【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング

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このページでは、「やさしいユング心理学講座 第四章:無意識の領域、元型、影」についての紹介をしています。

【第四章 無意識の領域】




第四章 無意識の領域





今でこそ「無意識」という言葉が一般的に使われるようになりましたが、果たして、その無意識とは何なのでしょうか?

それは意識下の領域にあり混沌としているため、直接意識することはできません。が、日本人にとっては、馴染み深い感じもしますよね。
禅、瞑想、その他、自然にまつわるものまで、無意識的な要素を受け容れる準備は、日本人にはありそうな気もします。
ひょっとしたら、意識的な活動より、無意識的なものに重きを置いていたような面も、あるかもしれません。


さて、ユングは無意識を二つの領域に分けて考え、それぞれ「個人的無意識」、「集合的無意識(あるいは普遍的無意識)」と呼びました。これらについて、見ていきましょう…





1.無意識

無意識とは文字通り、「意識してない状態」や「通常は意識しない心の領域」のことを言います。
ユングは心の構造を、@「意識」 A「個人的無意識」 B「集合的無意識(普遍的無意識)」に分けて考えました。


@ 「意識」とはいわゆる自我の領域のことで、認識・判断をつかさどります。
私を私と感じ取れるのも、意識のおかげです。
また、過去の私と、今の私をつなぐのも、意識です。

何かしらに気づいたり、感じたり、体験するのも、意識。
五感などにより知覚いているもの、あるいは知覚している状態が、意識。

そして、本来意識できない無意識的な要素を――夢などを通して――体験するのも、意識です。



A 「個人的無意識」は比較的浅い無意識の層のことで、意識から抑圧されたもの、意識の領域にはないものの心に影響を及ぼす感覚的な痕跡、などから成り立っています。
文字通り、下で述べる集合的無意識とは違った、個人の無意識。個人の体験に関係する、無意識になります。
これはいわば簡易ポケット的なところもあって、抑圧する先などにも使われる。

「コンプレックス」や、あとで述べる「影」などは、この領域にあるものです。
また、無意識から意識へ向かう過程で、意識まで到達するだけの力がなかったもの、何らかの理由で到達できなかったもの、それらも、個人的無意識の領域にあるものと思われます。

この層は意識の領域に比較的近い層なのですが、それ故に身近で、意識に強い影響を与える。(「影」や「コンプレックス」の影響を考えたら、分かりやすいかもしれません)
そして、近いが故に、後で述べる「集合的無意識」の層にあるものよりは、理解しやすい(意識しやすい)のかもしれません。
「影」などは、「身近ではあるけれど、よく分からない存在、見えにくい存在」という見方も出来ます。
(あるいは、近すぎて見えない)


自我 ― 個人的無意識 ― 集合的無意識、という位置関係を考えると、深い無意識にあるものと自我の間の、橋渡し的な役割も、担っているのかもしれません。



B 「集合的無意識(普遍的無意識)」は、より深い無意識の層。個人の体験を超えて、民族や人類にさえ共通するといわれます。

宇宙樹のようなものを考えた場合、根や根に近い幹の部分が集合的無意識。枝やそれにつながる幹の部分が、個人的無意識。枝の先っぽが、自我となるでしょうか。
大きな木、大きすぎる存在は、そのすべてを見ることができない。
見えるのは、枝の先や、そこに咲く花、実など。
しかし、それらを辿れば、枝は幹につながり、幹は根につながっている。そして根は、より広い大地につながっているのかもしれない。


集合的無意識とはつまり、「個人的な経験を超えた集団・人類などの集合体が根底に持つ(共通の)無意識の領域」、「個人的な枠を超えた、普遍的な領域」といえるでしょうか。

人間というものを見ていくと、個人的な経験を超えたパターンのようなものが見えてきます。共通する型が見えてくる。
それが後で述べる「元型」なのですが、その元型があるのが、集合的無意識というわけ。


この集合的無意識の考え方はユング心理学の特徴と言えるもので、ここに「可能性に対して開かれた態度」の基礎があるように思います。可能性を何らかの枠組みに閉じ込めることなく、人類共通の領域にまで広げている点は、私がユング心理学に惹かれる大きな理由のひとつです。

ひとりの人間を語る時、それは個人的な経験が強く影響する。しかし、その一方で、個人的な経験を超えた何かが、影響していることもあるようです。
人間は、広く一般的な特徴を持つとともに、個別の特徴も持ちます。なので、その両方を無視できない。
無意識についても同じことが言え、個人の体験が関係した無意識と、それを超えた、もっと広く共通した無意識があるのです。

無意識といえば、人間の生命活動を維持しているのも、無意識的な働きによるものです。人は呼吸や体温維持などを、いちいち意識してやってはいません。(深呼吸やコートを羽織るなどは、するものの)
そしてそれは、個人の生命を維持するものであるとともに、人類に共通した働きでもあります。
目に見える範囲では、個人用のもの。でも、その根底にあるのは、人類共通のものです。



世界中に似通った神話が存在したり、特定の生物が学習なしにある種の傾向を示すのは、この集合的無意識によるものだと言われています。(昆虫などが独特な餌の捕り方を教えられることなく体現したり、天敵の存在を生まれながらに知っていたり――そういうのも、集合的無意識のおかげだとされています)

我々人類を考えても、自我は各個人によって違うわけですが、無意識の深遠、集合的無意識ではつながっており、そこに共通の「型」が存在するために、地域や文化が違うにもかかわらず、似通った神話や伝承が存在すると仮定できます。

その共通の型が下で述べる「元型」で、元型について考えることで、より集合的無意識(普遍的無意識)の理解が進むように思います。





2.元型


ユングは集合的無意識の中に「共通した基本的な型」を見出すことができると考え、これを「元型」と呼びました。

元型は仮説的概念であって、元型そのものは決して認識されるものではありません。我々が意識の領域で見出すのは、元型から浮かび上がってきたイメージです。
それもそのはず、無意識の領域にある「そのもの」は無意識というだけあって、意識できません。
我々が認識できるのは、現世にあるものの姿を借りて顕現したもの、つまり象徴的イメージとして、ですね。
(象徴については、後で説明します)


無意識は、混沌としています。その深遠である集合的無意識なら、なおさら。
そこに原始から今に至るまでの様々なものが集まっていると仮定できるのですが、そんな領域、そんな状態にあるので、おそらくは、いろんなものが現実の世界とは異なるのでしょう。
そして、知覚するということができなくなっている。

あまりに広いものを、我々は知覚することができません。なので、あまりに広い集合的無意識を、知覚することはできない。
あまりに広く、あまりにいろんなものが混ざり合ったものは、知覚のしようがない。

そのため、そこにある「型」も、現実世界の我々には、その型「そのもの」を認識することはできません。
そもそも、互いの世界の成り立ちが、違ってしまっているのでしょう。あちらの世界とこちらの世界、みたいに。



人の悩みというのは、目の前の実際です。各人には、実際の悩みがある。
しかし、今まで学んできたようなことを鑑みると、実際の悩みの奥に、本当の悩みが隠されていることもあることが分かる。
実際の悩みというのは、いわば症状であって、その症状を引き起こしているものは、奥にあったりする。

で、その奥にあるものと、元型が関係している場合があります。
無意識の奥にある共通の型による影響が、見えてくる場合がある。

以降の章で触れる「影」「アニマ」「アニムス」などもそれで、これら元型と実際問題の狭間で、人は悩みます。
悩むのだけれど、それとの対決を通して、成長もする。
その詳細は、各章に譲りましょう。



河合隼雄先生は元型を、「人間が生来持っている『行動の様式』である」、あるいは「古来からの遺産としてみるならば、遺伝された理念とか心像とかではなくて、そのような表象の可能性である」と述べておられます。


私は仮説として、集合的無意識は様々な経験や知識の濃縮された集合体であると考えています。「自我 ― 個人的無意識 ― 集合的無意識」というルートがあって、我々の自我が集合的無意識の影響を受けるように、我々の個人的な経験もまた、集合的無意識に蓄積されるのではないかと。気の遠くなるほどの年月の間、蓄積されたものが、集合的無意識ではないかと考えます。
ただ、集められたそれは、経験や知識そのものではなくなる。個人的なものが合わさって変容し、様々な可能性を生み出す根源的な存在のようになる。単なる記憶の集積ではない、それ以上のものになると。
そして、その集積や変容を助けているのが、個人的無意識という過程なのかもしれません。それが、ある種のフィルターのような役割を果たすのかもしれない。


話を戻すと、河合先生がわざわざ「行動様式」という言葉を使ったのは、元型には人格がなく、そうするように初めから決まっているものといった、システムや様式(定められたやり方)であるということを伝えたかったからだと思います。

ユングは元型について、以下のように述べています。

元型は「遺伝的に継承された観念」ではなく、「継承された機能様式であって、それはちょうどヒナが卵からかえるような、鳥が巣を作るような、ある種のスズメバチが毛虫の運動神経節を刺すような、あるいはウナギがバーミューダ諸島への行き方を見出すような、生得的なやり方に相当する。いいかえれば、それは『行動パターン』である。元型のこの側面、すなわち純粋に生物学的な側面こそが、科学的心理学の本来の課題である」

これらを総合すると、元型とは、単なる記憶され蓄積されたイメージではなく、そうするように初めから決まっている、行動パターンのようなものであることになるでしょうか。

確かに、自我は元型をイメージとして捉えます。しかし、元型の働きはそれに留まらず、いろんな影響を与える。そして、我々と各種元型の対決をセッティングします。まるで初めから決まっているかのように。
そして、その最終目標は、成長すること、できるだけ完成された人間になること、全体性を獲得することだと思える節がある。(それについては、個性化のところで)

我々は元型により、いろんな生き物が知らず知らずのうちにそうしているように、個性化や全体性への道へと、導かれているのかもしれません。



この元型ですが、共通の型であるとともに、個人的な傾向も併せ持つようです。
アンソニー・スティーブンスはこれを下記のような分かりやすい例えで説明してくれています。

「人間の指紋はその形状からすぐに人間の指紋であると分かるが、同時に、一人一人の指紋はすべて形が違う。それと同じように、元型は普遍的なものと個人的なものを併せ持っている。つまり人類共通でありながら、一人一人の人間に、その個人特有の形であらわれるのである」


元型というのは、ひとつの傾向としては共通の源泉を持ちますが、それを体現する人間は一人ひとり違う。
環境、性格、時代などなど、それを表す人が違ってくるので、目に見えるカタチとしては、いろいろと違ってきます。

元型は、集合的無意識という混沌とした広い世界では同じですが、個人的無意識というフィルターを通り、自我が認識したり、自我が身体を含めた全存在として表現した時には、もう少し個人的なものになると。
根には共通の傾向を持ちながら、その表現は、個人的な色彩も帯びるのです。


ここにも、二面性の神秘がありますね。
共通した元になる型だから元型と名付けられたのに、それがこの世に顕現された時には、個人的な部分も含む。普遍的な部分と個人的な部分、その両方を含むことになる。
そして、その時々においては、そのどちらかの面が強くなることもあると。

この二面性を知ることにはすごく意味があって、というのは、これを無視しているためにいろんな不都合が出ている面があるように思います。それぞれの個人の問題にしても、また、社会の問題としても、ですね。
時に我々は、物事の一面のみに注目し、それを悪者にしたり、正義としたりしてしまいます。
でも、物事に二面性や多面性がある以上、それはいつも悪者とは限らず、また、いつも正しいとは限らないのです。
悪く働くこともあれば、正しく働くこともある、一概にはどうこう言えない、それを判断するにはどういう状況においてか、分けて考える必要がある。
そういうことを、忘れがちなのです。

ただ、こういうことも、物事の二面性を知れば、いくらかは改善されるのではないかと思っています。
時間がかかるにしても、ですね。


我々は往々にして、悪者や権威者を作りがちです。そして、それによって、自分に制限を課してしまう。
それがまったく悪いとは思いませんが、あまりに重い制限になってしまった場合、我々の人間の部分が悲鳴を上げてしまいます。

その、人間の部分と密接に関係するのが、実は、無意識なのです。
身体も心も、普段意識しない部分が、人間の基底を形作っています。
そして我々は、そのことを、たびたび忘れてしまう。


無意識的なものはよく我々の生活を脅かしたり、いろいろと困ったことを仕掛けてきたりしますが、そう思うのは自我の都合であり、実のところ、我々の歪みを知らせてくれたり、何とかバランスを取り戻そうと、懸命に働いてくれているのかもしれません。

なので、無意識や元型、象徴などについて知ることには、意味があると思うのです。



ちなみに、元型ですが、「影」「アニマ」「アニムス」「自己」「太母」「老賢者」などがあります。


次節では、影について見ていきましょうか。


【ユング心理学辞典】:『元型』





3.影との戦い


元型の中で特に有名なものに「影」があります。元型の知識がなくても影の表現を使う人は多いのではないでしょうか? 小説や映画のモチーフとしても、多数存在するでしょう。
影とはいわゆる、自分で認めたくないマイナス面、足りない部分、間違った態度、暗黒面、抑圧された願望などのことです。

その人自身があまり評価していないようなもの、どちらかという否定しているもの、故に抑圧しているもの、手つかずで未発達なもの、それらは自我から締め出され、影となります。

そういう意味では、自我の安定を守るために、それを脅かすものは無意識に追いやられて影になるともいえます。が、しかし、一方では、自我に欠けている部分が影である、ともいえる。
つまり、欠けた自我を補完するのが影であると。


我々は何らかの、タブーを持っています。
個人的なタブー、社会的なタブー、いろいろある。

社会のルールとして、してはいけないこと、思うことさえはばかられるものなどを、持つようになる。
また、個人の信条としてや、家族の決まり、あるいは宗教上の制約などなど、いろんなタブーを持つようになる。

とはいえ、我々は人間ですから、いろんなことを思ったり、感情として有したりもする。
その中には、上のタブーに関係するものも、あるでしょう。

内から出てくるものと、自我によって制限されているもの(場合によっては、軽んじているものや、単に知らないもの)。それらがぶつかって葛藤を起こすのですが、それに自我が堪え切れない場合、抑圧という処理がなされる。
タブーに関係するものは、もう考えることもなしに、無意識に放り込まれる。意識しないでいい領域に、捨てられる。

ただし、自分の内から出たものは、捨てられないし、切り離せない。前述のとおり、表現したり流したりしないと、なくなりません。
で、そんな存在が、影を形成するのです。


で、それはいつもそばにあって、ついてくる。
意識には上りませんが、意識のすぐそばに存在する。
いつもは気にしませんが、何かの拍子にちらちら見えたりして、気になったりする。
しかし、気になって見てみても、外郭があるばかりで、中身はよく分からない。

そんな、陽によってできる影と同じような性質を持つものが、我々にいつもついて回るのです。


我々は、ぼんやりと影の存在を感じながらも、それについてはあまり問題にしません。
が、人生のどこかで、勝負せざるを得なくなったりする。

自分があまり評価していないもの、否定してきたもの、手つかずで未発達なもの、それらと対決せざるを得なくなる。

それは自我にとっては苦しいことなのですが、そうしてこそ、足りない部分を補うことができます。あるいは、方向を修正することができる。

仕事だって、そうでしょう。はじめは邁進することで成長しますが、やがて飽和する。で、その壁を破るには、今までしてこなかったことに手を出さないといけないかもしれない。あるいは、あまりに一面的だった態度について、考え直さないといけないかもしれない。

あるいは、スポーツだってそう、鍛練し、ひとつの方向で十分に習得した後は、別の部分で補うことを考えないと、その先がない。

人との付き合いだって、そうです。付き合いを広げようと思えば、今までは話さなかった人と言葉を交わしたり、会ったことのない人を訪ねないといけなくなる。あるいは、問題のある態度は見直さないと、世界が狭まるかもしれない。

なのですが、我々は自身に制限を課したり、思い込みをしたりして、そうはしなかったりする。

自分のしてきたことは正しいのだと信じたい。別の、それも、否定してきたことには、手を出したくない。
そう思えるので、なかなか変われません。

状況という意味では、いろいろな理由で、変わらざるを得なくなる。でも、心情という意味で、変わりたくないと思う。
このような葛藤に、苦しみます。
それも、明確に意識しないままに、ただ不安になったり、苦しんだりする。


この時、もう、影との戦いは、はじまっているのかもしれません。


ここで問題となり、また救いとなるのが、我々はよく思い込むということ。あるいは、決めつけるのだということ。

評価しない、否定する、手つかずのまま触らない。
それらは本質的にそうというよりは、自我がそう思い込んでいる場合が、多いのです。
あるいは、二面性や多面性があるのに、その一部分にしか注目してなかったりする。
そうなるような布置の中で、育っていたりする。

思い込みというのは確かに問題となりますが、逆に言えば、それを取り払えば正常化することも、意味します。
影との戦いとは、まさにこういう部分があり、今まで上記のような理由で締め出していたものと対決することで、向かい合い、今までよりよく見るようになり、その中で、「それだけではないもの」や「見逃していたもの」、「意外といい面」などを、知ることでもあるのです。


自分が否定しているものでも、他の人にとっては、そうでもないかもしれない。
自分が所属する集団が評価しないものでも、集団の外では、そうでもないかもしれない。
そんなことに、だんだんと気づいてゆく。


例えば、「攻撃的なことはすべて駄目」と厳しく教え込まされた子供は、過剰な攻撃性は勿論のこと、むしろ子供としては当然である範囲の攻撃性までも否定し、無意識の領域に抑圧するかもしれません。そして、その生き生きとした活発性まで押し殺し、無意識に「影」として抑圧するかもしれない。

もちろん、攻撃性は素晴らしいなどと手放しで喜べるはずもなく、ある程度は抑えないといけないのですが、全部をなくそうとすると、人間としてのバランスを失ってしまう。

そう考えると、ここでも二面性という認識がない部分と、二面性によって生じる葛藤に堪えられないといった、むしろ大人の問題が、潜んでいるのかもしれません。
近頃では何でも社会問題にされてしまいますが、基本的には、子を育てるのは身近な大人なので、各人が二面性や影との戦いについて学ばないと、どうしようもない部分があるのかもしれません。

といっても、別にそれを責めているのではなくて、今まで日本に欠けていたそういう面と勝負する、いわば一期生が育たないとどうしようもない面が出てきたのかな、と思うのです。


人は、その人その個人なりの価値観を持っています。あるいは持たされています。そして、それにそぐわない存在を無意識の領域に押しやる傾向があるようです。
そして、それが、影を作る。

影なる部分は、確かにマイナス面を持つかもしれない。危険な面を持つかもしれない。
しかし、それだけではない面も併せ持つので、影の全部を否定してしまうと、その「それだけではない面」まで否定することになる。持たないことになる。
影の活動とは、一部としては、それに対する異議なのでしょう。
お前(自我)はそれを否定するが、お前(自我)は見逃している。
お前(自我)はそれを評価しないが、お前(自我)は他の面を無視している。
お前(自我)はそれをしようとしないが、もうそろそろやらないと危ない。

影は本来人格を持ちませんが、結果として、上のような主張をしているのと同じようなことになる。

人間、食べないと腹が減るし、飲まないと渇きます。起きたままだと眠くなるし、働きづめだと休みたくなる。そんな当たり前のことが、心にもある。
あるいは、周囲の変化に対応して、人間が生きられるように、各種機能を調節する。
暑い時には冷やそうとし、寒い時には体温を維持しようと努める。
無意識による調整が、人間を生かしてくれるのです。

影もまた、このような役割があるのでしょう。
影との対決が、結果として、このような役割を果たす。

ああ、今までは否定してきたけど、ここにはこんな…
ああ、今までは評価していなかったけど、意外なものが…
ああ、今までは手つかずだったけど…

影との対決の先には、このような状態、変容が待っているのです。



我々は生きるうちに、悪なる存在を作りがちです。
そして、その方が、自我の安定という意味では、都合がい。

都合はいいのだけれど、事実とは違ったりする。
ある部分では事実でも、それだけではない面が、存在したりする。

そして、悪なるものを作らないと安定できなかった自我も、やがては成長する。
葛藤に堪えられるだけのものに、近づいてゆく。

だから、対決がセッティングされます。
そろそろ気づかないと危ないという、外的な要求。状況的な要素。
そろそろやってもいいだろうという、内的な要求。個人的な要素。
これらの中で、影との対決がはじまります。


影との対決とは、いわば、人生におけるひとつの壁です。
そこを突破するのは苦しい。でも、それを乗り越えれば、成長が待っている。

ただ、その苦しさ故に、人はそれを避けたり、途中で諦めたりする。
それもまた悪いことではないのですが、ちょっと、その先にあるものを見ていないような気も。

影との対決には、二面性を知ることも含まれますが、影との対決自体もまた、二面性を有する。

そのマイナス面といえば、危険だし、とても苦しい。いたたまれなくなったりする。
ただ、それだけではありません。その先には、獲得できる宝がある。

だから、実は、ここでも葛藤があるのです。
それ故に、踏み込めない人も、多いはず。


ただもう、時期が時期なのかなあ、という気がします。

外的な要請として、そろそろ取り組まないと、危ないような気がする。
影なる問題が、実はいろんなカタチで、社会を席巻しているように思います。
(もちろん、それだけではないですが)

そしてまた、もうそろそろ、いいのかなあとも思う。
もうそろそろ、影の問題に多くの人が取り組めるだけの時期に来ているのではないでしょうか。


今の時代、心の問題が顕在化しています。
しかし、それはある意味では、問題を避けようとしているために余計に重くなっているようにも思える。

そういう意味では、内的な要請と外的な要請が、相当せめぎ合っているのかもしれません。

そして、ここに書いてあるような布置は無視され、表立った症状や社会の責任だけが問題とされる。

ただ、このままではすまないでしょう。

内的にも、そして、外的にも、影との対決が要請されている。
そして、それをやらないから乱れているので、それを避けているうちは、どうにもならない。
どうにもならないから、やることになる。


ユングは元型を「継承された機能様式」だといいましたが、その通りで、ついに通過する時が来たのかもしれません。


そこに行く前、あるいは真っ只中にいる時は、つらさが勝ちます。

でも、通過してしまえば、そうではない。

それを伝えられる人が増えてくれば…






次回は「心像と象徴、イメージの意義」についてです。

お付き合いいただき、ありがとうございました。





関連記事:

「影 人生の諸段階/ユング心理学概説(6)」
「影の自覚 人生の再適応/人間と象徴」








では、また、次回に…









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