【第一章 心理学の役割】
第一章 私の考える心理学の役割
1・カウンセラーとは?
人は何かしらに悩むものだと、思います。悩むからこその人間です。ただ、悩むのは(悩み続けるのは)やっぱりしんどい。特に、訳も分からないまま悩み続けるのはつらいですよね。だから、人は何らかの答えを求めるのでしょう。で、私にとって、その解決の糸口を探すひとつの方法がのユング心理学なのです。
心理療法家やカウンセラーと呼ばれる人は、クライアントさんに対して答えを与える存在ではありません。心理学にしても、そこに直接、答えがあるというわけではないでしょう。答えを与えるのは俗に言う「コンサルタント」と呼ばれる人たちかもしれません。「コンサルタント」とは「指導や助言をする専門家。相談役」のことです。(三省堂 大辞林より)
では、答えは誰が出すのか?
それはクライアントさん本人です。
また、そこに意味があります。自らの人生、自らの生き方に、何かしらの答えを出す、それが大事なわけです。
人の悩みというのはいろいろあると思うのですが、悩みが深まってくると、「なぜ、○○なのだろう?」と自問自答したくなりますよね。あるいは、直接誰かに訊くかもしれません。その「なぜ?」ですが、これは誰かが説明してくれて、それで納得できるようなものではないですよね。例えば、何かの病気になった場合、お医者さんから「あなたは、これこれこういう理由でそうなりました」と言われても、それが悩むほどのものだった場合、それで納得できるものではないと思います。もちろん、それでスッキリする場合もあるとは思いますが、そうでないこともあるでしょ。
というのも、悩みが深い場合、「なぜ、○○なんだろう?」というのは、その経緯を説明してほしいのではなく、「なぜ、○○にならなければならなかったんだろう?」的な、そんな腹に収まる意味みたいなものが欲しいんでしょう。
それが何であれ、自分はこんなに悩むほどの境遇にいる。しかし、「なぜ、○○にならなければならなかったんだろう?」、そう問いたいのだと思います。そこにある意味を、心底知りたいのです。そうでないと、納得できないわけです。次に進めないわけですね。
あるいは、意味なんて知ったこっちゃなくて、ともかく現状を何とかしたいのかもしれません。でも、その現状を何とかするためには、そこにある意味を拾わなければならならなかったりする。(例えば、同じことを繰り返さないために)
そこに変化を生じさせるエッセンスとして、本人が腹の底から納得できる、そこにある意味みたいなものを必要とするのかもしれません。(望むと望まざるとにかかわらず、ですね)
尊敬する人や偉人など、先人たちから言葉を借りることはできますが、所詮は借り物です。自分自身で納得できる、そんな答えを出すのが大事なんでしょう。
(といっても、言葉を借りるのが悪いのではありません、それを自分にしっかり当てはめ、自らの言葉として、自らの血肉にするのが大事なのです。段々と、自分にフィットさせていくわけですね。服でも寝具でも、自分にフィットしないと居心地が悪いでしょ?)
後々「個性化」という言葉が出てきますが、「自分のものにする」とか、「自分を生きる」とか、「自分を創造する」とか、そういうのが大切なわけです。(もっとも、その「自分」というやつは、我々が普段あまり意識しない「深い領域の自分」ということになるんですが)
では、カウンセラーは何をするのか?
「共に歩む」ということになるでしょうか。
人生という道を歩くのはクライアントさん本人ですが、疲れたとき、崩れそうになったとき、そんな時、共に歩もうとするのがカウンセラーなのでしょう。(あるいは、「共に悩む」とか「共におちる」「共に沈む」という言い方もできるでしょうか)
悩んでいる時というのはなぜ苦しいのかというと、その一因として、答えがなかったり、行き先が見えなかったり、希望がなかったりするからだと思います(まあ、たくさんある要因の一つとして、ですね)。しかも、そういうものの答えは一般論から外れたところにあったりするので、なかなか厄介です。そうすると、まず、そこで何が起こっているのか、ということになると思うのですが、それはクライアントさんの生きている地点に下りないと分かりませんよね。それを経験せにゃ、分からんわけです。そういう意味で、クライアントさんが沈んで行っている時には、一緒に沈んで行かんと分からんわけです。
いわゆる現実問題にしても、よく話を聞かないと事態が飲み込めなかったり、取り違いをしてしまったりするでしょ。あるいは、広く見渡さないと、思わぬ過失を犯してしまうかもしれません。心の問題にしたって同じことで、そこに行ったり、同じ風景を眺めたり、一緒に経験したり、そうしないとよく分からないんです。捉え違いをしてしまいます。
まあ、人間同士には「価値観の差」というのがあって、それぞれの好みや導き出す答えが違ったりはしますが、その前に、「事実を見ていない」とか「事情を無視している」ということも案外多くて、何が起こっているか見る前に答えを出してしまっている場合も多いです。だから伝わらないし、理解もできない。
おかしな例えになりますが、「かちかち山」でウサギがタヌキにしたことも、事情を知っているかいないかで、その捉え方は大きく違ってきますよね。
一般にある話のように、タヌキが老婆を殺し、それを料理(汁)にして夫に食べさせたという前提があるから、ウサギの仇討ちとして話は成立しているわけですが、それを知らないと、タヌキにひどいことをしたウサギはけしからんやつだとなるかもしれないし、場合によっては取り殺してしまうかもしれません。
つまり、事情を知らないとトンでもないことをしてしまいかねないわけです。
まあ、「かちかち山」に関してはいろいろな話があって、単にウサギがタヌキ(話によってはクマ)をいじめるだけの話もあるようなので、どちらにせよ何があったか聞いてみないと分からない、ということなんでしょうね。
それと、「聴く」といえば、何の関係もないままに御本人が心を痛めていることについて話してくれるということもそうそうないだろうし、また、話すも何も「本人にもよく分からない」ということも多いだろうし、いろんな事情で「意識しづらくなっている」ということもあるでしょうから、じっくりその時が来るまで待つということが大事になるんでしょうね。
まずは関係を構築できるまで待つということになるでしょうか。二人の間に関係ができて、話してくれるようになるまで待つんですね。(人は「関係ない人」には大事なことは話さないでしょうから)
そして次には、本人がだんだんと意識化できるようになるのを、待つことも必要かもしれません。今まで見逃していたものに気づき、それを自分の中に組み込んでゆくのを待つのです。
それと、「共に」というのは興味深いですよね。人間にとって「共感」というのは救いだと思います。逆に、「不理解」や「誤解」というのは、それが過ぎると絶望を生むでしょ。たいへんな時でも、それを共に理解してくれる人がいたら、それは救いになると思います。
多くの人から理解されない時、それも、多面的な人間(その態度や行動)の一点のみに注目されて、非難されたり、厄介者とされたり、あるいは、取るに足らないものとされたり、そんな時に、共に歩み、そうではない他の面を一緒に探してくれる人がいたら、他の面にも注目してくれる人がいたら、それは救いになり得るのだと思います。
☆
カウンセラーは道を示すものではありません。
導くものでもありません。
ある意味では、何もしない人です。
クライアントさんの自己治癒力を信じ、それを見守る人です。
そんな「何もしない人間」に価値があるのか? とおっしゃる方がいるかもしれませんが、まあ、「何かする」「何とかする」というのも(それが人の為を思ったこととはいえ)必ずしもいいものとは限りません。
人生は時に山登りに例えられますが、悩んでいる時というのは、山の中で迷っているようなものなのかもしれません。あるいは、山の途中で疲れてしまったり、壁を前に途方にくれてしまったり、今まであった道が急に途切れたので立ち尽くしたり、息ができなくなったり、落石にあったり、そういうような状況に似ているのかもしれませんね。
つまり、人生という山の途中で、にっちもさっちも行かなくなっているわけです。
で、カウンセラーが同伴者としてつくわけですが、だからといって「さあ、こっちです」と導くのかというと、それは違うわけですね。だいたい、迷っている人にしたって、どこに登ればいいのか悩んでいるのであって、行き先は分からないわけです。あるいは、意識的にはそこに登りたいと思っていても、無意識的には違っていたりします。そういう葛藤があって悩んでいるわけで、そこに横から出てきて「さあ、こっちです」と言われても困るわけですね。その選択が正しいか正しくないかというのはあまり関係なくて、「その人がどう生きてゆくか?」というのが重要問題なわけだから、それを奪うのは本末転倒なわけです。
悩んでいる人というのは、「導いてほしい」「決めてほしい」と欲するものだとは思いますが、「己が生きる」ということを考えると、そういう苦しみは耐えなければならない、そこを通過しなければならないので、ここに難しさがあるんでしょう。そして、同伴者にしたって、同じような難しさがある。苦しみがある。
正直、そんな時は、アドバイスしたほうが心は休まるんでしょう。はっきりいって楽だと思います。取り敢えずの安心にはなるかもしれませんしね。人間というのは誰であれ、黙っているというのは苦しいもので、何か言ったほうが心が休まったりします。(それも、一般的に正しいとされることなら、なおさら)。しかし、この場合の同伴者には、その沈黙に耐えるだけの技量が求められるんでしょうね。立ち上がろうとする人を見守る、強さが必要なんでしょう。
そこから何が生まれるか、それを待たねばならないわけです。「その先」に進むのを、待たねばなりません。
というわけで、カウンセラーと呼ばれる人には相当な技量が求められるわけですが、その修練の場として、カウンセラー自身が山を登った経験、というのがあるのだと思います。
ユング派の心理療法家には「教育分析」という過程があるそうなのですが、それが山登りに当たるのでしょう。そこで相当の修練を積むわけですね。そこで自分と向き合い、悩みを深め、嫌な思いもし、クライアントとしての立場も体験し、いろんな経験を積むわけです。
山登りの例に戻るなら、自身が山を登った経験も無いのに人様の山登りには付き合えないわけで、それはやっぱり必要なわけです。そのつらさ、しんどさ、そしてそれだけでないもの、それらを体験知として知っていなければならない。
まあ、自分なりのルートを開発したからといって、それを他の人に当てはめればいいというものではないというのは前述のとおりですが、やはり「ひと山こえた」経験というのは必要ですよね。それがあってこそ、クライアントさんを信じることができるんでしょう。何かが創造されるのを待つこともできるんでしょうね。
カウンセリングにおいて、「共感」というのが大切なキーワードとして出てきますが、共感というのは自身も経験しているから共感できるのであって、それが同じものではないにしても、同じようなことを体験しているからこそ、共感できるわけです。そして、それが傷の舐めあいのような過程に留まらないために、同伴者にはそれを経た・越えた経験が求められるわけです。一緒に歩むんだけど、一緒に迷うのとはちょっと違って、「さあ、どこに行くんだろう」「さあ、何が生まれるんだろう」それを待てるだけの強さのようなものが求められるわけです。(あと、本当にギリギリの時には止める、危機管理能力も)
そういうのはたいへんな技量だと思うのですが、それを訓練によって身につけてゆくわけですね。
☆
歩むといえば、、世の中には「自分の人生を歩んでいない」からこそ、悩み、苦しんでいる人もおられるようです。ある意味、病気などの症状は、それを訴えるための「問題提議のカタチ」に過ぎない、という捉え方もできます。我々は自分で歩いているようで、案外、何かに歩かされているのかもしれません。我々が「しなければならない」と思っている「それ」が、本当にその通りかどうか、それもしっかり見たり考えたりしないとよく分かりませんよ。
と、以上のようなことをいろいろ鑑みると、カウンセラーというのは「触媒」に似ているのかもしれません。行き詰まった状態から、化学反応のように変化してゆくのはクライアントさん本人なわけですが、その変化を促すような存在、自身が変化するわけではないが、それに接したものを(できればよりよい方向に)変容させる、そんな不思議な存在、それがカウンセラーなのかもしれません。
ただ、そこにあって、不自然に呑み込まれず、自身が自然を知り体現することで、自然を呼び込む、そんな不思議な存在なのかもしれませんね。
2・絶望と不変、変わるということ…
絶望とは何かと考えると、それは「変わることのないこと」、「不変であること」なのかもしれません。
人間、誰だって生きていると嫌なことというのは出てくるんですけど、人生はそういう嫌なことばかりじゃないので、何とか生きてゆけます。学校や職場で嫌なことがあっても、それが家に帰って忘れられるようなものである場合、そんなに悩まないでしょ。逆に、それを家に帰ってもずっと引きずるようなものなら、悩みは深いわけです。
あるいは、それが何日か経って解消されるのが分かっているなら、何とか耐えられるかもしれません。例えば、怪我をして痛みを負っても、治るのが分かっていたら我慢できるわけです。逆に、一生痛みが続くと思うと耐えられませんよね。心の問題だって同じで、それが過ぎ去るのが分かっているなら、我慢のしようもあると思います。しかし、それがずっと続くもの、「変わることのないもの」だと感じれば、その負担はどんなものでしょうか。まさに希望のない状態、絶望かもしれません。
そう考えると、「ちょっとずつ変わってゆく」ということがすごく大切になりますよね。それも3・4年かけてちょっとずつ変わったりするんですが、これってすごく尊いことだと思います。しかも、変わるということはひとりだけ変わる、というところに留まらないから、なおすごいです。
感情というものは、人と人とがいてはじめて生じるものです。ひとりだけでは生じません。まあ、ひとりきりの時でも生じますけども、その場合でも、○○さんのことを考えてとか、人の集合体である学校や会社のことを考えてとか、人との接点により、感情は生じるのだと思います。(過去・現在・未来、いろいろありますが)
絶望の初期症状は「うんざり」だと思うのですが、その「うんざり」も人と人との相互作用によって生じるわけですよね。その「うんざり」が慢性的に続き、「ああ、どうしようもない」となるのが絶望なんでしょう。
もっとも、そこまで意識化できているかどうかは疑問で、うんざりしている自分に気づかないまま、問題や症状だけが表面化しているような場合も多いかもしれません。
そこで悩める人はカウンセラーのもとを訪れるのだと思うのですが、そこで信頼関係が築けた場合――というのは、操作的にならず、ただ聴く、受け容れるという姿勢が取れた場合――クライアントさんは訥々(とつとつ)にでも話すことになる。
話すことで、その「うんざり」が意識化され、段々と自身の人生の中に組み込まれていくわけです。ただ、前述の通り、その「うんざり」は人と人との相互作用の中で生まれたものなので、その人ひとりが組み込めても、さほど変わらない。(←ここがすごく難儀なところです)
けれど、不思議なもので、その人が意識化し、自分の中に組み込もうというプロセスが生じてくると、自然と「関係のある人」にも変化が生じてくる。
変化といっても、それは特に本人以外の関係ある人にとっては、殆ど意識化しないものなので――それでいて罪の意識を生じさせるようなものなので――そういう変化は、迷惑なものとして、つらいこととして、あるいは騒動として生じてくる。泣きたくなったり、怒りたくなったり、逃げてしまいたくなったり、そういう嫌なカタチで生じることが多いようです。
例えば、ある場の中で、Aさんは日々うんざりし、それが蓄積されてにっちもさっちも行かなくなった。そしてそれが病気や問題として表面化したとしましょう。その時点でAさんは自身のうんざりには気づいていないのですが、自身の中の絶望を訥々と語るうち、自身が溜め込んでいた「うんざり」にやがて気づき始める。そして不思議なことに、その場の中で劇的なことが起こり、(どういう表現の仕方になるのかは別にして)その場の構成者が――誰が悪いとか、誰が犯人かというのは別にして、そういうのは超越して――自分たちがAさんをうんざりさせてきたことに薄っすらと気づいてくる。ここでいろんな葛藤が生じます。Aさんにしても、自分がうんざりを溜め込んできたことを認められず、それを認めたい気持ちと認めたくない気持ちで葛藤するかもしれません。場の構成者にしても、「ああ、そうかもしれない」という気持ちと、「そんなことはない」という気持ちの間で葛藤するかもしれません。どちらも葛藤し、疲弊もするでしょう。
こういうことが生じたりするんですね。
でも、関係のある、人と人の間に生じることですから、「関係ないこと」として扱うわけにもいかない。最初は、本人だけがつらいこととして生じていたり、あるいは問題として扱われていたものが、段々と「みんなの問題」としてのカタチを持ってくる。これも変化ですよね。
で、このように変わるということは大変なわけです。長いことかけてちょっとずつ変わるというのも、仕方ないことだと思います。痩せる時に脂肪燃焼なんて言葉を使ったりしますが、変化には燃焼がセットになっているのかもしれません。だから、人が変わる時には、「身を焼かれる」ような思いもするわけです。脂肪燃焼にしたって、一瞬のうちに燃焼させようと思えば、文字通り(黒焦げに)燃やすことになるんですが、それでは細胞が死んでしまうので、そうならないように時間をかけて少しずつ燃焼するようになっているようです。心の変容にしても同じようなことが言えて、焼けて死ぬような変化だと困るので、そうならないように時間をかけて変わるのがいいようです。
人間には心を守るいろんな機制・システム(防衛機制)が備わっていたりしますが、それがあるのも、急激な変化で身を(そして心を)焼かないためなんでしょうね。(まあ、そのおかげで核心が見えづらくなるという、問題もあるんですが…)
変わることのないという絶望によって、人は悩み憔悴する。けれど、変容するには時間がかかるし、痛い思いもしなければならない。こういう葛藤の中で、我々は生きているのだと思います。
さらに、我々現代人は、そういうことを明確に意識化し、自身の人生の中に組み込めていない。社会全体がそうなので、これがより悩みを深めているんでしょう。経験者もあまりいない、理解する人も少ない、悩むこと事態を悪いことだと決め付けている、少しずつ変わるということを評価できない――いろんな問題があるわけです。
問題の中核が、(状況が)いつまで経っても変わらないということでありながら、人間は「変わらない」という安定を求めてしまいます。これはひとりの人間の内面においてもそうですし、人と人との相互作用においてもそうです。変わることなくうんざりしてしまっているという裏には、けれどそこに安定しようとしている姿勢、というものがあったりします。そこに変容が生じるのを待たなければならないのですから、時間はどうしてもかかりますよね。
さらに誰が変わらなければならないのかというと、それも不明確で、症状を発症している人や問題とされている人だけが変わればいいのかというと、決してそうではない。言うなれば全体の布置すべてが変容しないといけないんだから、これは難儀です。しかも「関係ある」人が「関係ない」と思ったりするんだから、さらに難しい。関係あると思い、悲しいと思い、同情さえしても、自身の変容という点においてはなかなか意識化できないものなので難しいです。
で、単純に考えると、それでは適切な指導や助言を行なえばいいじゃないかということになりますが、それはむしろ逆効果だったりします。だって、「気づけない」状態にある時に、わざわざ気づかせるのは逆効果でしょ。本人はいくら好意のつもりでも、それは耐えられないことなので困ります。だからここでも「待つ」ということが大事になる。気づける状態になるまで、待つことになります。
ともかく、耳を傾け、聴くことになるんでしょう。
☆
クライアントさんの語ることに真摯に耳を傾ける時、カウンセラーもまた、クライアントさんと同じ体験をすることになるかもしれません。受容と共感の前提に立って「きく」というのは、そういうことなんでしょうね。一般に言う、「相手の話を聞く」ということとは、違うわけです。(我々は「話を聞く」という言葉をよく使いますが、それでいて相手の話していることをどれくらい聞いているか、疑問ですよね。というか、相手が真剣に話すことを長い間聞き続けるのは、どうしても無理だと思います。訓練を積んだ専門家だけが、それをできるんでしょう)
自分の言いたいことをなかなか聞いてもらえなくて、悲しくなったことはありませんか? それでいて、相手の言うことをなかなか聞けなかったこともありませんか? それはどちらももっともで、それだけ話を聞くというのは難しいものなんでしょう。
相手の語ることに深く耳を傾ける時、自身も相手のイメージの世界に身を置き、同じ世界を経験することになるのかもしれません。(したがって、相手が沈んでいる時は共に沈むことになります)
相手に何か言ってやろうとするのではなく、ひたすら聴く。ひたすら聴いて、体験する。
繰り返しになりますが、カウンセラーの答えがクライアントさんにそのまま適用されるとは限りません。思い込みによる押し付けは迷惑だし、過ぎると害悪になります。「決め付け」「押し付け」はカウンセラーが最もやってはならないことなんでしょう。(究極のことを言うと、人間としてやってはいけないことでもあります。まあ、なかなか難しいことではありますが…というか、これが出来れば、人間として大したもんなんでしょうね。もっとも、「決め付けないこと」や「押し付けないこと」と、「言いなりになること」や「いつも折れること」「いつも負けること」が違うのは、言うまでもありませんが)
☆
受容・共感は必要ですが、また一方で、無意識の領域に取り込まれている相手に対して、無防備な状態で無意識の領域に飛び込むのは、カウンセラーにとっても危険です。それなりの知識と経験、強さが必要です。それがカウンセラーの良心であり、クライアントさんに対する配慮です。
無意識の力は強力ですから、建設的に付き合えば、素晴らしい力を発揮してくれるパートナーになりますが、闇に呑み込まれる危うさも伴ないます。
(あとで出てきますが、無意識というものは自我や意識と反対のことを考え、行う傾向があります。まるで天邪鬼みたいです。それは価値観の変換や、自身の態度の修正という意味において非常に有効ですが、厄介な相手でもあります。盲目的に信じたり、接すると、えらいことになります。自然が大いなる恵みでありながら大いなる脅威であるのと同じですね。無意識というのも、人間の中の自然に関するものだろうし…)
あるいは、無意識は「海」として表現されることもあります。
海は、我々人類に多くのものを与えてくれます。魚などの食料、資源、いろんなものを与えてくれます。しかし、その一方で、荒れ狂ったり、我々を呑みこんだりする、恐ろしい存在でもありますよね。そして何より、我々はそれをコントロールすることができません。海は、そのような大きな存在です。そんな、海にも似た無意識に接するにも、注意と経験が必要だということです。
ひとつ、例を挙げてみましょう。
ある人が、「姿なき声」を聞いたとします。その人はその声のために眠ることもできません。こんなとき、カウンセラーは、この人に対して、ああ、この人は「本当に姿なき声を聞いているのだ」という前提で話を聞きます。事実、この人は、この人の内的世界において、紛れもなくそれを体験しているのです。ウソでもなんでもないです。
しかし、その一方で、これが一般的な(外的)事実であるのか、判断する目も必要です。例えば、この人が「盗聴されている」と言ったとき、それにのって騒げばえらいことになります。しかし、クライアントさんにそれは現実でないと諭すのはナンセンスです。だって、クライアントさんは、内的体験において真にその声を聞いているのだから、内的世界においては紛れもない現実なのです。(ここでは、内的には現実であり、外的には現実でないという、「二面性」があります)
こんな時、その「姿なき声」は何を意味するのか? 何を伝えようとしているのか? それはその声を非現実だと言っていたのでは分かりません。それ以前に、それを聞いている人はその声を現実に聞いているんですからね。さりとて、その現実は世の中の人全員が共有できるような外的現実ではありません。だから、その人の内的な現実として、しっかり話を聴いてゆくことになるんでしょう。
へたに騒ぎを大きくするのではなく、また絵空事とするのでもなく、その人の人生において何かしらの意味あることとして、そして今はよく分からないこととして、話をじっくり聴いてゆくことになるんでしょうね。
3・無意識の声に耳を傾ける
「姿なき声」の話がでましたが、私が考えるに、ある種の症状があらわれる場合、(姿なき声だけでなく、理由が分からない不安にかられたり、いたたまれなくなる、とかそんな場合)その背後には「意味」が隠されているのだと思います。
無意識の奥底からの衝動、本能と理性のジレンマ、隠された本心、現在の状態への疑問の投げかけ、家族の問題、社会の問題、方向転換の必要性、様々な意味が考えられますが、その発信源は無意識にある、と感じることがあります。あるいは現状の隠された危機を、無意識が教えてくれるのかもしれません。「お前は気づいてないかもしれないが、危ないぞ」みたいな感じで…。
これは一般的な病気でもそうですよね。本人には自覚がなく、また一般生活にも問題なくても、何かしらの病気は進行しているかもしれません。でも、それが手遅れになる前に、何かしらのシグナルは出るもんでしょ。しんどい、痛い、つらい、○○の様子や感覚がおかしい。これらは身体の部位や器官、組織なんかのことですが、こういうのは心の問題についても、言えるのかもしれません。
身体の調子がおかしい時、何かしらのシグナルが発せられるように、心の問題や生き方の問題がある時、段々とシグナルが発せられるのかもしれませんね。で、その発信源が、無意識というわけです。
それと、こういうのは個人云々というだけではなく、場の問題としても――というのは、集団や社会の問題としても――ある個人を通して、シグナルが発せられるのかもしれません。
そしてそんな時は、無意識の声――実際の声ではなく、無意識から語られるメッセージ――に耳を傾け、折り合いをつけていくことが大事になるでしょうか。そこにある意味を読みとることが、必要になってくるかもしれませんね。
あとで出てきますが、無意識は自我や意識の「嘘」を見破り、それを訴えかける面があります。隠された本心を、自我や意識に伝えようとします。(あるいは、自我とは反対のことを主張します)。そうやって、バランスの悪さを伝え、全体性を回復するための仕事をしているのです。そういうメッセージを伝えてくれるんですね。
ただ、無意識の言っていること、そのものが本心というわけでもありません。そこから本心やメッセージを読み取るには、それなりの技量が要るように思います。(後で出てくる「象徴」という意味も理解せねばならないでしょうか)
無意識は時に酷い(ひどい)ことを言います。「死ね」と言ってみたり、「嫌い」と言ってみたり、「汚い」と言ってみたり。しかし、時にそれは一面的な自我や意識の考えを補償する行為であって、そのものずばりの酷い言葉が、その人の考えや本心というわけでもないでしょう。(例えば、無意識が「死ね」というから「死んだ方がいい」とか「(本心が)死にたがっている」ということではないです。それは例えば――あくまで例えばですが――「今までの自分が死んで、新しい自分に生まれ変われ」というメッセージだったりします。死なけばならないのは自分のどの部分か、それはよく考えないと分かりません)(あるいは、「汚い」という言葉にしても、全部が汚いというのではなくて、○○の部分が汚い、ということになるでしょうか)
無意識そのものは見えないわけだし、無意識から来るシグナルにしても、意識的なものと同じように扱うわけにもいかないので、なかなか難儀です。言葉にしても、言葉そのものもあれば、言葉の裏や奥にあるものもありますしね。
無意識的なものと接しようとしたり、無意識的なものを読みとろうとすれば、そういうことも考えねばならないわけです。一方で素直にならなくてはならないし、もう一方で素直にそのまま受け取るわけにはいかないしで、ややこしいです。我々の意識世界には意識世界なりのルールがありますが、無意識の世界には無意識の世界なりのルールのようなものがあるのかもしれませんね。
と、無意識のことを語りだすとキリがありませんが、それは以後の講義で…。
4・症状、その可能性
ユング心理学の特徴のひとつとして、「症状の中に可能性を見出す」という点が挙げられると思います。
症状はクライアントさんにとって、つらく苦しいものですが、その一方で、『より良い状況に至るための生みの苦しみ』、という見方もできるのです。より良くなる可能性がクライアントさんに見出されたからこそ、その症状があらわれる、とも言えます。
もっとも、その症状は本人にとってつらく厳しいもので、危険も伴ないます。しかし、「それでも、そうせずにはおれない」――そういう部分もあって、それが無意識の要求であり、人間成長の可能性なのかもしれません。
河合隼雄先生は、著書「河合隼雄のカウンセリング講座」の中で、「ノイローゼの人は選ばれた人」というような言い方をされています。
というのは、おそらく今おっしゃった方の気持ちとしては、ノイローゼは普通以下で、ノイローゼにならないのは普通以上という考え方があるかもしれません。けれども私はそういう考え方をしていません。ユングはこう言っています。「ノイローゼになる人は、何らかの意味で普通以上の何かをもっている人である」と。私はもっとはっきり「ノイローゼになる人は、選ばれた人である」と言うんですが、こういう感じは、みなさんちょっとわからないかもしれません。しかしこれは冗談でなしに、本心からそう思っています。
(創元社「河合隼雄のカウンセリング講座」より)
あるいは、この本の別のページでは、「三年間ノイローゼになる力をもった人」という言い方もされています。
こういうふうに考えますと、“三年間ノイローゼの治らない人”というのは、ある意味では、“三年間ノイローゼになるなりうる力をもった人”ではないか。これは分析をやった者でないとちょっとわかりにくいのですが、そう思うことさえあります。
これはいろんな捉え方ができると思うのですが、その初めやきっかけが何であれ、自分や自分を取り巻く場と向かい合い、悩みながらでも意味を見出そうとする人というのは、それだけの価値があるからなんでしょう。
それだけの価値やチカラがなかったら、そんな面倒なことはしないし、できません。それよりはそんなことは無視して平穏に暮らしているほうがいいです。あるいは、アレが悪いコレが悪いと、他人のせいにして批判しているほうが楽です。
でも、それが出来ない人がいる。平穏には暮らせない。多くを持っていても納得できない。他の人と同じように、何の疑問も持たずには生きてゆけない。
ある人は、それを芸術で表現したりします。ある人はマンガで、小説で、ダンスで、歌で、音楽で、絵画で。こういう言い方はマズイかもしれませんが、世の中から“半端者”や“はみ出し者”、“変人”や“変わり者”とされた人が、自分の中にあって他人の中にはないものを、そうやって表現することもありますよね。
他の人ならこだわらないようなことにこだわってしまうので、すごく生きにくい。人のしないような苦労もしてきた。そういう人が表現者になることも多々あると思います。
そして、それだけではなく、一般人として普通に暮らしてきた人が、突如としてそうなることもある。
そんなことを考えると、前者では、「苦労する人には苦労するだけの価値がある」「人にはないこだわりを見せる人は、それだけの価値があり、力ある」ということになるでしょうか。そういう苦労や悩みを経てこそ、表現者になるわけですからね。
後者にしても、「悩めるだけの力がついた」「悩めるだけの余裕ができた」→「その先に進めるだけの、時が来た」そういう見方ができるのかもしれません。
やっぱり、悩めない人は悩まないでしょう。他にすることを探して、それをします。悩まざるを得ないということは、そこに意味があるから、その意味を探求するだけの技量があると認められたからなんでしょう。
私は未だ表現が足りず、うまく言い表すことができませんが、そういうことだと思うのです。
以上のようなことを、私的なユング心理学の視点で述べたのですが、これらの前提のもと、次回からはそれぞれの用語や概念について勉強していきたいと思います。
閑話:「導かないということ…」
カウンセリングと、「○○相談」といわれるものとの差のひとつは、「導かないこと」でしょうか。
カウンセリングにこられる方は、「導いてもらうこと」や「アドバイスしてくれること」を期待しておられると思いますが、多くの場合、カウンセラーはそういうことをしてはくれません。
カウンセラーが期待するのは、クライアントさんの「(奥に秘めた)可能性」や「自己治癒力」であり、カウンセラーが望むことは、クライアントさんが誰かの導きによって生きることではなく、クライアントさん自身が自分の力で生きていくことです。いつか、いつの日か、そうなることです。(といっても、何も孤独に生きることではありません。念のため)
仮に、クライアントさんを導くものがあるとすれば、それはクライアントさん自身です。クライアントさんの無意識に潜む、まだ出会っていない、もう一人の自分、です。
今出て来た問題を機に、今までにない、もう一人の自分に出会っていくのです。
といっても、それは何も、解離性人格障害(二重人格)的なことを言っているのではなくて、それは、「今は否定しているもの」であったり、「今まで生きてこなかった生き方」であったり、「今は価値が低いと思い込んでいるもの」であったり、「自分に欠けてはいるが、その意識が無いもの」であったり、「意識が見逃しているもの」だったり、「男性の中の女性性」「女性の中の男性性」だったりします。そういったものが、今は出会っていない、もう一人の自分です。
導きがあるとすれば、そういった、無意識の中の自分に、導かれることになるのでしょう。こういう厄介な自分にこそ、教えられるものがあるということです。
☆
「導く」ということは、それも過ぎれば、相手を「コントロールする」ことにつながります。
たとえ良心から来るものであっても、相手をコントロールするということは問題を孕み(はらみ)ます。
誰だって、こうなって欲しい、ああなって欲しい、よくなって欲しいと思うのが人情ですが、多くの場合、問題を抱えて来られる人は、そういう一般的なモデルでは立ち行かなくなった人です。一般論なんか分かっているけど、それでは何ともならない人です。一般論を超えた、そういうところで勝負しようという人だと思います。(とはいえ、だいたい一般論的な幸せを求めて来られるのだとは思いますが…)
なかなか分かりにくいと思いますが、要するに、カウンセラーがクライアントさんをコントロールしていいものではない、ということです。(「コントロール」の代わりに「支配」という文字を入れてもいいです)
コントロールされる方が楽だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう場合、高い確率で、失敗すると思います。(「コントロールされる方が楽だと思うこと」が失敗だというのではないですよ。それは人情です。ただ、実際「コントロールされてしまうこと」は失敗につながりやすいと思います)
なぜなら、望まれるのは、誰かにコントロールされて生きることではなく、「自分自身で生きること」だからです。
とはいえ、その、「自分自身」というところが厄介で、その自分自身の半分は、まだ出会っていないと思っていただいて結構だと思います。それゆえ難しいのです。
長くなりましたが、上記が、カウンセラーがクライアントさんを導かない理由です。
今は分かりづらい方も、読み進むうち、少しずつ分かってくださるのではないでしょうか。それを期待します。(コントロールせぬ程度に…)
(注:とはいえ、コントロールをすべて否定しているわけでもないですよ。ケース・バイ・ケースで、ある程度のコントロールが必要な場合もあるかもしれません。ただ、最終的には、「自分で生きる」ということが望まれるということです。あと、それが医療行為に基づくものなのか、ただのお節介なのか、ということも大事でしょうね。あと、命に関わるか、ということも)
【関連記事】「カウンセリングとは?」(「はじめに」より)
【蛇足】
そういうわけで、「〜してあげる」という行為は、カウンセリングではありません。
では、また、次回に…
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