【第三章 コンプレックス】
さて、今回は「コンプレックス」についてです。
コンプレックスと聞くと、何を連想されるでしょうか?
おそらくは、「わたしは○○ができない」とか「△△が上手じゃない」、「みんなと比べて、わたしは××だ」とか「□□を持っていない」、そういうイメージではないでしょうか?
こういうのは、実は、「劣等感」と呼ばれるものです。劣等感とは、自分が他者より劣っているという感情。
ここで、“事実”ではなくて“感情”となっている点も、興味深いですね。他者より劣っている事実ではなくて、他者より劣っているという感情。ただ、感情だけに、心にズンとくる。
と、それはともかく、上に挙げたものは、実は、ユングの定義したコンプレックスとは、ちょっと違うものなんですね。
では、なぜそうなのか、どういう点が違うのか、それらも含めて、見ていきましょうか。
1.コンプレックスとは?
「コンプレックス」を辞書で引くと、以下のように書いてあります。
コンプレックス【complex】
[1] 劣等感。
[2] 〔専門〕 心 精神分析の用語。強い感情やこだわりをもつ内容で、ふだんは意識下に抑圧されているもの。心のしこり。観念複合(体)。エディプス-コンプレックス・劣等コンプレックスなど。
(三省堂「大辞林」より)
[1]に書いてあるのが、一般的なイメージですね。日常会話などで使われるコンプレックスです。一方、[2]に書いてあることは少し違うでしょ? 大きな差は「ふだんは意識下に抑圧されているもの」という部分。
「わたし、○○がコンプレックスなんだ」と言う場合、意識されているわけですね。例えば、数学が苦手だとか、足があまり速くないとか、友達同士でそう言い合ったりするような場合、ある程度は意識されているわけです。
ところが、[2]のような意味を持つ場合、何らかのそれは普段は無意識に抑圧されており、意識化されません。気軽に「○○がコンプレックスなんだ」とは言えないような代物です。しかも、「強い感情やこだわりをもつ内容で」とあるように、それが何かの拍子に意識に現れようとする時、強い感情やこだわりといったものが、同時に現れるのです。
それが何かの拍子に意識化されようとする時、カッとなったり、訳が分からなくなったり、猛烈に否定したくなったり、そういうことが起こるわけですね。穏やかに、「わたし、○○がコンプレックスなんだ」と、言えるような状態ではなくなるのです。
このように、コンプレックスの特徴としては、普段(他のことなら)スムーズにいくようなことも(特定のそれに対しては)スムーズでなくなる、といった点があります。あるいは、一見スムーズなようでも、何かに固執している傾向が現れたりする。穏やかさを装っても、奥に激情が見え隠れしたりする。
ある人が強い感情を伴なった何らかの「それ」を体験したとします。「それ」が処理され、流されてゆけば、それでいいのですが、処理されないと、そこに残ることになる。心の底に残される。心の底に、強い感情を伴なって、残るわけです。これがやがて意識活動にも影響を与えてくるんですね。
そういうのは心の底の方にあるので普段は意識されないのですが、そこに「引っかかる」ものが出る場合があるのです。「引っかかり」があるものが目の前に提示された場合、目の前のそれと心の奥のそれが引っかかって、影響が出てくるわけです。(あくまで、ものの例えですが)
特定のそれに触れる時、何だか、普段とは違った感情が出てくる。カッとしたり、ボヤっとしたり、徹底的に無視したくなったり、混乱したり、そいういうおかしなことが起こってしまう。
こういうことがあると、はじめは「あれ?」と思うかもしれません。また、何度か続くと、第三者も「おや?」と思うかもしれない。しかも、注意深く観察すると、そこに何らかの感情的なまとまりや塊があるのが分かる。
なんだかよく分からない感情が、少なくないエネルギーを持って、そこに関与する。
「引っかかり」というものを考えた場合、やはりまったく関係ないものは、引っかからないわけです。素通りします。逆に、一見関係なさそうなものでも、「感情のまとまり」という意味で関係してくるものは、引っかかってくるわけですね。「何らかの感情によって結ばれる」そんな関係ができてしまっている時は、引っかかってくる。どうも、そういう仕組みがあるようです。
この引っかかりが関係してくる時、普段とは違う反応が出たりする。
例えば、Aさんが□□に関連して強い感情を伴なう経験をし、しかもそれが心の奥に残っているとします。普段、Aさんは温厚な人柄なのですが、□□のことになると人が変わったようになる。猛烈に罵ったり、徹底的に否定したりする。
こういうことは意外とよくあるのではないかと思うのですが、そういう時は、目の前の□□と、過去に□□に関連してAさんが経験した何かが、引っかかっているのだと仮定できます。
もちろん、目の前の□□とAさんの間には強い感情を伴なうような関係はありません。だから、本人も周囲も、「おや?」と思う。しかし、目の前ではない心の奥にある、□□に関連したAさんの経験とは、大いに関係あるのです。経験というぐらいだから、関係がある。目の前の□□という意味においては無関係なのですが、心の中にある□□という意味においては、関係大有りで、しかも、強い感情まである。
このようなややこしさがあるのです。
目に見えるのは、目の前の□□。でも、それは関係ない。関係あるのは、心の中の□□。それは第三者には見えないし、本人にしても、無意識にあるので、気づきようがない。
これがコンプレックスに影響を受けたときの、布置です。
だから、「目に見える□□」が「それに触れたときに湧き出る感情」と結びつかないので、本人も周囲も困惑する。奇異に思う。湧き出る感情に関係するのは、目の前のそれではなく、心の中にある、それと「引っかかり」を持つ、何かなのです。
例えば、以前、表紙の記事「奥にあるもの」で紹介した女性は、途中で「料理」というものに対し、たいへんなこだわりを見せ、攻撃もしました。しかし、話を聴いてゆくと、この人は何も料理を憎んでいないことが分かってきます。
このように、目に見える引っかかりやこだわり、激しい感情とは別に、その奥に何かが隠れているものなのです。目に見える「引っかかるもの」とは別に、「引っかかる先」や「引っかかる突起」みたいなものが、奥に隠れているんですね。
「関連している」のと「イコールである」というのは違います。時に、イコールの時もあるんでしょうけども、いつもそうとは限らない。イコールだったらスッキリするんですけど、イコールじゃないから悩ましくなるわけだし。
直接的には関係ない、しかし奥の方では関連のある、そんなものに接して普通じゃなくなるから、よく分からないし、悩むしで、困るわけです。
☆
このように考えると、特定の場所でうまくいかないとか、特定の相手を前にすると戸惑うとか、そういう時、問題となるのは実際の場所や相手ではなく、別の何かである、ということになります。
問題は、もっと別のところにあることが、分かる。
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さて、ユング心理学ではコンプレックスを「無意識内に存在して、何らかの感情によって結ばれている心的内容の集まり」という表現をします。また初期には、「感情によって色づけられた複合体」と呼ばれていました。
我々が正常な状態にある時、意識はある程度の統合性を持っており、まとまりを持った反応ができます。特に障害はなく、スムーズに行動できる。第三者から見ても、特に変わったところは見受けられない。ところが、そのまとまりが乱されることがありますよね。ユングはそれに注目したわけです。意識を乱すもの、意識の制御を越えて活動するもの、そこに光を当てた。
ところで、こういう経験って誰にでもあるでしょ? まとまりが乱されること。ある特定の場所ではうまくいかないとか、ある特定の人の前では普通じゃなくなるとか、いつもはそうでもないのにある状況では訳が分からなくなるとか、心を乱す何かが出てきて困るとか、しかも理由が思い当たらない。その場所や人が嫌いなわけでもないし、直接的な失敗も思い当たらない、何かされたわけでもない、だけどそうなってしまう。そういう時は、何らかの「引っかかり」があるんだなぁ、ということになる。その引っかかりを有する、コンプレックスの存在が見えてきます。
しかし、それは心の奥にあるだけあって、直接には見えません。だから、ややこしいんですね。訳の分からないまま、表に出る現象に苦しんだり、混乱させられたりする。目には見えず、問題ばかり起こされるわけですから、まるでオバケや幽霊のような存在です。あるいは、昔の人はこの現象を理解するひとつの手段として、そのような捉え方をしたのかもしれません。
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コンプレックスは「無意識内に存在して、何らかの感情によって結ばれている心的内容の集まり」と呼ばれると紹介しました。つまり、感情によって結ばれた「まとまり」を持つわけです。ただ、何の理由もなくこういう「まとまり」あるいは「カタマリ」が生じるわけではなくて、それが生じるに足る「核」があってはじめて、生まれることになります。度々「引っかかり」という言葉を出しましたが、「引っかかりの原点」みたいなのがあって、はじめて生じるわけです。
川をイメージしてください。川に何もなかったら、流れはスムーズですよね。問題なく流れる。でも、そこに石を放り投げたとします。すると、その石を始点として、いろんなものが絡まってくるでしょう。川に流れてくる藻や枝などが、だんだんと絡まってきます。それははじめ、極々小さなものです。気にもならず、流れにあまり影響を与えません。しかし、日が経つにつれ、それは大きくなります。はじめ小さなものが絡まり、だんだんと大きなものが絡まるようになって、やがてそれ自体が大きくなり、更にいろんなものが絡まるようになって、どんどん大きくなります。そしていつの日か、流れに大きな影響を与えるようになるかもしれません。
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感情というものも流れを持つのではないか、と私は思います。大きな流れ、小さな流れ、急な流れ、穏やかな流れ、激しい流れ、静かな流れ、いろいろとあるでしょう。そして、普段はある程度穏やかに流れるのではないかと思います。いろんな感情がありながら、問題なく流れる。それが怒りであれ、喜びであれ、そういうものは流れてゆきます。ところが、時に、あまりに強い経験をした時など、それは流れずに、底に残ります。いつまでも残る。しかし、残りながら、それは底にあるので、普段は見えない。上から見る限り、見えもしないし、さほど流れに影響も与えない。
ところが、前述のように、この底に残ったものに、いろんなものが絡まってくるわけです。川だと藻や枝が絡まったのが、心の場合、流れてくる感情が絡まってくる。それも「引っかかりのある」感情が絡まってくるんですね。「何らかの感情によって結ばれるもの」が絡まってくるわけです。そして、どんどん大きくなり、流れ自体に大きな影響を与えるようにもなるし、目に見える問題も生じてくるわけです。
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その核になるのが、耐え難い経験といったもの。意識化が困難な体験です。最近は「トラウマ(Trauma)」という言葉がよく使われるようになりましたが、「個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験」というのが核になる。
こういうものは痛ましくて意識化が困難なわけですから、意識の奥の方、無意識のほうに追いやられます。そうでもしないと心が持たないわけです。自我が保てない。ただ、そうするといつまでも処理されないことになる。川底に石が残るように、痛ましい経験が、意識の奥、無意識に残ってしまう。多少の嫌なことだと流れていくのが、あまりに大きいので流れないのです。
しかも、その痛ましい体験には感情が付きまといます。怖いとか、心細いとか、不安だとか、そういういろんな感情を伴う。そして、そういったものも体験と共に無意識下に抑圧されるわけです。流れずに残るんですね。これが「引っかかり」となります。すなわち、その感情に類似するものが、度々引っかかって、どんどん吸収される。絡まってきて、大きなカタマリとなってゆきます。関係ないものは流れますよ。でも、引っかかりを持つものは流れずに吸収される。
このようなものが大きくなって、意識活動にも影響を与えてくるわけです。しかも、その中心は見えない。流れの乱れが見えるばかりで、その奥にあるものはとんと見えません。
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ここで「重力」と「カテゴリ」というものがキーワードになってくるのではないかと思います。
重ければ重いほど重力は強くなり、いろんなものを引き寄せるわけでしょ。それと同じで、その経験が重ければ重いほど、いろんな感情を引き寄せやすくなる。核となる感情も大きく、いろんなものを引き寄せる。
また、カテゴリに関連するものも、影響を受けやすい。例えば、「男」というカテゴリに属する者より重い経験をした場合、それ以後、同じカテゴリに属する者と接し、しかもその時と同じような感情を伴なうような場が形成された時、意識が乱される。
核となる経験は重く強いものです。普通の体験ではない。だからこそ、核となる。ところが、それに引き寄せられるものは、必ずしもそうではない。むしろ他人からすれば些細なことだったり、一般的なものだったりする。しかし、核となる経験が重い場合、些細なものも吸収してしまうんですね。引き寄せられる。
例えば、「男性から怖い目にあった」という重い経験がある場合、それ以後、「男性からちょっと怖い目にあう」ということまで取り込んでしまう。他の人なら気にしない、そんなものまで吸収してしまう。種類の違うことまで取り込んでしまいます。種類が違うというのは、例えば、「叱られた」ということが、他の怖いことと混同されたりする。他の人なら問題にならないことも、問題となってくる。
ただ、ここで注意しなければならないのは、それが悪いというのでは決してない、ということです。悪いも何も、むしろ被害者なんですから。そうなってしまうような経験をしたということ。だから、悪いなんてことはありません。ただ、現実問題として、困ったことが生じているだけです。
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河合隼雄さんによれば、ユングはコンプレックスの核となるものは、このような「自我によって受け入れがたかったため抑圧された経験」と、「その個人の無意識のなかに内在していて、いまだかつて意識化されたことのない内容」の、二通りあるそうです。(ユング心理学入門P.70より)
ということは、コンプレックスの核にあるのは、必ずしも重い経験とは限らないことになります。
ここに注意が必要ですね。また、重い経験があるにしても、それは意識化が困難な経験であるわけですから、簡単には見えてこないわけで、その辺の注意や配慮も必要になるように思います。そして、コンプレックスには複雑な感情というものがつきものであることも忘れられません。仮に外傷体験があるにしても、そこにある感情は怒りだけとは限らないのです。その相手が関係の薄い人なら別ですが、関係のある人への感情というのは、そうそう割り切れるものではありません。また、割り切れないから複雑化し、いろんな問題が生じるのです。
話を戻すと、前者はもとより、後者においても実生活に問題が出るわけですから、それは困ったことです。しかし、「いまだかつて意識化されたことのない内容」というのは、その人にとって助けになる可能性も秘めているんですね。というのは、前章の「タイプ論」でも書いたと思いますが、人間はある一方向のみに突き進んでばかりいると、それには精通するものの、同時に問題や欠損を抱えることになるのです。
Aという方向に進むということは、Bという方向からは離れることになるかもしれません。Aばかりに注目することは、その反対にあるBを見ないことになったりします。Aばかりに一生懸命になることは、Bを疎かにすることになったりするのです。
それでも人生うまくいくこともあります。問題なく過ごせたりもする。でも、人生のある時点では、やはり、Bを見てこなかったり、蔑ろにした問題が生じてしまうものなのです。例えば、「中年の危機」といわれるものがそれに当たります。どこかで、ツケを払うことになる。
で、そういう時は、今まで見てこなかった、関わらなかった、生きてこなかった、そういうものに関係していかねばならなくなる。それを経験し、自分の中に取り込まねばならなくなってきます。
そういうものとも、コンプレックスは関係しているんですね。
「その個人の無意識のなかに内在していて、いまだかつて意識化されたことのない内容」
そういうものがコンプレックスの問題としてだんだんと見えてくるんです。「困った問題だ、どうしよう」という風に、正体不明ながら取り組まざるを得なくなり、それを通して、だんだんと「無意識のなかに内在していて、いまだかつて意識化されたことのない内容」が見えてくるわけです。そして、その経験を通して、それに注目もするし、関わることにもなるし、それを生きることにもなるんですね。
ですから、コンプレックスというと否定的なイメージになりがちですが、必ずしもそれだけではない。もちろん、困るし、つらいし、悩ましいのですが、こういった点に注目すると、それだけではないことが分かってきます。むしろ、行き詰った人間が成長するための、糧になり得るのです。
第2節に続きます…
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