【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング

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このページでは、「やさしいユング心理学講座 第六章:夢分析、その可能性」についての紹介をしています。

【第六章 夢分析、その可能性】




第六章 夢分析、その可能性





ここでいう夢とは、眠っている時に見る夢。なので、将来実現したいこととか、楽しい考えとか、そういうものではありません。
睡眠中に見る夢を、我々は現実のように体験します。もちろん、覚醒すればそれは夢だと悟るのですが、それまでは、まるで本当の出来事のように思う。単なるイメージを超えた体験として、扱います。
夢の多くは視覚的イメージですが、時にはその他の五感、聴覚や嗅覚、触覚や味覚などに作用することもあるようです。何かが聞こえたような気がしたとか、リアルに触れられた感覚があったとか、そういうこともある。


我々はぼんやり夢を見、それをどうこうしようとは思いませんが、ユングの考えによれば、夢にはいろんなものが含まれるようです。
時に夢の中で我々は、思いがけないもの、不可思議なものなどに、出会ったりする。そして、夢を見ただけでは、それはそこに留まるのですが、夢を深めると、そこに自我が忘れていたこと、見逃していたこと、見ようとしなかったことなどが、潜んでいたりします。
夢はそれをイメージを通して、伝えてくれているのです。


身近なようであり、何だか遠いような感じもし、誰でも経験するものでありながら、それでいてよく分からない、そんな夢について、この章では見ていきたいと思います。





夢の特徴としては、「自律性」があります。眠っている時に見る夢は、起きている時に考える願望充足的な夢とは違うので、勝手にやってくる。自我はそれをコントロールすることはできません。好きな夢を自由に見ることは不可能で、むしろ、勝手に体験させられる。いわば、自我が無意識という異世界の中に放り込まれたような状態。

また、夢には「補償作用」があるといいます。心や人間総体の均衡を保つ働きがあるというのです。バランスを崩した状態を、何らかのカタチで、補償してくれる。

この二つの性質が、密接に絡み合ってくる。
夢はコントロールできない。だから、自我が見ようとしていないもの、否定しているもの、まだ出会っていないものなどを、体験させることができる。また、そういったものを体験させることで、自我に欠けた要素を補償してくれる。
自我ならきっといかないであろう世界に、夢は放り込む。自我ならきっとしないであろうことを、夢はさせる。自我が気づいていないような状態を、夢は見せる。
そのような性質が、夢にはあるようです。(といっても、それだけではありませんが)


夢は、「未知なるもの」を教えてくれます。また、それだからこそ、助けになる。
足りているものはもう、足りている。満たされているものはもう、十分にある。知っていることはもう、すでに知っている。そんな中で、足りないもの、実は満たされていないもの、知らないままでいるものなどを、そっと教えてくれるのです。

例えば、「自我が頭ごなしに否定していること」「ダメだと決めつけていること」「(そちらの方には行かないので)見逃していること」「経験したが忘れていること」「何らかの理由で認識できなくなっていること」、それらを何らかの体験を通して、伝えようとしてくれる。
またそうすることで、失っているバランスを、回復させようとしてくれる。


自我は意外と頑固なので、否定していることを認めようとはしません。一度ダメだと決めつけると、もう検証することもなしに、ダメだとする。好みの方向には行きますが、逆の方には行きません。経験したことを忘れたりするし、防衛機制などによって、目の前のことを認識できなくなることもある。
それを補償するものとして、夢があるというわけです。


夢は内的イメージの世界での体験です。だから、現実世界のそれとは違う。
時折、夢が現実とは違うからと非難したり軽く扱おうとする人がいますが、そんなことは当たり前で、当たり前の前提を材料に非難しても仕方ない。
人は夢見ている間、それを現実であるかのように扱いますが、覚醒した時、それが現実でないことを悟る。ただ、この両方に意味があります。それは確かに現実ではないし、現実と混同すると訳が分からなくなる。しかし、夢を現実から切り離し、単なる空想であるとか、絵空事だとしても、意味は薄くなります。
夢は現実そのものではない。夢に見たことがそのまま、現実として生じるわけではない。しかし、そこには、意味が隠されていたりする。夢見手の態度や生き方、何かに関係する、意味が。


そういうことを心に留めながら、進めていきたいと思います。





1.夢


夢はその時の自我に対応する無意識の状態を、何らかの心像(イメージ)により物語ります。(自我が意識していないような内容を囁いてくれる)。自我と無意識の「橋渡し」の効果がある、と言ってもいいでしょうか。
このような夢を紐解いてゆくと、自我が認識していなかった無意識の状態に気づかされたりします。

例えば、思考にのみ囚われていた人が、夢を体験することで感情の大切さに気づかされたりする。あるいは、理性を重視し、本能的なものを否定してきた人が、夢を通して、本能的なものもそうそう悪いものではない、ということに気づかされる。

このように、夢は「相補性」を持ちます。一面的になった自我を、何らかのかたちで補おうとしてくれる。
頭ごなしに否定しているような事柄に、光を当て、そこにある肯定的な面を浮かび上がらせてくれます。
そして、「夢を体験する」と言ったように、体験することで、心像を心に基礎付けることが出来ます。

例えば、それは危ないと知識として知っているのと、それは危ないという経験をした人とでは、「危ない」についてのパワーは違ったりします。生活の中に基礎づいている力に、差が出たりする。(もちろん、性格的なことも関係したりしますが)
これは、「よいこと」に対してもそうで、それをよいらしいと情報として知るのと、これはこんなによいのかと体験として知るのでは、差が出そう。
夢は見ている時は現実として扱われ、覚醒した時には区別されるといったものです。
しかし、心に訴えかける夢は、それを夢と知りながら、妙な手ごたえというか、現実感というか、そういうものがあったりする。単に非現実なことと切り捨てられない何かが、そこにあります。
それだからこそ、体験知に近いものが得られるんですね。「!」というものがあるから、身に馴染んでゆきます。



夢は「未知なるもの」を伝えてくれる、と述べましたが、その創造的な例として、河合隼雄先生は、以下のような例を挙げてくれています。

・タルティーニが作曲した『悪魔のリトル』
(これは、タルティーニが夢の中で聴いた悪魔がバイオリンで弾いた曲をあとで思い出したものとされているそうです)

・スティーブンソンの『ジキルとハイド』
(これは有名ですね)

・ケキュレの『ベンゼンリング』の考え
(これは夢の中で、一匹の蛇が自分の尾を呑み込んでいる姿を見て、それをヒントに考えられたと言われています)



夢の中の心像は、具象性を持ちます。抽象的な事柄も、目に見えるもの、具体的な形や姿をもって、現れる。

例えば、自分の感情を殺し、思考機能にばかり頼って生きている人の思考機能が『殺人犯』として現れることもあります。(確かに、自分を、感情を、殺していますからね)
行き過ぎた冷徹な言動が『刃物』となって現れることもあるかもしれません。(バッタバッタと切り刻んでいるわけです)
家につながれ、自由がきかない状態が、『かごの鳥』や『つながれた犬』という姿で現れることもあります。
硬く、融通が利かない考えが、『硬い鉛筆』や『強固な鎧(よろい)』として現れることもあるでしょう。
間接的なつながりを示すものとして、『電話』が出てくることも、あるかもしれません。(あるいは、こっちと向こうのつながり)
また、コミュニケーションが、『キャッチボール』や『パスワーク』というかたちで現れるかもしれません。
可能性が『赤ん坊』として、態度が衣服や裸として、現れるかもしれない。


このように、夢に現れる心像は、具象性を持ちますが、元型がそうであるように、それが「伝えたいそのもの」の姿というわけではありません。「それを表現するにはこれしかない」という仮の姿をもって現れます。
(例えば、「キャッチボール」をキャッチボールとして認識している時には分からないことも、「キャッチボール」を「コミュニケーション」と捉えた時には、見えてくるものがあったりします)

ゆえに、これを知らない人にとっては、夢が本来伝えたいことが、なかなか見えてきません。不思議に思ったり、非現実的に思ったりもするでしょう。

が、前章で紹介した象徴の意味を知れば、違ってくるのではないでしょうか? はじめはぼんやりしていても、だんだんと、呑み込めるのではないでしょうか。



夢は人間の内的世界の出来事ですが、外的刺激にも関係する部分があるようです。
例えば、眠る前に見たニュースなどと関連した夢を見ることもある。ただ、それを考慮して、「ああ、あのニュースを見たから、こんな夢を見たのか…」というのは、気が早いかもしれません。
確かに、ニュースは「きっかけ」になっているでしょうが、その夢の詳細を見極めた場合、そこから得られるメッセージのようなものは別にあるかもしれない。ニュースが「きっかけ」になってはいるものの、その姿を借りて、何かしら伝えたいことがある、ということもあります。

他にも、「目覚ましの音」や「寝ているときの状態」(例:布団からはみ出していたとか、テレビをつけっ放しにしていたとか、重い布団で寝ていたとか)という場合も、夢に影響が出たりするようです。

例:「目覚ましの音」とシンクロするかたちで、夢の中で「電話のベルが鳴る」とか、「重い布団」で眠ったために「怪獣に踏みつけられる」夢を見るとか…。

これらは確かに外的刺激に関連していますが、夢が単にそれを説明しているものなのか、それとも、それをきっかけとして何かを語ろうとするのか、そのどちらにも可能性はあるようなので、特にそれが気になる夢の場合は、深めるのもいいかもしれません。
(単なる身体状況の説明だと、おしっこをしたい時に、そういう夢を見たりもしますよね。でも、排泄というモチーフは夢によく上ったりもするので、説明とは限らないかも)



夢には追体験の効果もあります。生活の中で認識されなかった感情を、心像の形で体験することによって、消化しようとするのです。流れなかった感情は残るので、夢で追体験させ、それを意識させることで、流そうとするんですね。

夢にはこのような @「外的なものを消化する働き」があります。ただ、また一方で、A「内的なものを外界に展開する働き」もある。

@「外的なものを消化する働き」とは、現実世界や日常生活で経験しながら、意識化できなかったり、見逃しているような事柄の中で、実は大切であったようなことを、「夢」というかたちで「追体験」することによって、意識化したり、認識したりします。あるいは、前述のように、残っている感情を、外に流して処理しようとする。(この時、感情を流せない事情があれば、実際の体験と夢体験との間に、長い時間差が生じるかもしれません。流せるようになったら流す、ということを考えると)

Aまた、「内的なものを外界に展開する働き」とは、無意識を源泉とするメッセージのようなものを「夢」から受け取り、そこから考えを得たり、実生活の態度や行動として活かしたりすること。芸術表現なんかも、これに近しい場合があるかもしれません。(もちろん、@に関わる場合もあるでしょうけど)

特にAの様な場合は、「元型的な心像」が夢として現れるようです。なんせ、無意識から来るものですから。



夢は心像(イメージ)の世界ですから、それを直接的に考え、現実と混同すると、訳が分からなくなります。繰り返しになりますが、夢に起こったことが現実で起こるわけではない。起こるにしても、いつも起こるとは限らない。
また、夢に現れた像を、その姿とイコールに扱っても、よく分からなくなる。それよりは、その姿を借りることによって何かを表そうとしているのだと考えた方がいい。
例えば、夢に人が現れた際、その人とイコールにしてしまうと、不可思議なだけになる。しかし、それを、自分の中にある、その人としてあらわされる要素、として考えると、また別です。

このようなことを考えると、象徴がそうであるように、夢も、記号的に扱うと意味が損なわれるのが分かります。夢の像と何かをイコールで結ぶだけでは、知識で止まってしまう。だから、夢を味わうことが大事になります。


ユングは、夢を拡充することを大切にしたといいます。夢を解釈するだけではなく、その雰囲気の中に入り込み、夢の持つ気分とかイメージを、細部まではっきりさせるのです。夢を中心に置き、夢の経験を拡充させるんですね。
この夢の拡充においては、連想も使われたようです。夢に現れた個々の要素を、夢見手に連想してもらう。それによって、個人的に持つ意味を考慮しようとする。
また反対に、個人を超えた普遍的な意味を考えることもあります。個人的な要素が出尽くしたら、今度は、世界に存在する神話やおとぎ話の類似点を話し合ったりする。それによって、夢が拡充されるわけです。

ちなみに、ここで挙げた連想ですが、以下のようなものです。
例えば、夢の中に「A」という要素が現れたのなら、その「A」から何を連想するか挙げてゆく。これは「A→B→C…」ではなくて、「A→B、A→C…」という風に、要素Aに対して連想を繰り返すものです。これにより、要素Aが当人にとって何を意味するのかが見えてくる。



さて、夢の「源泉」ですが、「外界からの刺激」(電話の音や、目覚ましの音)、「身体感覚」(寒さ暑さ、尿意など)、「心理的経験」(深い感情を伴うような経験)、「自我は忘れているが無意識に残っている経験」などがあるようです。

それプラス、無意識の深い層からやってくるものも、あるのでしょう。





2.夢の機能(夢のメカニズム)


夢は意識の埒外(らちがい)にあるものに気づかせ、意識化させてくれます。これを意識に対する「補償作用」といいます。(夢によって、本来意識できないもの、意識していないものなどを、意識していくわけです)。この「補償作用」こそ、夢の持つ最大の意義だともいわれます。

しかし、夢が必ずしも補償的とは限らず、時には深く暗いものも投げかけてきます。(まったく意味不明のものもあるでしょう)。 逃げ出したいほどの、おぞましさを伴なうものもあるかもしれません。無意識の影響がより強くなった場合、このようなことが起こるようです。
ただ、最初はそうでも落ち着いてくる場合もあるので、これまた一概には言えませんが。


少し脱線しますが、夢自体には意識的なものも人格もないわけで、ああしようこうしようという意識や目的はありません。
それは無意識や元型と同じく、システムや状態のようなものであって、傾向や方向性はあるものの、意識的な目的やコントロールは無いと思います。
それはあくまで、「作用」や「性質」、「働き」なわけですね。意識が、人が、それを捉えるから、そこに意識的な目的や意味、人格を感じるのです。だからこそ、神や悪魔の概念があるのだと思います)
というわけで、夢はどちらかというと、自然や人間の器官(その恒常性)に似ているような気がします。


話を戻します。

夢は無意識からの産物ですが、故に、意識的な関与が必要になってきます。夢が無意識のままなら意識されないわけだし、今まで書いてきたようなことからも、夢への接し方によって、随分と意味が変わってきます。
見たそのままだと意味が通じないし、さりとて絵空事だとしたら、なお意味がない。それは何を表しているのか? それは何を補償しているのか? そういったことを考慮しなければならない場合もあります。


ということで、夢の機能について、見てみましょう。



(1)単純な補償

「これは意識の態度を補償したり、意識的な体験の足りないところ、未完なところを補償する夢です」

例えば、価値観の逆転を感じる夢がこれでしょうか。
自分が軽んじていたものに、「意外とよい面」を見つけたり、自分を過小評価していた人が、自分に「意外と高い価値」を見出すといったようなものです。

これは夢のみではなく、現実世界でも体験できます。
内的事実と外的事実が違う場合は、多々あります。 内的に劣等と思っていたことが、外的には些細なことだったり、あるいはよい面だったりする。(すごく恥ずかしいと思っていたことがそうでもなかったり、駄目だと思っていたことが反対にいいことだったり…)
しかし、これに気づくにも、何かしらの「きっかけ」が要るわけで、その役割を夢が担う場合もあるということです。

人間誰しも、「頭ごなしに否定して」いたり、「決め付けている」ものがあったりするものです。それが許される範囲ならいいですが、それが原因で、自分や周囲の者が、日々、生きた心地がしないなら、やはり問題でしょう。
しかし、それに対し、誰かが「それは間違っている」と言ってみても、効果は薄い。実際問題として、変わらない場合が多いですよね。
そんな時は夢で、「その一面的な考えゆえに大失敗したり」、「頭ごなしに否定していたものに、新たな価値を見出す」方が、より心に響き、考えや態度を修正してくれるかもしれません。
知識として訴えるより、やはり、経験して知る方が、心に響くし、心に基礎付けられるようです。身に沁みたり、痛感するわけですね。


このような「補償的な夢」を見ること、体験することで、価値観の変換や、態度の修正がなされるわけです。



(2)展望的な夢

「夢が遠い将来へのひとつのプランのような意味を持って現れるものです」

ここで注意する点が幾つかあります。

まず、いわゆる「予知夢」との区別。
予知夢は、相当、細部にわたって夢と現実が一致します。一方、展望的な夢は、細部というよりは、その大まかなプランを与えるところに大きな意味を置く。いわば、方向性や見通しを与えてくれるものでしょうかね。したがって、予知夢とは違い、おぼろげだったりします。

そして、一番重要なのが「夢に支配されない」ことです。
いかに建設的なプランを提示する夢を見ようと、それのみに囚われ、現実世界での『努力』を忘れたならば、そのプランが実現するはずもありません。あくまで「仕事をするのは自分」であり、夢ではありません。体現するのは無意識ではなく、自我なのです。無意識は導き手、そして、自我が歩む。
そして、内的世界で示されたものを、いかに現実世界で表現していくか、それに意味があり、「創造」につながる。

これは宗教的なものに対しても、言えそうですね。
神頼みは、あくまで「助け」を願うのであって、自分のやるべき仕事を神様に負わすものではありません。神様が与えてくれるのは「きっかけ」や「助力」。また、この「きっかけ」が重要だったりします。
(それが『奇蹟』であり、『信仰のきっかけ』なのかもしれません)

ともかく、無意識の産物である「夢」から展望的な何かしらを得て、同時に現実世界で努力したときに初めて、自己実現がなされるのだと思います。その相互作用が大事なんでしょう。


繰り返しになりますが、もうひとつ注意すべきことがあります。それは、夢は心像の世界のことであり、必ずしも夢に見たことがそのまま現実世界での出来事になるとは限らない、という点。

夢で何かしらの成功の夢を見たとしても、その心像は現実そのものではなく、むしろ心像の背後にあるものこそが、現実世界と密接につながっているのです。
例えば、医者になる夢を見たからといって、無意識が医者になることを望んでいるとは限りません。むしろ、「医者に象徴されるもの」が求められているのかもしれない。
夢はピッタリのものを使って表現しようとしますが、そのものとは限らないので、注意が必要。「〜のようなもの」「〜に象徴されるもの」とした方が、しっくりくる場合が、多いようです。


また、「初回夢」というものもあります。治療の初期の段階で、非常に展望性の高い夢を見ることが多い。
また、この初回夢を支えにすることで、長い治療の過程を歩むことが出来るという面もあるようです。
あるいは、治療ではなくても、非常に印象に残る夢を頼りに、ある意味確信し、何かを成そうとする人は、ひょっとしたら、少なくないのかもしれません。


このように、「展望的な夢」を見ることで、方向性が示されることもあります。
(そして、その方向性に対して、意識的な努力が必要になってくる)



(3)逆補償

「これは否定的な補償ともいえるもので、意識の態度を引き下げようとするものです。どうも意識の態度があまりによすぎたり、高くなりすぎたりしていると、それを下げようとする機能が夢にはあるようです」
要は、バランスでしょうか?

いくら意識の態度が高貴であっても、人間としての全体性がそれを成すに足りないなら、その高貴な態度は危険なものになります。ある人がキリストを目指そうとしても、人間にその器があるかどうかは疑問です。そういう場合に、折り合いをつけようとするのが、この種の夢でしょうか。

また、ある対象を心の拠りどころにしている場合、それが過ぎると、その対象を引き落とす夢を見る場合があります。
これはその対象そのものを引き落とすのが目的ではなくて、むしろそれに支配されていたり、それに頼りきっている自我に対して、物申しているのでしょう。ですから夢の通り対象を引き落とす作業をするのではなくて、むしろ当人の自主性を発展させるのが重要になるのかもしれません。

例えば、尊敬していたり、慕っている対象(親や先生、医師など)が、なんでもないことで失敗したり、馬鹿げた行動をとったりする――そういう風な夢が、これにあたります。
そして、前述の通り、その夢を見たから、実際の人物まで無理やり低く見るというのではなくて、むしろ、実際より相手を高尚に思おうとしている自身の態度を修正したり、その対象に頼り切っている自分の態度を修正した方がよさそうです。(頼るのはいいけど、すべてをゆだねるのはどうか? とかね)

このように一見否定的に見える夢もありますが、その背後にあるメッセージに注目するとき、夢は建設的なものに変わります。要は受け取る側の気持ち次第なのです。

ただ、「警告夢」のように、未来の不幸を予感させるような夢も、確かに存在するようです。
このような夢を頭ごなしに否定した場合、現実の不幸が訪れる場合があるので注意が必要です。
(まあ、実際に起こるかどうかは分からないわけですが、それ相応の注意を払う事で回避できるものもあるかもしれません)



(4)無意識の発言(発現)

「夢は意識と無意識の相互作用のうちに形成されますが、無意識の力があまりにも強いときは、意識への補償作用が認められないような夢を見ることがあります」

こういった場合、夢は補償的な意味合いが薄く、それよりは無意識の心的過程を直接表すような夢を見るようです。
このような夢は強い無意識のパワーに根ざしているので、印象が強い場合が多く、また、圧倒的なパワー、印象度がある反面、理解することは難しいようですね。

この夢の特徴としては、本人が登場しないこと(自我が不在)、元型的なものが多く、神話のモチーフと重なったりすることが挙げられます。(無意識的要素が深く、普遍的無意識の影響が大きいということでしょう)
このような夢を病的であると決め付けるのは簡単ですが、そうすると、せっかくの財産を失うことにもなります。ただ、現実世界に結ぶつけるのは難しいのかも。
この辺が難しいところですね。



(5)予知夢

「これは、細部に至るまで予見的な夢です」

先の展望的な夢のような、プランの提示というだけでは片付けられない一致度が示されます。
ただ注意しなければならないのが、意識が忘れた外的事実が夢に現れることがある点です。意識が忘れていても、すでに体験したことかもしれない。それを忘れて、ああ当たってる、と思う場合もあると。

あと、超常的なことが好きな人もいるわけで、その願望が勝って、結果、詳細を無視し、完全に一致していると(誤)認知する場合もあるので、注意。別に好きなことは悪いことではありませんが、予知夢に日常生活が支配されるとややこしいので、やっぱり注意したほうがよさそう。

予知とは、予測不可能なことを前もって知ることなので、詳細が合っているか検証しないとね。本当に予知なのか、予知にしたいのか、その辺を考慮しないと。また、いつもなのか、それとも、たまたまなのか、それを忘れても、失敗しそう。

あと、こういったものに因果関係を付け加えようとすると、なおさら、ややこしくなるようです。



(6)反復夢

「現実で起こった出来事が夢で反復されることがあります。これを反復夢と言います」

しかし、細部に注目すると差異が認められることがあり、そこに注目すると、補償的なものが得られることも。このような時は、反復夢ではなくて補償夢のようです。区別して考える必要があるでしょう。(区別が難しい時もあるとは思いますが)

反復夢の典型的な例がいわゆる「フラッシュ・バック」かもしれません。例えば、戦争で陰惨な体験をした人が繰り返し、その体験を夢として経験するのです。(夢を通して、過去の出来事や情景が思い出されたりするわけです)

これは自我が一度に取り込めなかった経験を、何度も夢で経験することにより少しずつ自我に統合してゆくものです。そうやって、乖離してしまったものを、少しずつ取り込んでいこうとしているわけです。受け容れようとしているんですね。あるいは、感情という意味では、外に流そうとしている。



以上のように、夢の機能について述べてきたわけですが、時に象徴性の高い、あるいは統合性の高い夢を見ることがあります。

その中に、幾何学的なイメージや、曼荼羅的なイメージ、数字の「4」を表すイメージが現れることもあるといいます。

この辺は興味深いですね。





3.夢の構造

ユングは夢が「劇的構造」を持つことを指摘し、また重要視しています。
すなわち、@ 場面の提示、A その発展、B クライマックス、C結末、の四段階です。

我々日本人には四コマ・マンガなどの「起承転結」が分かりやすいかもしれません。

すべての夢がこのような構造を持つわけではありませが、ただ、このような見方をすると、分かりやすいことも。


ある夢では、「結末」が明らかに欠如している場合があります。これは無意識が自我に答えを出すよう要求しているのかもしれません。「意識的な解決への努力」が要請されているわけです。


夢では(これを劇とした場合)、本人が登場人物として役割を演じるのですが、同時に客として観ることにもなります。現実世界では自分を客観的に見ることはできませんが、夢の中ではこれが可能なわけですね。
現実世界で暮らす我々は、何かに映し出さない限り、自分を見ることはできません。しかし、夢の中では自分の姿を見ることができる。例えば、投影することで自分の影を認識できたりもするのですが、夢の中ではもう少しストレートに自分を見れると。(もっとも、象徴表現であるために、まったくそのままということでもありませんが)


時に、夢を見ているうちに、自分の役割が分からなくなることもあります。これにも何かしらの意味があるのでしょう。
(役割の喪失、ペルソナの喪失、混乱、あるいは、立場の逆転、役割が変わるなど)


一日、あるいはある期間でみた夢が、同じ主題に根ざしていることもあります。心像のかたちは違えど、その背景が同じだったりする。

そんな時には、それを前提とすると、また新たなものが見えてくるかもしれません。
一つひとつについて考えるとこうだった、でも、ひとつのシリーズとしてみると、また違ったものが見えてくるとか。




【閑話】

『「目覚める」夢』

河合隼雄先生は、以下のような夢の例を著書の中に挙げてくれています。

「私は自動車を運転していた。車は下り出し、だんだんと早くなってきた。途中で、私はその車にブレーキがないことに気づき、真っ青になる。車のスピードは増すばかり。私はこうなったら、逃れる道はただ一つ、目を覚ますだけだと思って、頑張って目を覚ます」


車に限らず、夢に現れるものが自分自身の状態を表していることは、よくあるのではないかと思います。
この場合は、「ブレーキがきかない状態」として現れている。(他にも、フラフラしているとか、運転手が不在だとか、運転に不慣れだとか、いろいろとあるでしょう)

夢はこのように、自我が気づいていない面を伝えてくれます。それを今回は、「止める手段を持たない状態」として表現した。

そして夢見手は、「こうなったら、逃れる道はただ一つ、目を覚ますだけだ」と思ったといいます。
この「目覚める」にも、いろんな意味があって、興味深いですね。
おそらく夢見手は、この夢の状況から脱するには(夢から)覚醒するしかないと思ったのでしょう。しかし、止める手段を持たない状態から脱するには目覚めるしかない、とした時、この「目覚める」には、いろいろと思うところがあるのではないでしょうか。

夢見手、つまり生きた個人は、日常生活をも鑑み、いろいろと思うところがありそうです。

「う〜ん」と、なりそう。




【閑話2】

『夢/気づき/客観視』

我々は時に、夢によって何かを気づかされるわけですが、その理由に、夢の中では「自分自身で体験しながら、同時にそれを客観視できる点」があるようです。

夢を舞台と考えた場合、我々は、その主人公、演じ手・演者です。で、夢という舞台で、何かを演じ、体験するわけですが、その姿を、同時に眺めることができます。客観的に、自身の姿から置かれている状況まで、広い視点で眺めることができる。ある意味、自身で演じながら、同時に、客席からその姿を眺める事ができているわけですね。(何とも不思議な感じがしますが)

普段、我々はこの世界に生き、生活しているわけですが、それを客観視することは、なかなかできません。自身の姿を(客席から眺めるように)見るなんて、まあ、できません。分かっているつもりでも、分からないこと、見逃していることが多いものです。

で、気づく時というのは、自身の姿を何ものかに投影したりとかして、気づくわけです。そうでもしないと気づけないようになっている。

しかしその点、夢では可能なわけです。自身で経験しながら、その姿を、いわばひとつ上の目線で、広い視野で、客観的に眺めることができます。だから、普段見えないようなものが見れたり、普段気づかないようなものに気づきやすいわけですね。

こういうところも、夢の持つ、独特で有用な性質だと思えます。






4.夢分析の場面


河合隼雄先生は、夢を「意識と無意識の相互作用のうちに形成される」と述べています。

夢は単に経験したことを思い出すといった、個人的経験に根差したものとは限りません。とはいえ、まったく現実に関係しないのかというとそうでもなくて、何かしらの関わりを見せたりする。
夢は自律性を持つから、自我の思いを超えて、勝手なことをする。勝手なことをするんだけれど、意味のないことはしない。その一見不可解なものの中に、意味が隠されていて、その意味は、現実の態度や生き方に、大いに関係していたりする。

今まで書いてきたように、夢には「一面的になった意識的態度の修正」や「新しい価値観や生き方の獲得」などがあります。これは、無意識から発信された何かが、現実の態度や生き方に影響を与えることを意味している。

夢は確かに、現実そのものではない。しかしながら、現実から切り離された空想や絵空事でもないのです。
確かに、夢のメッセージが伝わり体現されるまでは、空想や絵空事に近いのかもしれません。でも、意識がそれを受け容れ、自分の中に組み入れ、何らかのカタチで表現された時、夢は現実的な何かに生まれ変わります。



このような点に注目すると、夢は以下のふたつを我々に与えてくれているのが分かります。すなわち――

@ 対決すべき問題の真の姿と、その対処法
A それが意識との関連においてどのような状態にあるのか


これらは意識しなかったこと、あるいは、うすうす知りながら避けていたことだったりするので、自我は痛い思いをするかもしれません。あるいは、最初は、受け容れられないかもしれない。

しかし、そんな中で、時には「うわ〜」という思いをしながらも、だんだんと自分の態度や生き方に組み込んでいく時、夢は建設的なものになってゆくのかもしれません。
また、夢自体も、何か変化するかもしれない。


夢の拡充について上で触れましたが、夢分析においてユングは、その周囲を巡回するようなことをしたといいます。
その中心にあるのはもちろん、夢見手が体験した夢。それを尊重しながら、話を聴く。時には、夢の個々の要素について、連想してもらう。夢の要素X(えっくす)について、「X=○○、X=△△、…」と、思い浮かぶだけ連想してもらう。すると、思いがけない、個人的な意味が見えることがある。
それが終わると、世界にある神話やおとぎ話に共通する部分について触れたりする。夢の持つ普遍的な面について、話し合う。
このようにして、夢を中心として、周囲を巡りながら、夢の意味をより豊かにします。

ユングは、夢を記号として解体して知的に理解するのではなく、拡充し、豊かにする方法をとったのです。

なぜなら、夢の持つ意義は、理解することではなく、それをどうやって生きるかだから。
夢の中にあるものを、どうやってこの身を通して、この世に顕現させるか、それが大事だから。

このような姿勢が、後で述べる個性化にも関係してきます。





5.死と再生のモチーフ

夢に現れる重要なモチーフに「死と再生」があります。

太陽は朝、東の彼方から姿を現し、その雄々しい姿を天に示した後、やがて地平線に消えていきます。毎日、死と再生を繰り返すわけですね。
同じように、無意識から誕生した自我は、その力を現実世界で示し、また最終的に、無意識の深遠に帰ってゆく。
これは人間の一生とも表現されますが、人生の中においても「死と再生」が何度か存在するようです。

今ある硬い殻を破ろうとする時、社会的には死んだような状態になった後、よりよい状態に変容することがあります。一度社会的に死んで、再生するのです。あるいは蛹(さなぎ)と蝶のイメージでしょうか。蛹のような退行状態、いわば仮死を経験し、やがて成長した姿に至る。

例えば、「引きこもり」や「ニート」という、社会的には価値が低く、ある意味死んだような状態になることで、人生の方向を定めなおして価値ある人生を送る人もいるでしょう。あるいは、それが「きっかけ」になって、自身だけでなく、家族や周囲も、それぞれの在り方を考え直し、いい関係が得られるかもしれません。

ある人は、「うつ病」になることで、今までの生き方を見直し、「新しい価値観」や「新しい生き方」を得るかもしれない。今までの、あまりにも一面的だった姿勢を、修正するかもしれません。
またそれは、本人だけに限らず、周りにいる人の生き方にまで、影響を与えるかもしれない。

またある人は、大病として死に近い経験をし、新たな姿に生まれ変わるかもしれない。

その人が悪いわけではない。ただ、状況が変わったために、何らかの変容が求められることもあります。
今まではそれでよかった、でも、これからは違うようだ。そんな中に放り込まれるカタチで、仮の死を体験せねば先に進めないようなことも、あるでしょう。


何にしても、変わらないことが死につながることがあるので、そこで人は、仮の死を体験しつつ、再生することになります。


そういう意味で、我々は誰でも、社会的に死んだり、何かの病気になったり、あるいはそうでなくても、死を経験する必要に迫られる可能性があるということになる。
なので、上記のような状態を責めている人は、自分も安全ではない。ひょっとしたら将来の自分や身近な人を、責めているのと同意になるかもしれません。そうでないにしても、死を避けて変容しないことは、本当の破滅につながるかもしれないわけだし。
(脅かして申し訳ありませんが)


「死と再生」のモチーフは、現実問題においても、夢においても現れます。そして、その夢が建設的な意味が濃いときには、深い感動を持って体験されるようです。それにより、深く心に基礎付くんですね。


人はどういう風に変わるんだろうと考えた時、そこにも死と再生があるかもしれません。
例えば、変容に際し、こんな経路を辿るかもしれない。

「症状の発症」→「逃避」→「危機」→「対決」→「混沌」→「統合」

そしてここにも、危機や混沌といった、死を経ている面がある。

人はなかなか変われないというのは、自分のこととしても他者のこととしても、みなさん知っているのではないでしょうか。
自我は頑固なので、今までを変えるのを嫌う傾向があります。人が変わることを望んでも、自身はなかなか変わろうとしない。あるいは、自身が変わることを望みながらも、実際には変わることを拒んでいたりする。態度や行動として、変わらない。
そういうことを考えると、人間というのはもともとそういうものなのだ、という気がしないでもないです。

人間が本当に変わるには、自我が折れる必要が生じるようです。頑張って変わらない自我が、一度、負けないといけない。
それが死として、死んだような状態になることとして、人生の中で生じると。

そして実は、このような状態になってこそ、無意識の状態をフェアな目で眺めることができる面があります。
自我が頑張っている時、意識が勝っている時は、無意識の言わんとすることが、なかなか受け容れられない。夢に関しても、表面上の要素で拒絶してしまい、それ以上には進めません。自我は、「自分は間違ってない」=「変わる必要はない」と、頑張り続けるのです。

なので、死を経ることに、意味が出るんですね。死んだからこそ、再生できるのです。



この章では夢について語ろうとしたわけですが、それはある意味では、生き方を変えること、変容すること。

夢はそんな変容の可能性を、提示してくれているのです。

そして、悩みや苦しみというのは実は、その可能性や変容を拒否し、意識と無意識が分離している状態なのかもしれません。あるいはその、葛藤状態。というよりは、葛藤に至れない状態?


結局、大きな人間になろうと思えば、意識の力だけではどうにもならないようです。意識の力で成長した後は、無意識の力を借りなければならない。
そしてそうするには、意識が無意識に対して、開かれた態度をとらねばならない。
ただ、基本的に意識は頑固なので、最初は無意識を拒絶します。だから、一度意識が折れる、仮の死を経験する必要が出るんですね。

でも、そう考えると、悩むことや死んだような状態になることにも、意味が見えてくるでしょ?

そんな経験をすることで、人は個性化の道を歩めるし、全体性に近づくこともできるのです。




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次回はアニマ・アニムスについて語りたいと思います。

お付き合いいただき、ありがとうございました。





では、また次回に…








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