読み物
★『善悪の彼岸』★
<神なるもの、悪魔なるもの>
ちと宗教モードくさくなるかもしれません。
☆
神なるもの、善なるもの、善きこと(善いとされていること)について書き出すと、
・創造
・安定
・適応
・心地好さ
・満足
・包み込む感じ、絆
・生かす、生きる
――とかですかね。(まあ、もっといろいろあると思いますが)
★
一方、悪魔なるもの、悪なるもの、悪しきこと(悪いとされていること)について書き出すと、
・破壊
・不安定(イライラとか)
・不適応
・不快感
・不満足(物足りなさ、渇き、飢え)
・切ること、切れること、離別
・殺す、死ぬ
――とかですか。(まあ、ざっくりですが)
☆
まあ、パッと見た感じ、前者が良くて後者が悪そうですが、実際問題は、そうでもないようです。
・良いものを創造するのはいいですが、悪いものを創造されると困ります。
(良い悪いの分別は難しいにしても、です)
・良いものを破壊されるのは困りますが、悪いものは破壊してほしい気もします。
・創造ばかりでも溢れ(あふれ)かえって破綻するし、破壊ばかりでも破綻しそうです。
・良い状態に安定するとよさそうですが、そればかりでも進歩は望めません。
・悪い状態に安定すると、無限地獄になりかねません。
・過去良い状態だったものが悪いものになったり、過去悪い状態だったものが良いものとなることもあります。
・包み込まれると安心しますが、それも過ぎて、しがみつかれると身動き取れません。
(絆が強すぎて、前に進めない場合もあります。愛情が深すぎて、自立できないとか)
・関係が切れるのは寂しいですが、時には切ってでも、進まなければならない時もあります。
・生命において死ぬのは困りますが、象徴的に死ぬのは構わないような気もします。
(社会的に死ぬとか、今までの自分が死ぬとか)
・以前の自分が死んで、新しい自分に生まれ変わる――ってこともあります。
(象徴的に死なないと変われない――ってこともありそうです)
――このように、一概に、何が善で何が悪とは言えないようです。
☆
世の物事には「二面性」(あるいは、多面性)があって、それはある場面では、善であったり悪であったりしますが、それも別の場面では、善悪がひっくり返ることも度々です。
というか、それが善であるとか悪であるとかいうより、その場面では、「それが表に出る」とか「その一面が強くなる」という感じですかね。
ある場面では表の面が強く出て、ある場面では裏の面が強く出るとか…
まあ、本質的には、両面を持つのだと思いますが。
☆
ということで、安易に善悪に囚われると、その奥にある「本質」を見失うかもしれません。
<真に悪なるもの>
世の物事には「二面性」があって、それはある場面では、善であったり悪であったりして、また別の場面では、善悪がひっくり返ることも度々なわけですが、それを越えて、「真に悪なるもの」もあるような気がします。
★
・故意に、誤解に導くもの、
・自己都合で、相手や周囲を支配しよう(コントロールしよう)とするもの、
・上記のために、暗躍するもの、
もう少し具体的に言うと、
・実際はそうでないことを囁いて、混乱させる、
・あるいは、各パーツは真実であるにしても、それを作為的に組み立て、相手を操作する、
(ポイントを上げたり、下げたりする)
・またその根源が、自分の都合(時に、思想)だったりする、
★
これらの恐ろしいところは、当たり前に、我々の身近にあるということです。
(これにやられてしまった経験がある人も、多いのではないでしょうか)
これらは、我々の内にも、外にも、あるように思います。
あるときは被害者に、あるときは加害者になるかもしれません。
(あるいは、協力者として、加害者になるかもしれません)
そこが怖いところです。
☆
ただ、何ごとにも赦される範囲と、そうでない範囲があるようです。
ともかく、こういう悪意に負けないように、内からの悪意にも、外からの悪意にも、支配されないようにしたいものです。
また、それを成すのに必要なのは、意志の強さであり、無意識とのいい関係であるのかもしれません。
また、ここで、上で述べた「自分の価値観を持つこと」や、それによって、「自分で見て、自分で考える」ことも大事になるでしょうか。
出来るならば、悪なるものに留まりたくないものです。
また、その支配やコントロールを受けたくないものです。
善悪なんて、簡単には語れないし、簡単には分別がつかないですが、それにしたって悪いこともあるわけで、特に、都合でコントロールするとか、一方的な価値観で支配するとか、そういうことをするのは避けたいし、また、抵抗すべきことであるように思います。
(まあ、それがすべてではないですが)
(「一時的なことか」、「永続的なことか」ってこともあります)
<変容とサナギ、メタモルフォーゼ>
誰かが新しく生まれ変わろうとする時、変容しようという時、それは、上で述べたような、「一般には、悪いとされていること」のカタチをとって現れる場合も多いのかもしれません。
それは、「破壊的なこと」として現れるかもしれないし、「不適応」として現れるかもしれません。あるいは、「関係を切ること」や「象徴的な死」(社会的に死ぬとか、死んだようになるとか、死ぬような深い悲しみに覆われるとか)として現れるかもしれません。
ともかく、そのような状態を通してでも、何かに変容しようとしている――と捉えることも出来ます。
そのような苦しみ、悲しみを通してでも、より良い何かに変容しようとしているのかもしれません。
(まあ、全部がそうとも言いませんが)
☆
その時、周囲の人間が、それが一般には悪いことだから、とか、自分にとって善なるものである、「安定」や「適応」、「心地好さ」、「満足」を守るために、とか、そういう理由で、その人の変容を阻害したら、どうなるでしょうか?
その人が、葛藤を通して、新たな自分に生まれ変わろうとしているのに、一般論や自分にとっての善いことのために、その人の可能性を殺そうとすると、どうなるでしょうか?
★
といっても、安易に、「破壊的なこと」や「不安定」や「不適応」を賛美しているのではありません。誰にとっても、そんなことは避けたいものです。
また、安易に相手のすることを受け容れろ、というのでもありません。
しかし、それらを承知しながら、尚、変容しようとしている人に対して、いったい、どのように接するべきか?
――そういうことを考える必要は、あるのかもしれません。
☆
変容といえば、蛹(サナギ)がイメージされます。幼虫は、まるで死んだかのような、蛹の状態を経て、成虫となり、空に羽ばたきます。
それに際し、蛹の状態が醜いからといって、それを阻害した場合、成虫にはなれないことも、考慮する必要があるかもしれません。
醜い蛹(サナギ)の状態を拒否することで、美しい蝶となって空を飛ぶことまで、拒否してしまうこともありそうです。
が、逆にいえば、今の、死んだような蛹の状態も、これから蝶となって羽ばたくための、通過儀礼なのかもしれません。
<みんなの変容>
「変容」ということを考えるなら、ひとりの変容(例えば、苦しんでいる人、問題があるとされている人、の変容)、その、ひとりの変容を通して、その人に関わる、皆が変容することが望ましいのかもしれません。(あるいは、望まれているのかもしれません)
まあ、無意識的な働きとして、ですね。
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もっとも、その変容の過程で、葛藤や対決があって、当事者のみならず、関わる人にも負担がかかるわけですが、その中で、どうしても、その重荷に「偏り」が発生してしまう傾向があるようです。
(重荷がどこかに集中する場合もあるようです。酷なことですが)
特に、原因を特定しようとする場合、悪くすると、「〜のせい」ということになりかねません。(実際は、そうでないとしても、です)
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こういうことを避けるための、ひとつのヒントとして、原因を特定することのみに躍起になったり、誰かを「〜させる」ことに躍起になったりするのではなく、その人が、「どうなっていくんだろう?」という事に、エネルギーを使ったほうが、建設的かもしれません。
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逆に、原因を究明すること「のみ」にこだわると、エネルギーの無駄遣いになるかもしれませんし、誰か悪者を作って、責めるだけになるかもしれません。(自分を責めることも含めて、ですね)。あるいは、自分にとって善い方向に無理やり操作しようとすると、強い反発にあうかもしれません。
(もっとも、原因を探ること自体を否定するわけではなく、そこには意味があると思います。ただ、それ「のみ」では、何も変わらないかもしれませんし、それで終わってしまうのは悲しいことです)
だからこそ、「この人は、どうなっていくんだろう?」という気持ちで、その変容という仕事や課題に、付き合っていこうとすることが大事になるのだと思います。
そして、そうする事により、ひとりの変容を通して、皆が変容できるような気もします。ひとり一人が、成熟できるようにも思います。
そういう意味で、変容の中心人物は、皆が変容するための、「道しるべ」や「案内人」的な役割を担っているのかもしれません。
(これまた、辛いですけどね)
子供の問題を通して、夫婦が話し合ったり、向かい合うようになるとか、ひとりの問題を通して、家族のあり方を考えるようになるとか、そういうことは、よくあるようです。
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