(1ページ目)
■「元型」
■「自我」
■「ペルソナ」
(2ページ目)
■「影」
@「影」
A「影」と「ペルソナ」
B「投影」
C「もう一つの影」
(3ページ目)
■「コンプレックス」
■「劣等感コンプレックス」
(4ページ目)
■「アニマ・アニムス」
■「トリックスター」
(5ページ目)
■「個性化/個性化の過程」
■「共時性」
(6ページ目)
■無意識 (2008年02月27日追加)
個人的無意識
普遍的無意識
【その他、療法など】
■「ゲシュタルト療法」
【無意識】
■無意識
心の中の、意識できない、深い部分。
広い意味での、心のありよう、人間の内界のありよう。
意識できない部分を含めた――意識できる部分を越えた――心のありよう、人間の内界のありよう。
三省堂「大辞林」によると、
>〔心〕 通常は意識されていない心の領域・過程。
>夢・瞑想・精神分析などによって顕在化(意識化)される。
>潜在意識。深層心理。
意識を補完する機能を持つと思われる。
限られた意識をサポートするともとれる。
意識とは絞ったり、限定することでもあるが、その相対する存在である無意識は、無限の広さを持っている、故に、無意識。
人は部分を意識できるが、全体を意識できない。
人の意識できる全体は、もっと広い全体の部分である。(*1
■個人的無意識
比較的浅い部分にある、無意識の層。
意識と隣接しているから、個人的な色合いが濃い。
個人が体験したことで、意識の枠組みに収まらないものが、ここにあると仮定できる。
平たく言えば、何らかの要因で、意識から締め出されたり、はみ出たものが、この層に存在する。
(「影」とか…)
■普遍的無意識(集合的無意識)
意識から離れた、より深いところにある無意識の層。
意識と離れているから、その色合いはより普遍的になる。
人類という枠組みだと、人類に共通する普遍的なものが、この層にあると思われる。
(個人的には、機制(メカニズム)的なものは、この層にあると思う。但し、個々の、機制から発生したものは、むしろ個人的無意識にあるんでしょう。それは個人的な体験だから。ここにあるのは、各種のメカニズムとか、本能とか、すべての人間に共通する土台になるもの)
個人的な体験を超えて持つものが、ここにあると仮定できる。
◇
例えば、「母なるもの」を考えた場合、実際の母親に触れた個人的な経験の内、
@おおかた意識できているものもあり、
A意識からはみ出した個人的な経験もあり、
Bそういう個人的な経験を超えて、人類が奥底に持っている、共通のイメージもあります。
それらがそれぞれ、@意識の領域、A個人的無意識の領域、B普遍的無意識の領域、にあるというわけです。
◇
因みに、心理学のスタンスでいえば、無意識の層にあるものに影響されて起こる(意識の側の)現象に重きが置かれ、それを手がかりにして、無意識の層にあるものを意識的に捉えようとしたり、定義付けしようとしたりするのだと思います。
逆に、宗教的なスタンスだと、むしろ、無意識の層に自ら降りていって、無意識を十二分に体験することが、その目的になっているような気がします。
(体験することで、結果、意識化することになったりする)
それぞれ、同じようなものを問題としているのだけれど、しようとしていることは、違うように思う。(アプローチとか、立ち位置、目指す到達点とかは、違うんじゃなかろうか)
同じようなものを解明しようとしているのだけども、心理学は、無意識の層にある「そのもの」(例えば、元型)よりは、「そのもの」によって、意識の層に現れる何か、を問題にしており、宗教の方は、純粋に、「そのもの」を探求しているような印象があります。
ある意味、心理学は人間(=意識)の側に立つが、宗教はむしろ、自然とか、宇宙(=無意識)の側に立っているような気がする。(身を置く、といってもいい)
もっとも、どちらの立場にしても、「ゆるさ」や「あやふやさ」は持つだろうし、また、それでいいような気もします。
(逸脱さえしなければ…)
◇
もう一度、意識と無意識の話に戻ると、意識(あるいは、意識する行為)というものは、暗がりでサーチライトを照らすようなもので、その限定された、照らされた部分を、我々は意識することになります。
それは、目に見える範囲ということでもあり、(個人的に)体験したということでもあり、集中して見たことでもあり、多くのものから絞ったものでもあるでしょう。
逆に、そこからはみ出す物が無意識であり、それは、目に見える範囲の埒外にあり、個人の体験を超えたものであり、拡散した広い範囲であり、多くのものが混沌として存在する世界なんでしょう。
で、その両方によって生かされているのが、人間なんでしょうね。
(*1
例えば、我々は地球全体を意識できない。しかし、地球の部分である何かは意識できる。また、地球だって、宇宙の一部だったりする。
これは人間総体に対しても同じで、我々は自分にしろ相手にしろ、総体としての人間すべてを意識することはできないが、その部分を意識することはできる。
また、これは人間の内界にもいえ、我々の心というものは、意識できる範囲以上に広く、多様である。
だから、不可解で、怖ろしい部分も有する。
(そして、それだけに、可能性に対して開かれている)
日記より:「無意識について思うこと」
日記より:「元型と集合的無意識/ユング心理学概説(2)」
やさしいユング心理学:第4章 無意識の領域
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【ゲシュタルト療法】
『ゲシュタルト療法』
パールズの提唱した「その人の人格の持続的な成長・成熟」を目的とした療法のひとつ。
ゲシュタルトという言葉は、ドイツ語で「全体のかたち」「全体性」という意味をさします。
ゲシュタルト療法は「今、ここ」という体験を重要視し、感情や身体感覚などの体験を通して、自己や本心と向かい合い、そういうものに気づき、人格や統合性・全体性の回復を図るものです。
ゲシュタルト療法の九原則:
第一法則:『今に生きる』
第二法則:『ここに生きる』
第三法則:『想像をやめて、現実的に物事をとらえる』
第四法則:『考えることより、感じることを選ぶ』
第五法則:『判断するよりも、表現する』
第六法則:『不快な感情も受け入れる』
第七法則:『権威者を作らない』
第八法則:『自分自身に責任を持つ』
第九法則:『自分自身であろうとする』
関連記事:「ゲシュタルト療法的な生き方」
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