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★『コンプレックス、その破壊と創造』★
1.コンプレックスの出現
自我を脅かすものとして、「影」や「コンプレックス」があります。
では、「影」や「コンプレックス」が活動しているのは、どんな時でしょうか?
・人が変わったようになる時
(別人のようになる時)
・自分を制御できなくなる時
(とてつもない嫌悪感を抱く、とてつもなく魅せられる、とか)
・何だか、わけが分からなくなる時
そんな時は、見えないところで、「影」や「コンプレックス」が活動しているのかもしれません。
☆
「見えないところで」と言ったのは、「影」や「コンプレックス」が無意識の住人だからです。
我々は「自我」の統制の元、意識して生きていますが、自分や世界、そのすべてを意識しているかというと、そうでもないようです。
人間内部の機能を考えても、「呼吸」も「心臓の働き」も無意識のうちに行なわれています。(「呼吸」は深呼吸のように意識しても出来ますが、もし呼吸のすべてが意識しないと出来ないなら、寝てる間に死んでしまいます。あるいは、いちいち心臓の働きまで意識してしまうなら、心休まりません)
心の機能にも、同じような事が言え、そのすべてを意識しているわけではないし、そのすべてを制御できるわけではないようです。
(まあ、全部、意識してたら休まる暇もないですし、もしそうなら、頭から火を噴いて、アチチ状態になっちゃいます)
☆
その見えないところ(無意識)の住人が、活動しだすと、それは自分の思ってもみない行動や態度として現れます。
・いつも穏やかなのに、ある特定のことに対しては、別人のようになる。
・ある特定の人に、強い嫌悪感を抱いてしまう。
(あるいは、魅せられてしまう)
・ある特定の状況で、身動きとれなくなる。
(自分を制御できなくなる)
・ある特定の状況で、ヘンな考えや思いが湧き出て困ってしまう。
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この、「特定の」というのは、興味深いですね。
まさしく、「影」や「コンプレックス」は各人の「特定の何か」に関連しているようです。
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こういうことは、程度の差こそあれ、誰だってあると思いますが、そういう時は、自分の知らないところで、「影」や「コンプレックス」が活動しているのかもしれません。
また、相手は見えないところの住人なので、自我にとってはまったく不可解で、その存在も知ることが出来ず、余計に困ってしまうかもしれません。
(「何で、こうなるんだろう?」、「私、どうかしちゃったの?」とか…)
また、場合によっては、その自覚さえないかもしれません。
(まあ、見えない相手ですから)
☆
さて、この見えない相手は、一体どういったものなのでしょうか?
2.コンプレックスの構造
「影」や「コンプレックス」にはいろいろな見方があるわけですが、その定義は別に譲るとして、ひとつの見方として、「強い支配やコントロールへの抵抗」というものがあるように思います。
別の言い方をすれば、「強い支配やコントロールが、影やコンプレックスを生む」とも言えるでしょうか。
(まあ、あくまでひとつの見方です。影やコンプレックスは多面的で、一口には語れません)
☆
「支配」や「コントロール」というと、誰かに支配されるとか、誰かにコントロールされるとか、思いがちですが、決してそれだけではなくて、自分の意識(主に理性)が支配していたり、コントロールしている場合もあります。
(まあ、ある程度、意識的に、コントロールできないと困るわけですが)
また、「支配」や「コントロール」というと、独裁者による支配とか、権力者によるコントロールとか、強い者や悪しき者が支配したり、コントロールするイメージがありますが、実際は必ずしもそうではなくて、一般的には善いものや、褒め讃えられるようなものが、支配したり、コントロールしている場合もあります。
(この辺が、話をややこしくするところですね)
☆
前述のことに触れると、自分の否定しているものや、自分の嫌いなもの、認めたくないもの、社会の規範やルールからはみ出るもの――これらを意識や理性が支配し、見えないところに追いやっていることもあると思います。
(繰り返しますが、ある程度は、そうでないと困ります)
これを見ると、まさしく、自我が支配したり、コントロールして、好ましくないものを、僻地(無意識)に追いやっているわけです。
これは自分の内面の動きですね。
自我の支配 → 抑圧 → 影やコンプレックスの強化
一方、前述の後者のような場合――つまり、人との関係の中での支配やコントロールを考えた場合、それは、暴力や行き過ぎた躾(しつけ)や抑えつけという事だけではなく、「やさしさ」や「愛情」、「相手を思いやる気持ち」もまた、支配やコントロールを生むようです。
・相手のことを思うから、相手を〜させたい。
・やさしさや愛情から、相手に〜して欲しい。
(親子の関係を考えると、想像しやすいでしょうか)
こういうことでも、支配やコントロールの構造が生まれる場合もあります。
(あまりに一方的だったり、強すぎたりすると、ですね)
そういう、一般的には善い思いも、それが高じて、支配やコントロールの構造を生む場合も多々あるようです。
(しかし、「だから、誰々が悪い」――というものでは決してないです)
(ただ、そういう構造や布置があるということです)
☆
さて、このように、ひとつの見方として、支配やコントロールが、自身の中においても、関係の中においても、影やコンプレックスを生んでしまうわけですが、それに対し、我々はどう接していけばいいのでしょうか?
3.コンプレックス、存在の意味
行き過ぎた「支配」や「コントロール」が「影」や「コンプレックス」を生み出す面があるわけですが(あくまで、一面として、ですが)、裏を返せば、「影」や「コンプレックス」が、「支配」や「コントロール」の構造を打ち破る役割として生まれている――とは言えないでしょうか。
そう考えると、影やコンプレックスという存在にも、意味が出てきそうです。
(決して、自我を困らせる、困ったちゃんや悪者というだけでは、ないわけです)
☆
一人の人間として生きる以上、誰かに支配されたりコントロールされるのは、まっぴらごめんだと思います。
(まあ、すべてがそうというのではないですが、行き過ぎた支配やコントロールは、誰もが御免こうむるところでしょう)
(そしてそれは、無意識から意識への意見でもあるのでしょう)
仮に、その支配やコントロールが、一般的に善いとされることであったとしても、行き過ぎた支配やコントロールは、まっぴらごめんだと思います。
なぜなら、それは「可能性を奪い去る行為」でもあるからです。
☆
例えば、それは危険だからと、それをさせないようにコントロールしたとして、確かに、それは危険だし、特に自分で判断できないような幼いときは危険を回避するように、ある程度干渉すべきなのですが、いつまで経っても、その状態が続くと、その人は何も出来ない人になるかもしれません。
危険と一緒に、その人の成長の可能性まで、奪い去ることにもなりかねないのです。
(当たり前ですが、だからと言って、好きにさせろというのではありません。そこには、ちゃんと危険も、リスクも、存在します)
・相手のためを想って、危険を回避させるのが必要なのも、真実。
(それは、意味ある行為であり、人間的な行為である)
・しかし、場合によっては、それが相手を縛ることになることも、また真実。
そんな、矛盾した二面性があります。
(どちらも、真実でありながら、です)
また、誰かが、ある集団を仕切っている場合でも、その王や女王たる人のおかげで、その集団が安定する面もありますが、あまりに、その支配が強かったり、王や女王に頼りきった生活を送っていると、仮にその王や女王が死んだ時、その集団は滅びの危機を迎えてしまいます。
もう少し現実的な表現をすると、王や女王のような立場の人が、あまりに活躍しすぎると、それは周りの人の「役割」を奪い取ることにもつながり、その役割を奪われた人は、その役割を持たぬ人になってしまう面もあるという事です。
(お父さんであってお父さんでない人、お母さんであってお母さんでない人、大人なのに大人でない人、とか)
(個々のケースにより、もっと細分化された役割もあるでしょう)
もっとも、だから王や女王に責任があるとは、単純には言えないです。むしろ、王や女王のような人のおかげで安定している面もあるし、王や女王が、みんなのために、身を粉にして頑張っている事実は消えません。
誰かが悪いというのではなくて、ともかく、そういう関係が出来上がってしまっている、という事です。
ここでも、
・中心人物のおかげで、その集団が安定する、という事実。
・しかし、(それも過ぎると)その影で奪われるものもある、という事実。
両面があります。
☆
また、「幸せのカタチ」という記事でも書いたと思いますが、以前の幸せのカタチと、今の幸せのカタチが、必ずしも同じとはいえません。
前述のことに触れるなら、危険を回避して守ろうという、(守る側にも、守られる側にも)ある意味、幸せだったカタチが、ある時から、幸せのカタチではなくなってくることも、多々あるという事です。(悲しいですが)
また、王や女王の、その集団を構成する人のことを思いやった、素晴らしい統治が、ある時から、人々の負担になったり、成長の可能性を摘む行為になることもあると思います。(これまた、寂しいですが)
☆
こういう二面性がある以上、自我が混乱するのも当たり前です。なんせ、どちらも事実です。
ですから、自我が「防衛機制」を働かせて、そういう現実を、見えないところ(無意識)に追いやるのも、至極当たり前のことだと思います。
☆
ただ、こういう布置に際して、自我が気づいていなくとも、「影」や「コンプレックス」は見えないところで、むくむくと活動し、以前の幸せのカタチや、支配やコントロールの構造を破壊するものとして、現れてきます。
4.コンプレックス、その死と再生
「影」や「コンプレックス」の存在にも意味があって、ある一面をとれば、古い(今の幸せにはそぐわない)幸せのカタチや、「支配」や「コントロール」の構造を破壊するための役割もあるわけですが、そういうことを考えると、
・いったい、自分の影やコンプレックスは、どんな支配やコントロールに対抗しようとしているのだろう?
・どんなものを壊そうとしているのだろう?
――そういうことが、影やコンプレックスと対話する、ヒントになってくるかもしれません。
(もちろん、その対象は、自分の内にも、外にもあると思いますが)
☆
影やコンプレックスのする事は、だいたいは、その初期において、自我にとって困ったことだったりするので、こういうことは見えにくいとは思いますが、影やコンプレックスに振り回されながら、ヘトヘトになり、あるいは、思わぬ行動や事件、胸をつんざくような一言によって、みんなが悲しみに覆われたり、疲弊したような時、それこそ、泣いたり、しゅんとしたり、落ち込んだ時、内面においても、関係においても、そういうぶつかり合いがあった時、爆発のようなものがあった時、そのような時になって、頑なだった自我がポキリと折れ、それと同時に、支配構造や、現実にそぐわない幸せのカタチが見えてくるかもしれません。
以前、どこかで、「影やコンプレックスと付き合っていくには、それなりの自我の強さがいる」と書きましたが、その自我のあり方が、一面的過ぎても、問題を見えにくくするようです。
(もっとも、自我が弱いと、影やコンプレックスの破壊性にやれれちゃうわけだし、それは対決や対話、付き合いとは言えず、単なる隷属になっちゃいます)
(あるいは、同一化ですね。自我が、影やコンプレックスに、同化しちゃうわけです)
(対決、対話、付き合いをするには、ある程度、同等でないといけないようです)
☆
さて、こういう葛藤や、苦しみ、悲しみ――それも一人だけではない、みんなの葛藤、苦しみ、悲しみ――を通して、行き過ぎた支配やコントロールの構造、現実にそぐわない幸せのカタチが、見えてきて、それが解体されていきます。
そこには悲しみなどの感情が付きまとい、ある意味においての「死」があります。
支配やコントロールという構造の死、今までの役割の死、以前の幸せのカタチの死、それらの死を経て、新しい関係、新しい役割、新しい幸せのカタチ、などが創造されます。
そして、こうしてみると、「影」や「コンプレックス」というものが、単なる破壊者ではなくて、創造する者としての一面も有することが分かります。
苦しいところに留まるから、影やコンプレックスは悪者になるのであって、それを突き抜けて、「死と再生」を経験した時、影やコンプレックスの、決して悪者ということだけではない、そんな側面が見えるはずです。
(このような意味での、影やコンプレックスを擬人化したような存在に、「トリックスター」というものがあります)
【参考】ユング心理学辞典:「トリックスター」
5.コンプレックスの複雑さ
「コンプレックス」は、当初、「感情によって色づけられた複合体」と呼ばれました。コンプレックスの体験には、文字通り、様々な「感情」が絡み合うわけです。
☆
それは複合体というだけあって、ひとつではありません。
怒りだったり、悲しみだったり、
絶望だったり、落ち込みだったり、
自分の中にも、複雑にあり、
人との関係の中にも、複雑にあり、
憎悪の裏に、愛情があったり、
憎しみの裏に、感謝の気持ちがあったり、
飛び出したい気持ちの裏に、愛への渇望があったり、
進みたい気持ちの裏に、かえりたい気持ちがあったり、
旅立ってほしい気持ちの裏に、守りたい気持ちがあり、
進んでほしい気持ちの裏に、かえってきてほしい気持ちがあり、
それぞれは決して嘘ではなく、
相反しながら、真実で、
それらのものが複雑に絡み合って、「感情によって色づけられた複合体」=「コンプレックス」を形成するようです。
(まあ、それでこそ、人間でしょう)
☆
だからこそ、コンプレックスの解消に際しては、複雑な葛藤が存在し、様々な感情があふれるのだと思います。
そして、これらの葛藤や、感情の爆発を通して、「如何に、それらを統合していくか」ということが、大切な仕事になってくるようです。
これは、まったくもって、大変な仕事ですが、それでこそ、仮に、何か他のことが止まってしまっても、退行してしまったとしても、取り組む価値があるのかもしれません。
(それに関わる、みんなで…ですね)
6.終わりに
このように、影やコンプレックスは、厄介な存在なのですが、それだけの存在でもなくて、現実にそぐわない(以前の)幸せのカタチや、行き過ぎた支配やコントロールの構造を破壊する力も持っています。
(それくらい大きな力を持っているから、自我にまで影響を与えます)
(それくらい大きな力を持っているから、痛みもあります)
(それくらい大きな力を持っているから、閉塞状態を打ち破ってくれます)
そして、その悲しみなどの感情を十分に経験した時、自分のおかれている状況を十分に意識した時、その凄まじいエネルギーは、創造へと向かうようです。
何かしらが終わるというのは、悲しい事ですが、その次に生まれるものもあります。
悲しみの向こう側に、生まれるものもあるようです。
(それが何かは、人それぞれ)
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