます。
(また、それは部分としては正しいのです)

他の人が、「男性の暴力性、攻撃性、支配性も、人間であれば、ある程度は誰しも持つものであり、また実際、誰かに対し、暴力や攻撃を加えたわけでもないし、支配しているわけではないじゃないか」と言っても、その人には納得できません。
「きっと、暴力を振るうに決まっている」、「きっと、攻撃するに決まっている」、「きっと、支配するに決まっている」――そういう考えになってしまいます。

また、何かしらの事件が起こった場合、それがすべてであるかのように取り上げ、「ほ〜ら、やっぱり思ったとおりだ」となったりします。
過去のショック体験により、核のようなものが形成され、同じようなことはすべて(些細なことまでも)それに取り込まれて、束になって大きくなっていきますから、「男性=暴力的」という強固なパターンが出来上がってしまうんですね。


こうなると、物事を分けて考えられません。部分と全体が、ごっちゃになってしまいます。

一つのコンプレックスのフォルダが作られてしまうと、それに近しいものは、何でもそのフォルダに放り込まれてしまいます。そういう作業が、無意識のうちに、行われてしまうのです。
男性というものにコンプレックスを持ってしまったら、世の男性の殆どは、男性というフォルダに放り込まれ、コンプレックスを伴なった感情と共に処理され、認識されます。
そしてすべての世の男性は、暴力的、攻撃的、支配的、そうに決まっている――そんな風に認識されてしまうのです。
(あくまで例えですが)


コンプレックスに支配されてしまうと(その関連項目は)、「きっと、〜に決まっている」や「きっと、〜に違いない」という思いに支配され、冷静な判断・認識ができなくなってしまいます。
無意識的に関連事項がフォルダに放り込まれるように、無意識的に同じような感情が核に巻き込まれ大きくなっていくように、その人の意識もまた、パターン化された「それ」に呑みこまれ、「A=X」というような固定化された判断が下されてしまうのです。

上記のような例をとれば、男性の中には暴力的な人も、そうでない人もいるし、それを内在的に持っていたとしても、それを現実世界で行うとは限らない――そのような当たり前の判断ができなくなってしまいます。事実を認識する以前に処理されてしまうので、意識ではどうこうできないんですね。意識で処理する前に、まるで反射のように、無意識のうちにそう処理されてしまうのです。

だから、それを人間のせいにはできません。意識する前に処理されるんだから、それはもう、生得的なメカニズムにも近しく、ともかくそうなってしまうもの、です。自動的に処理されてしまうんだもの。
それにコンプレックスを抱えるには、それ相応の体験をしてしまっているということだから、なおさら責められたものではありません。むしろ気の毒な場合の方が多いでしょう。

ただ、どうしても困ったことが生じてしまうという、悲しい現実があります。



コンプレックスはそれ自体がある程度自律性を持つので、自我ではコントロールできず、したがって自我に影響を与えます。(噛み砕くと、こちらの知らないうちに、向こうが影響を与えてくるわけです。そういう風に、向こうは意識の統制を越えて、活動してくるんですね)
コンプレックスに苦しむのは、そういう理由からです。
自我はコンプレックスの存在を知らず、それによってもたらされる現実的な不都合に振り回されるばかりです。
(何で私はいつも○○と思ってしまうんだろう、△△になってしまうんだろう、と)


コンプレックスというのは複雑で、例えば上記の件では、親への「感謝の気持ち」、「絆」、「愛」、「慕う気持ち」、「一瞬でも気持ちの通い合った体験」などが、虐待されたことへの「怒り」、「非難」といった感情を持つことを邪魔してしまうこともあるかもしれません。
(あるいは、社会通念みたいなものが邪魔することだって、あるかもしれない)
(どこかの誰かが、親切心から余計な口を出すことだってあるでしょう)

しかし別に、二者択一的に考える必要はないのかもしれない。
親である以上、「感謝の気持ち」も「絆」も「愛」も「慕う気持ち」もあるでしょう、それを否定する必要はありません。また同時に、虐待を受けたのだから「怒り」や「非難」の気持ちもあって当たり前です。親としては慕い、虐待を行ったことに対しては怒り、非難すればいい話です。
これはどちらも正しい感情であり、ともかく、そこにある感情なのです。
どちらか一方だけを選ぶ必要もないし、どちらかの感情を殺す必要もありません。

ただ、そこにあるそれぞれを、そこにある一つひとつを、正直に、受け取っていけばいい。
そんなものは誰に邪魔されるものでもないし、自身のそれとして、正直に受け取っていけばいいんです。
(できるだけの余裕が出てきたときに)


こういうことは簡単に割り切れるものでもないし、公式的に当てはめられるものでもないですが、そういう難しい仕事を、時間をかけてじっくり少しずつ、深刻なダメージを受けない程度に、やっていけばいいのだと思います。
それは簡単な仕事ではありませんが、それによって生じる、新たなものもあるはずです。

業(ごう)をもって生きるのはたいへんですが、業を受け容れることで得られる、かけがえの無いものもあるかもしれません。
乗り越えた者だけが得られる、そんな宝もあるかもしれません。



関連記事:「コンプレックス、その破壊と創造」

関連記事:「コンプレックスとは?│やさしいユング心理学3-1【城太郎日記】」







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【劣等感コンプレックス】 



「劣等感コンプレックス」


我々に一番馴染み深いコンプレックスが「劣等感コンプレックス」かもしれません。
コンプレックス全般を、劣等感コンプレックスだと思っている人も多いのではないでしょうか。

「私は勉強できない」
「私はスポーツができない」
「私は美しくない」

実は、このようなケースは、劣等感コンプレックスとは言えません。

では、どういうことを劣等感コンプレックスと言うのでしょうか?

「私は勉強できないから、まったく駄目な人間だ(お先真っ暗だ)」
「あの人は勉強できるから、まったくもって、素晴らしい(素晴らしい人生を送れるに決まってる)」
「あの人は勉強できるから、頭の固い冗談も通じないような、つまらない人間に決まってる」

「私はスポーツができないから、まったく駄目な人間だ(お先真っ暗だ)」
「あの人はスポーツができるから、まったくもって、素晴らしい(素晴らしい人生を送れるに決まってる)」
「あの人はスポーツができるから、頭が悪いに決まってる」

「私は美しくないので、まったく駄目な人間だ(お先真っ暗だ)」
「あの人は美しいから、まったくもって、素晴らしい(素晴らしい人生を送れるに決まってる)」
「あの人は美人だから、お高くとまっているに違いない」

こういう風に思ってしまうのが、劣等感コンプレックスだと思います。
(「劣等感コンプレックスを持った状態」と言った方がいいかもしれません)

「偏見」によって事実をそのまま受け取ることができず、その他のことを巻き込んで混同し、「決めつけ」てしまっています。
事実関係を無視して、「そうに決まってる」となってしまってますよね。
劣等感によって、その周囲にあるものまで巻き込まれ、混同された塊になってしまっています。余計なものまで、ついて回ってしまっているのです。
それをよいものと捉えているか悪いものと捉えているかは別にして、自動的に判断が下されていますよね。
目の前のものを見て、冷静な判断ができていません。
コンプレックスによる、無意識的な自動処理がされているわけです。

あるいは、こうなる以前に、カッとしてしまい、通常の状態ではおれなくなる。
○○の話なんてするな!
○○できたって仕方ない!
このように、スイッチが入ってしまいます。



例えば、「勉強できないから、まったく駄目な人間だ」ということはないわけで、勉強は苦手だけどスポーツはできるとか、自分の好きな趣味には詳しいとか、あれができるとか、これが得意だとか、いろいろあると思います。

また、「あの人は勉強できるから、まったくもって、素晴らしい(素晴らしい人生を送るだろう)」ということもないようです。勉強できるがそれを悪いことに使う人もいるし、勉強できるが毎日が楽しくない人だっています。
勉強はできるけども実生活では苦労している人も、いるかもしれない。

「あの人は勉強できるから、頭の固い冗談も通じないような、つまらない人間だ」ということもなくて、勉強できるし、楽しいことを言う人もいます。
そんなことは付き合ってみないと分かりません。

これらは、ニュートラルな状態でその人を見ないと分からないことです。
(逆に言えば、ニュートラルな状態で見れば、ある程度、分かることです)

ただ、コンプレックスがそれを困難にし、勝手に処理してしまうんですね。事実関係を見る前に、勝手に決めてしまうわけです。そういうものだと、振り分けてしまうのです。



これは「スポーツができない」場合も同じで、スポーツができないからといって、人格否定されるようなことを言われてはたまらないし、自分でそう決め付けることもないです。

また、「スポーツができる人」を、事実以上に持ち上げることもないし、事実以下に貶す(けなす)こともないでしょう。

スポーツができることが全てではないし、スポーツができないことが全てではありません。
ただ、コンプレックスの働きが、それを全てと思わせてしまうのです。



これは自分の容姿に劣等感をもっている人にも言えます。
美しさによって全てが決まってしまうなんてことはないのですが、コンプレックスによる無意識的な働きにより、褒めるにしても貶すにしても、まるでそれで全てが決まってしまうが如く、思い込んでしまう。



このように、無意識的な働きにより処理されてしまうのが、コンプレックスの特性です。

「私は××だ」「私には△△が足りない」と平気で話せるうちはコンプレックスとは呼べないのですが、それを中心として、他のことまで混同したり巻き込んだり、合理性を無視した判断が自動で下されているような場合が、コンプレックスのそれなんですね。
あるいはもう、訳が分からなくなるとか。

コンプレックスには、無意識内の強い働きがあって、そういうものが意識の統制を越えて表れてくるのです。


ともかく、「わたし××なんだ〜」なんて気軽に言えているうちは、本来の意味での、コンプレックスではないんでしょう。コンプレックスがある場合は、他の何かを巻き込んでいたり、そこに強い感情が存在するはず。




参照【三省堂「大辞林 第二版」より】
goo辞書:劣等感
>自分が他より劣っているという感情。








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