【第五章 心像と象徴】
第五章 心像と象徴
私は何かしらを考える時、イメージして考えます。本を読むにしても、その内容をイメージし、(内的に)体験することで理解が深まるように思います。また、音楽を聴く際にも、何かしらをイメージします。
私は「イメージ遊び」が大好きです。
(まあ、この辺は、生まれ持ったタイプによるんでしょうね)
人と接する際にも、体験からか、無意識からか、イメージを受け取ることが多いように思います。
人だけではなく、物からだってそうでしょう。
知識や経験から受け取るものもあれば、無意識から来るイメージから受け取るものも、あるように思います。
そのようなごく身近にあるイメージ、それについて考えてみたいと思います。
1.心像(イメージ)
日常でもよくつかわれる言葉、「イメージ」は、「心像」「表象」「形象」などと訳されます。
それぞれ微妙に意味が違ったりしますが、共通するのは、「心の中に思い浮かぶ」という部分。
我々は普段、目の前のものを知覚した像を見ていますが、それとは別の像を見ることもあります。
心に浮かぶ像には、記憶しているものや経験したもの、あるいは、想像するなど、意識の関与が濃いものもあれば、無意識の方から湧き上がるといった、意識の範囲外から来るものも、あるようです。意識してイメージするものもあれば、浮かんできたものを見るといったものもある。
また、浮かんできたものを捉えるにしても、個人の経験に関係するものもあれば、個人の経験を超えて現れるものも、あるようです。
ここでいう心像とは、「心の中に思い浮かべる姿や情景」といった意識的な関与が大きいものではなく、「無意識から生じる像」といったもの。したがって、外界の現実とは間接的な関係しか持ちません。仮に、実際の何かの姿で現れるにしても、それはいわば姿を借りているだけであって、そのものではない。それは、記憶や経験から来たものではなく、また、未来を予知するものでもありません。そういうよりは、別の何らかの意味を含んだもの。その部分が、大切になります。
したがって、幻覚や幻聴とは、一線を画するものです。これらは、内的な現実と外的な現実が混同されているため、問題が生じる。
対象が目の前にないのに知覚するという意味では同じですが、イメージは内的な像として扱われますが、幻覚は実際だとして扱われる。(といっても、妙に現実感を帯びたイメージというのは、ありますが)
心像が外界の現実とは間接的な関係しか持たない、というのは、まったく外的現実と関わりがないということではありません。そこには微妙な――ある時は奇妙な――関わり合いがあったりする。
イメージが持つ意味にしても、それは映像として知覚された像という意味では、直接的な関係を持ちませんが、その人の生き方や人生という意味では、大いに関係したりする。
例えば、「ブレーキが壊れた車」というイメージに触れたとしても、現実としてそうなるということではありません。調べてみたらブレーキに不具合があったということもあるかもしれませんが、それは稀なことであって、いつもそうなるものではない。そういう意味で、知覚された像と現実は、直接的な関係を持ちません。
が、しかし、「ブレーキが壊れた」という部分が、その人の態度や行動、生き方という意味において、大いに関係ある場合がある。
心像には、このような面があります。
心像を辞書で引くと、「過去の経験や記憶などから、具体的に心の中に思い浮かべたもの」(大辞泉)とか「記憶・想像などにより、現実の刺激なしに意識に生じる直接的な像」(大辞林)といった書き方をされていますが、ユング心理学で扱う意味としては、「無意識の領域より来て、具体的なカタチをとって意識に生じる像」ということになるでしょうか。
もちろん、イメージには両方の性質があるわけですが、後者を問題として、人間、あるいは、人間の生き方について、考える。
心像の特徴の一つに「自律性」が挙げられます。つまり、自我の影響を受けないということ。(意識的な支配やコントロールを受けないということですね)。これは、心像が無意識からの産物であることを考えると、当然ともいえます。
自律性を顕著に示す例としては、「夢」が挙げられます。我々は夢をコントロールすることができません。また、そこに意義があります。
夢の中で起こる「思いがけない出来事」、そこに、今は気づかぬ「新しい価値観」や「生き方」、「本心」などの「気づき」があります。それ故に、夢は「未知なるもの」を教えてくれる。意識的には見逃しているものに、気づかせてくれます。
時に、夢の後半などで、意識的に夢の中での行動をコントロールできる場合がありますが、それは覚醒状態に近くなったからでしょう。但し、これにも意味があって、夢で与えられた状況の中で、意識的な「行動」や「答え」が求められたからかもしれません。
このように心像には自律性があります。我々は「イメージする」という時、意識的に空想したりしますが、ユングの言う「心像」はそれとは一線を画したもののようです。
それは意識的に操作できるものではありません。我々ができるのは、その無意識からの産物・メッセージを見る、読み解くことだけです。また、そこに意味がある。
意識して空想したものは、おそらくは、願望充足の域に留まるでしょう。しかし、意識を超えてやって来るものは、意識の埒外にあるものを運んでくれる。そこにこそ、気づきがあるのです。思いがけない発見がある。
この心像ですが、「我々の持つ理念の母胎である」とされています。
我々が意識の領域で思考するとき、様々な概念をその思考の要素として組み立てていくことになるわけですが、その概念は何らかの心像を母胎として持ち、それによって無意識の層とつながっているというのです。
我々は物を生き物のように扱ったり、ある時は、彼や彼女と呼ぶことさえある。また、自然物の中に人格を見たり、ある時は、元型のようなものさえ感じ取る。
こういった点も、上のような特徴から来るのかもしれません。
我々は、何かを認識する時、半分は言語のように認識し、それでいて半分は、イメージによって認識しているのかもしれません。
例えば、目の前のリンゴを見る時、半分は、まるで言語を扱うように、「ああ、リンゴだ」と思う。それはまるで記号化されたようなもので、赤くて丸くてと、表面の特徴を分類して、認識する。
しかし、我々の認識は、それだけではありません。表面にはないものも、捉える。
それは過去の、おいしかった思い出かもしれない、果汁があふれる、そんなイメージかもしれません。ともかくそのように、表面に現れていないイメージまでもを、知らない間に受け取ったりしています。
目に見える知識的なものを受け取るとともに、心に訴えかけるようなイメージも、受け取っているのです。
心像は無意識の産物ですから、同時に心的なパワーも運んでくれます。
例えば、リンゴを認識する時、言語的な認識のみだと、それは機械的・物質的で冷淡なものに留まる。
しかし、そこに心像としてのイメージが加わることによって、より温かみのある、広がりを持った心的効果が得られるように思うのです。
海を見たとき、山を見たとき、美しい空を見たとき、我々は説明できないような情動を得ることがあります。
これは心像の運んでくる心的パワーの効果なんでしょう。
言語的な認識のみでは、このような情動は得られるはずもありません。
あるいは、十字架や仏像が訴えかけてくるのも、このような効果によるものかもしれません。
我々は海を見たとき、意識の領域では概念としての海を認識しますが、その背後に心像としての母なる存在を感じずにはおれない。(ただ、イメージは普遍的意味と個人的意味を併せ持つので、個人のイメージは様々であると思います。例:「個人的経験から発生するイメージ(意識に近いイメージ)」と「人類共有のイメージ(普遍的無意識に近いイメージ)」)
この対立する二面性が人間のよいところでしょうか。判断・分類するだけの冷たい存在でもないし、ただ感じるだけの存在でもありません。この微妙で絶妙なバランスこそが、人間だけが持つ進化の可能性なのかもしれません。
物事の「理解」「気づき」などに注目した場合、例えば、理性的には受け容れがたい内容でも、夢の中に現れた心像と接することによって、うまく心に基礎付けられることがあります。
あるいは、意識的には見逃しているようなものも、夢の心像に触れることによって、気づかされる場合もある。
これはイメージの力によって「体験する」という意味が強いからでしょうか。
(頭で)知っている知識と、体験して得た知識では、その心的パワー、重さは大いに違います。
例えば、実際、災害を経験した人と、知識として知っているだけの人では、その重さ、説得力に差があります。
ある種の病気などにしても、実際に体験した人やその傍にいた人と、情報として間接的にしか知らぬ人では、知識も体験知も同じではないでしょう。
また、同じ知ることでも、よりイメージした理解と、言語的に受け取った理解では、そこに差が生じるかもしれません。
人には、「イメージで体験する」という能力があります。これにより、より深く理解することができる。
基礎づけることができます。
心像の世界は内的イメージの世界ですから、一般には理解されにくいと思います。現実世界の事象に重きを置く人にとっては、その価値はより低いでしょう。
しかし、この一見無価値で捨てられがちな存在が、前述のように内的には強いエネルギーを持ち、あるときは現実世界の概念や枠組みをぶち壊すほどのパワーを発揮することもあります。
我々は案外、意識外のところで、いろんなものの影響を受けているようです。
心像の特徴としては他に、その「集約性」が挙げられます。
心像は様々な感情や状況をそのひとつの像で体現する。
(その究極形が、あとで述べる「象徴」ですかね)
夢の中に現れたあるひとつの心像に注目するとき、そこから幾つもの感情や状況が汲み取れるのではないでしょうか。
それによって「気づき」も誘発されるわけです。
またこの心像が現実問題と絡み合っているのも興味深いことです。
心像には普遍的な要素も含まれるのですが、単にイメージを普遍的なものにまで還元するだけでは、心像の持つ意味が失われてしまうかもしれません。
山=父なるもの、海=母なるもの、などと記号的に扱っても、心に訴えかけるものがありません。
それよりは、受け取ったイメージを十分に味わう方が、心に響く。そして、その心像が持つ個人的な意味も考慮しなければならない。
心像は、単に何かを見せようとしているのではないのでしょう。何かを見せることによって、伝えたいものがあるといった方が、しっくりくる。
そしてその伝えたいことには、普遍的な要素と個人的な要素が、両方含まれる。
だから、元型など、普遍的な知識も持たねばならないし、連想法などによって、個人的に持つ意味にも、触れておかねばならない。
また、解釈しようとしすぎる姿勢が、意識的な働きを強めてしまい、心像の持つ「生き生きとした生命力」を奪ってしまうこともあります。
心像はもちろん、意識することにも意味があるのですが、心像の持つ生命力を殺してしまうと、これもまた困ってしまう。
なので、前述のとおり、イメージを十分に味わうということは、大切なようです。そして、その十分に味わったことを、話し合えばいい。
心像は自我が見逃しているものを教えてくれますが、それでも、なかなか自我が意識できないことも多いようです。
そこで、人に話すということに意味が出てきて、カウンセラーと共に夢について話し合うことで、ひとりで考え込んでいた時にはなかったものに気づける場合があります。
といっても、カウンセラーが勝手に解釈したり指摘するわけではなく、話すという行為、言語化によって、いろいろと気づくことがあるということです。
それも、ひとりで考えるのではなく、人と人との間で言葉を交わすということには、さらなる意味があるようです。
心像の持つ宝は、その豊かな『生命力』、そして、我々が知る『それ以上のことを含むこと』。
「それ以上のこと」とは、我々が意識できない、無意識的なもののことです。
我々の知らぬもの、今は見逃しているものが、我々を豊かにしてくれます。
2.象徴(シンボル)
一般的に使われる意味での象徴は、「直接的に知覚できない概念や意味、価値などを、それを連想させる具体的な事物などにより、間接的に表現すること」(大辞林)をさします。例えば、王位を王冠で表したり、平和を鳩で表したりする。
これは、王冠=王位、鳩=平和、白無垢=純潔、のように、どちらかといえば記号的に使われます。しかし、ユングの言うところの象徴は、少し違う。
直接的には表現できぬもの、「そのもの」を知ることはできぬもの、そういうものを別のカタチで表現するもの、それが象徴です。
それは、本来知覚できないものを別のもので表現する、という意味では同じですが、ユングの言う象徴は、決して、「=」(イコール)で結ばれるものではない。むしろ、それ以上を含みます。そして、奥に、意味を持っていたりする。
無意識にあるものは、その名の通り意識できないので、意識の把握できるカタチを借りなければならない。象徴とは、無意識にあるものを意識に捉えさせる、ひとつの方法、試みです。
ただ、象徴は「単なる既知のものの代用などではなく、ある比較的未知なものを表現しようとして生じた最良もの、その他にはこれ以上適切な表現方法が考えられないもの」とされる。
象徴は、無意識にあるものを表現するために用いられる。しかし、単に無意識の要素を現世にある何かに置き換えたというだけではなく、もっと多くのものを含む。まだ意識に把握されていない何かを、「もうこれしかない」といった最良の表現で表したもの。そこには情動もあるし、意味もある。意識に、そして生き方に影響を与える、何かがあります。
よって、象徴は単なる記号として扱うことはできません。それ以上のものを含んでいる。
知るだけでは意味は薄く、それを生きている人間の一部として、組み込むことが望まれる。
我々は象徴そのものを見ることも、理解することも出来ません。自我の世界(現実世界)と深い無意識の世界では、システムそのものが違うのでしょう。
故に、象徴は、現実世界(自我が認知できる世界)にあるものの姿を借りつつ、それを表現するには「これしかない」というカタチで現れるのだと思います。あっちの世界のものを、こっちの世界の姿で表現するわけですね。あるいは、あっちの世界のものが、こっちの世界の姿で顕現するわけです。
[ 顕現:(神などが)はっきりした形をとって現れること。(大辞林)]
象徴は記号的に説明することはできず、それ以上のものを持ち、理解するというよりは、直接胸に訴えかけてくるものです。
それは何か、伝えんとするものを持っており、それを最良のカタチで表現している。単に知るだけではない、心に響く気づきが、そこにあったりします。
ただ、それは、自我の思うよいこととは限らず、むしろ、自我が見逃していたり、見ようとしていない部分であることが、多い。それを、イメージとして伝える。
例えばある人は、「鎖につながれた犬」というモチーフの夢を見ました。
その犬は鎖につながれており、一見、みすぼらしい。しかし、目は輝きを失っておらず、時には活力さえ見せる。
このような夢のイメージにも、いろんなものが含まれていたりします。
ある夢の一部を下記に挙げます。
わたしはある日、天空に稲妻が走るのを見た。稲妻は轟音を立てながら、暗黒の空を割るように走り、やがて雷は天かける黄金の龍に変化(へんげ)した。
このような夢を記号的に解釈しても、あまり意味がないように思います。それよりは、轟音を立てる稲妻への恐怖、天空を駆ける龍の神々しさ、畏怖の念、パワー――それらを体験し味わう、それによって得られた情動にこそ、価値があるように感じます。
これを単に記号化したのでは、そこにある力が失われてしまう。
象徴は対立するものを含み、またそれらの統合性を有するとされます。
例えば、理性と本能、内向的態度と外向的態度、思考機能と感情機能、という風に、ですね。
この万物の持つ相反する性質が、象徴によって現され、後に統合されていくことになる。
(上記の龍の夢の例ですと、神々しさと共に、荒れ狂う本能的な怖さもあります。エネルギーが大きいものほど価値が大きい半面、コントロールすることが出来ず、危険で恐ろしいものだったりする)
この対立する要素と、その後の統合が、人間を変えます。生き方を変える。
心像や夢の持つ意味、伝えんとするところは、この辺にあるのかもしれません。
意識的な態度や生き方を補償するものとして、心像や夢があり、それを通して、欠けた部分が補われ、人は成長するし、危機を脱することもできる。
ただし、そこには意識的な関与が不可欠で、人は対立する要素の生む葛藤に堪えなければならない。
そして、その苦しみがあまりに大きい時、人は心像や夢と向かい合うことを、止めてしまうのかもしれません。
人は、指摘されることを好みません。むしろ、嫌う。
説明されることも、教えられることも、あまり好きではないかもしれません。
だから、心像や夢が、働き出す。
それは、指摘もしないし、説明もしない。教えることもありません。
それはただ、体験させる。その人をイメージの世界に置き、何かしらを体験させる。
そして当人は、意味あることに気づくことになる。
頭では受け容れられないよなことも、象徴体験を通して、身に沁みたり、心に基礎づけられたりする。
現実問題でもそうでしょ? 何事も、体験してみないと分からないこと、体験して初めて分かることは、案外、多いようです。
逆に、知らないから、軽く扱うことができるんですね。そして、それ故に傷つけたり傷ついたり、世界を狭めたりもします。
夢や象徴体験は、それを卒業するための、通過儀礼的な意味合いもあるようです。
必要な態度の変容を促す、成長の過程。
実際、夢や象徴体験を通して、気づくことも多いようです。
逆に、いくら理論的に言われたり、教えられても、納得できないことも多いでしょう。
この講座にしても、これを読むよりは、一つの象徴体験を通して学んだ方が、より心に基礎付くような場合も多いように思います。
ただ、それをするために、象徴というものの意味、そのシステムを理解することは、大変意味深いと思います。
ここで、河合隼雄先生の例を参考にしながら、統合のプロセスを見ていきたいと思います。
仮に、「思考」を主機能とする人がいたとします。
(あくまで例ですよ)
【バランスの欠如、分離・対立】
彼はある時、思考にばかり頼る自分の態度に虚しさを覚えるかもしれません。人とのつながりの無さを寂しく感じます。
自分に足りないものを、その姿は見えぬものの、何かを感じはじめる。胸の奥のもやもやを、意識するようになります。
ここで、この人が自身の無意識に追いやっている感情を抑圧し続けるなら、対立は起こりません。しかし、何度も言っているように、無意識下への抑圧は肥大化を生み、影にエネルギーを与えることになります。見えない領域のもやもやは大きくなり、自我を圧迫しはじめる。そしてやがて、無視できなくなります。
ここに、自我の領域の思考機能と、無意識下の感情機能の対立が発生します。(タイプ論参照)
抑えつけようとする意識の力と、無意識下から押し上げる力がぶつかり、葛藤やストレスが生じるかもしれません。そして、ここにジレンマが生じ、この人はもはや以前のように思考のみを続けることができなくなる。
どちらがよいものなのか、どうすればいいのか、分からなくなってきます。感情を否定しようとする気持ちと、感情に惹かれる気持ち、その両方に揺さぶられる。
ここでは思考と感情の対立を例として挙げましたが、この対立のモチーフは、いろいろとあります。
「親と子の対立」
「自立したい心と、親や家にすがりたい心の、対立」
「巣立たせたい気持ちと、抱え込みたい気持ちの、対立」
「好きと嫌いの、対立(分離)」
「怒りたい気持ちと、慕いたい気持ちの、対立」
「壊したい気持ちと、守りたい気持ちの、対立」
いろいろとあるようです。
【退行】
この時、心的エネルギーは退行して無意識に流れ込みます。したがって、外から見れば、停止しているように見えたり、幼児的な行動、衝動的な行動をしているように思うかもしれません。中には、「サボっている」と非難する人もいるかもしれない。
あるいは本人にとっては、仕事が手につかなかったり、何をしてよいのか分からなくなって、焦りや不安に襲われるかもしれません。
(ただ、実際には、内的なエネルギーは渦巻いているようです。外見的には停止していても、内的には激しい葛藤があったりする。だから、簡単に責められたもんではない)
一見、後退しているように見えるこのような状態も、必ずしも否定的なものであるとはいえず、むしろ必要である場合もあるようです。
それはいわば、内的に渦巻いているエネルギーを落ち着かせるための期間、偏りすぎた態度を改めるための前期間、自我と無意識との橋渡しをするための準備期間、などとも考えられます。
何にしても、混沌としたものが落ち着き、かたまってくるのを待つような期間が、必要になるのでしょう。
【統合】
このような強い退行現象が起こり、それに疲れ、時には投げ出したりしながらも、自我と無意識がバランスをとろうとする時、二面性を有し(あるいは、越え)、統合された心像が現われることがあります。
ある意味では、このように統合性が高く、今までの立場を超えて創造的な内容をもたらすものが「象徴」である、ということができるのかもしれません。
象徴や夢には、超越機能がある。
葛藤に堪えることができた時、そのどちらかのみでない第三の可能性が見出され、ひとつ上の次元に至ることができます。
二つの相反するものの間で苦しみ、感情の爆発なども経験し、打ちのめされたりもしながら、そんな中で何らかの象徴が現れ、そこに道を見出すかもしれません。
例えば、感情を否定しようとしても否定しきれず、そういった現実に打ちのめされながらも、象徴体験を経ることで、そこに思わぬよい面や意味を見出すかもしれない。
そして、少しずつ、それを取り込んでいくことになる。
ここで、反発するだけだった要素が、だんだんと混ざり合うようになります。個々のそれは混ざり合うことはないのですが、その両方を持つ存在としては、変容してくる。例えば、思考と感情は相反するものであり、混ざり合いません。しかし、思考と感情の両方を持つ人間という存在は、以前とは変わってくる。
今までのように思考だけを使うのではなく、さりとて、感情へ反転するだけでもない、新たな道、新たな生き方を見出してくる。
葛藤は収束し、無意識に退行していたエネルギーが自我へも与えられ、より高次な活動を開始します。
(余談ですが、夢の中に「ガソリンスタンド」というモチーフがありますが、これはエネルギーの補給を示唆するものかもしれませんね)
このように、ユングはそれまでマイナス要素として見られていた、無意識と退行現象にも光を当て、価値を見出しました。より成長するためには、退行が必要な部分もあるというわけです。
より高次の場所にたどり着くには、自我だけではなく、無意識のパワーも必要とします。成長するためには、今は無いものを補う必要があるわけですね。
だから、今まで否定してきたようなものや、今まで見逃してきたようなものと出会うことが、望まれる。
更に、いきなりそれはできないわけで、猶予期間としての退行も必要なわけですね。また、内なる葛藤が収まるのを待つ時間もいる。
可能性というものは往々にして、今とは反対のところにあったりします。あるいは、背後にあったりする。そして自我は、そっちの方をあまり見ようとはしない。必要なものが無い無いと嘆きながら、今の場所から動こうとしなかったり、反対の方を見ようとしなかったりするものです。
これを補償するものとして、無意識が動きはじめるんですね。
自我は反対のものの動きや状況の変化に戸惑ったり、悩んだりもしますが、実はそれは、必要なものを与えようとしている、無意識の試み、働きなのかもしれません。
ここに河合隼雄先生の言葉を載せます。
「我々の意識が常に生命力に満ち発展していくためには、心の中のより深い部分とつながり基礎付けられていることが必要である。そう考えると心像は、自我に対してより深い部分から語りかけられる言葉であり、これによって、自我が心の深い部分との絆を保つことができると考える。そして、その内容が高い統合性と創造性を持ち、他のものでは代用しがたい唯一の表現として生じるとき、それを『象徴』ということができる」
【閑話】
『ユングの言う象徴』
ユングは、象徴が単なる記号でないことを強調し、区別しています。
下記は、ユングの著書「人間と象徴」の中のユングの言葉です。
【注意:但し、青字( )内は、私見及び説明】
◆
人は自分の気持ちを伝えるために、「話し言葉」や「書き言葉」を用いる。その言語は『象徴』に満ちている。しかし、現実には、ありのままでない記号やイメージを用いる。(伝えたいこと、「そのもの」でない記号やイメージを用いる)。例えばあるものは、単なる略符や頭文字を用いる・・・UN(国連)、UNICEF(ユニセフ)、UNESCO(ユネスコ)。またあるものは、世間で知られる商標であったり、特効薬の名前であったり、バッジ、記章であったりする。(ある病気や外傷に対する薬品を、その代表する特効薬で呼ぶのはよくあることです・・・救急絆創膏をバンドエイドで表したり、医療機関で消毒液をイソジンと呼んだりするように)。このような記号やイメージは、一般に知られており、聞いただけでそれと分かる意味を持つが、このようなものは『象徴』ではない。それらはあくまで記号であり、その事物を示す以上に意味を持たないのである。(逆に、『象徴』はその事物の概念を超える可能性を秘めると言えます)。
我々が『象徴』と呼ぶものは、一般的に受け取る明白な意味以外の「特定の何か」を含有したものである。(つまり、象徴の解釈は記号的に置き換えた解釈では意味をなさず、一般的に受け取る記号的な意味の更に奥にあるものが問題となってきます。「それ以上」を持つわけです)。それは曖昧で、知られざる、我々には隠された何ものかを包含している。例えば、クレタ島の多くの記念碑には2本の手斧の図案が印されている。手斧そのものは我々の知る事物であるが、その象徴的な意味については我々には分からない。他の例として、イギリスを訪れたインディアンの例がある。彼はイギリスを訪れた際、教会に鷹やライオンや牡牛があるのを見て、イギリス人は動物を崇拝していると友人に語ったそうである。彼はそれらの動物がエキゼルの幻像(ヴィジョン)に基づいた使徒の象徴であり、エジプトの太陽神ホルスとその4人の息子たちと類似性を持つことを知らなかったのだ。(ここで、同じ象徴でも、その人の生きる時代、文化、あるいはもっと個人的な経験によって、受け取るものが違うことが示されていると思います。エキゼルが見た幻像(ヴィジョン)にしても、その時代に生きたエキゼルの経験・知識の中から、それを象徴するに一番ふさわしいもの、それを表現するにはそれしかないものとして、それらの動物が現れたはずです。エキゼルが仮に現代に復活したとすれば、他の象徴を受け取るのではないでしょうか? 現代の知識、現代の事物のカタチを借りるわけですから)。
かくて、言葉やイメージは、それから直接的に受け取る意味以上の何かを包含している時にこそ、『象徴的』なのである。それはより広い、『無意識』の側面を有しており、その側面は決して正確に定義付けられたり完全に説明されるものではない。誰もそれを定義したり説明し切ろうと望むことはできない。人間の心が『象徴』の探求を始めると、それは理性の把握を超えた観念に導かれる。(象徴を完全に理解しようとすればするほど、象徴そのものの姿を把握しようとすればするほど、それは自我の理解の範疇を超えるため、自我では捉えられないのです。それもそのはず、象徴そのものは無意識の深層からの産物であって、厳密には我々の自我が受け取るのは象徴から派生した心像。無意識の産物そのものは、無意識なのであって、意識できないのも当然ですね。深いところに潜れば潜るほど、見えなくなるのと同じです)。
「象徴」についてまとめるなら、「何か未知なる可能性を持ち、我々の心に、その強い生命力をもって語りかけ、これを表現するにはそれしかない、そんなカタチをとって現れる、無意識からの表現」と言えるのではないでしょうか。
3.心像の効果
自分を鑑みるに、頭の中で何かしらを考え、考察するのはさほど難しいものではありません。しかし、それを行動に移すのは本当に難しい。(これはタイプにもよるのでしょう)
また、現実問題で活かされないと、内的理論は非常に虚しいものになります。
あるいは、内的真理も、それを表現したり、体現しないと、意味は薄く、価値は低い気がします。
ある人が自分の中にある傾向についてマイナスイメージを抱いている時、誰かがその傾向の持つプラスの面をいくら訴えかけても、人を変えるには至らない場合が多いのではないでしょうか。いくら説明しても、教えようとしても、人は変わらない。
ひとつには、その人は、そうは思っていない、プラスの面があるとは思えないのかもしれない。あるいは、頭では理解しても、何だかそれ以上は呑み込めないのかもしれない。
そして、もうひとつの要素として、経験がありそう。
その人がマイナスイメージを持ったのは、それだけの経験をしたからでしょう。それも、それだけ強い経験か、そうなるだけの連続した経験。
それを打ち消すには、知識だけでは弱すぎる。なので、プラスイメージを体験する必要が出てくる。
「ああ、こんなこともあるのか」「ああ、大丈夫なのか」、そういう経験を、マイナスを打ち消すくらい強く、あるいは、打ち消すくらい連続して、体験しないといけない。
なので、ここで心像の持つ生命力が、力を貸してくれます。
そこには知識にはない「!」という要素がある。
あるいは逆に、「これでいい」「間違ってなどいない」という強い思いを消すような、何らかの体験が必要になる時もあるもしれない。
高いものを低くしたり、低いものを高くしたりといった、心の中の位置づけの変化を促すような経験も、どこかで必要になるかもしれません。
そんな時々で、心像や象徴が力を貸してくれる。
アンソニー・スティーヴンズは、ユングのこんな言葉を紹介してくれています。
ユングにとって象徴とは、それまで知られていなかった何かを必死に表現しようとする生きた実態である。それは直観的な観念であり、それが表現されるときには、それ以上うまく表現できないという最高の形式で表現される。
また、こんなことも言っている。
象徴には超越機能があり、ある心理状態から別の状態への移行を容易にする。このために、象徴は治療や<自己>の個性化に欠かせない。
あらゆる対立は本質的に和解不可能である。だが、どんな組み合わせであれ、二つの対立物の間の葛藤は緊張を生み、その緊張に促されて、心はその双方を超越する第三の可能性を追求する。対立が必然的にもたらす緊張に堪えることさえできれば、問題はひとつ上の次元へと移る。
我々の悩みの奥には、対立物の葛藤が隠されていたりします。
それは本当に悩ましいのですが、それが人間を成長させてくれもするし、危機から脱出させてくれもする。
そして、そこに象徴は、深く関わっているのです。
人を何かに導こうとする存在が…
次回は夢について語りたいと思います。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
では、また次回に…
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