【第三章 コンプレックス】
5.コンプレックスとの対決-2
<コンプレックスの魔力>
コンプレックスが我々を困らせる点は、“それが何であるか認識させない”という点にあります。
もっとも、それはもともと自我を守るためであって、その働きはなくすべきではないし、コンプレックスを悪者にするわけにもいきません。ただ、ある部分によいものが他の部分にとってよいものとは限らず、ある時点でよいものがいつまでもよいものとは限らない、そういうすべての物事についてもいえる理(ことわり)が、そこにある。
さて、このような正しく認識できない状態に陥った時、人がどうなるかというと、いろんなものを混同し、例えば、カテゴリですべてを判断するようなことをしてしまう。
コンプレックスにより実際のストレス源は隠され、それに似たものや同じカテゴリのものを、ストレス源だと認識する。あるいは、実際の怒りの源は隠され、似たようなカテゴリに属するものに、怒りが向けられる。
もっとも、そういう風な投影が起こるということは、投影先にもそれに足る要素があるということで、上の場合、それは実際にストレスを与えていたり、怒らせることをしたりしているのでしょう。ただ、コンプレックスと投影の働きにより、それ以上のものを負わせることになる。というのは、目の前のそれ以上にストレスを感じ、目の前のそれ以上に怒りを感じたりする。隠されている本当の源の分まで、目の前のそれが背負わされるのです。
☆
脳は、認識を効率化するために、カテゴリに分けたり、記号化したりするようです。
[リンゴの画]を見てリンゴだと思ったり、[猫の絵]を見てネコだと思えるのも、そのおかげ。本物のリンゴや本物のネコはもっと複雑ですが、記号化したものを見て、それだと思うことができる。
ただ、本物はどうか? となると、いろいろ考えちゃいますよね。
本物のリンゴには、いろんなリンゴがあります。大きさ、色、味、匂い、手触り、1個1個のリンゴは、大まかには似ているにしても、それぞれ違った詳細を持ちます。ネコちゃんだって、いろんなネコちゃんがいる。
ところが、物事を記号やカテゴリで見てしまうと、その詳細までは目に入らないことになります。
実際は無視され、記号やカテゴリによる分類だけをしてしまう。
ああ、リンゴか、と思いながら、実際はどんなリンゴかは見なくなってしまう。ああ、ネコか、と思いながら、実際はどんなネコちゃんなのか見ないままになってしまう。
これと同じように、コンプレックスに支配されると、ああ、○○か、と思うものの、実際はどんな○○なのかを見ないままになってしまう。というか、見れない。
だから、実際は別にして、ひどく怖くなったり、実際は別にして、ひどく腹が立ってきたり、というようなことが生じてしまいます。
☆
本来、怖がる必要のないものまで、怖くなる。
本来、そんなに怒ることでもないのに、ひどく腹が立つ。
いろんな感情が、実際とは別に、出てきてしまいます。
また、その影で、本来向けられるべき相手には、向けられなくなる。
前に述べた“本当のことを言う”ってことも、この辺と関係するんですね。
<感情という水>
前に、コンプレックスを水の中の石として表現しました。今度はコンプレックスに関係する激しい感情を、水として例えてみましょうか。
コンプレックスに関係するような体験は、激しい感情を伴なう体験です。それを水に例えるなら、津波のようなもの。そんな激しいものが来たら、水路やその周辺は大変なことになってしまいます。人間の場合、自我がどうにかなってしまう。
そこで、防衛の機制を使い、水をどうにかします。大量の水が流れないように、蓋をしたり、方向を変えたりする。それにより、水路は保たれる。
しかし、ずっと蓋をしていたり、ずっと方向を変えたままだと、今度は本来の水が流れなくなる。本当なら泣くところ、怒るところ、笑うところ、それぞれで感情がうまく流れなくなる。
また、見方を変えると、水の流れはエネルギーとして使えることが分かる。ということは、それがないと、エネルギー不足になってしまいます。それでいて、他の部分で、エネルギーが使われてしまう。
大きすぎて困る、場違いでも困る、本来のところになくても困る、全然ないと活力がない。これらを総合して考えると、要はうまく流すことが大切であると分かります。流さないのでもない、方向を変えるのでもない、要は、自然な流れを取り戻すことが大事なのだと、分かってくる。
<夢の中に現われるコンプレックス>
コンプレックスは目に見えません。つかみ所がないものです。そんな実体のないものを見るには、どうしたらいいでしょうか?
実は、我々は自分の中にあるものを直接見ることができない代わりに、それを何かに映して見ることができます。自分の姿を鏡に映すように、自分の中にあるものを、目の前の何かに映すことができます。
そのひとつが前述の投影であり、そのような作用により困ったりもしますが、そのおかげで自分の内部にあるものを把握することもできる。
そして、自分の中にあるものを見るもうひとつの手段が、夢なのです。
夢の中で我々は、ヘンなことを言われたり、不可思議な体験をしたりする。それを現実に当てはめても、よく分からなかったり、ひどく腹が立ったりする。
が、夢の登場人物が、そのまま現実の誰それさんではなく、自分の中にあるものだとしたら、どうでしょう。
例えば、夢の中の登場人物が、「汚いものを綺麗だと言った」としましょう。それを現実に置き換えた時、「そんなことはない」「それは現実には汚い」「あの人は何を言っているんだ」「考えられない」、そうなってしまいます。でも、そうではなく、その汚いとされている何かに象徴されているエッセンスに注目する時、ハッと思うものが、出てくるかもしれません。
河合隼雄先生が著書「コンプレックス」の中で紹介してくれている事例では、「横領した社員を評価する社長」というモチーフが出てきます。これを現実にそのまま当てはめると、不可解なことこの上ないことになる。横領した社員を褒めるなんてことは、現実にはありません。
でも、「横領」を「社長から何かを奪う行為」とした時、そこには別の側面が見えてきます。
夢を見た人は、独立することに罪悪感を感じていました。それは今までお世話になってきた社長に対する背徳だと考えた。いや、意識して考えるというよりは、漠然とそう捉えていた。今までの恩を忘れて独立するのは、横領にも似た行為だと。
しかし、夢の中の社長は、それを問題にしませんでした。実際の社長がどう思うかは分かりませんが、夢の中に出てきた社長は、それは必ずしも悪いことではないと、教えてくれたのです。
少し見方を変えると、社長を権威者とした時、夢見手はそれに従う人でした。そして、独立するというのは、夢見手が新たに、権威者になることを意味します。それを大仰に言うと、今までの王国から出て、新たに王国を築く、ということになる。
その中には、前王を裏切って新王になるといった意味も含まれるので、夢見手には罪悪感もあったのでしょう。しかし、自分の王国を築くという行為を、悪とできるかどうか。その中に、破壊や悪の要素があるにしても、それですべてを語れるかどうか。
そういうことを、夢が教えてくれたとも、取れます。
☆
夢の中の人は時に、キレイなものを汚いと言い、価値あるものを価値がないと言う。また、その反対を告げたりもする。これは一面的な自我への補償作用とも取れ、「それだけではない面」や「見逃している面」を、夢が教えてくれている、とも取れます。
コンプレックスによって認知できていないものを、自然なカタチで提示しようとしてくれている。
ただ、無意識的なものは言葉を使えないので、イメージで語ることになる。夢の中の登場人物は、いわば翻訳者で、言葉が使えない無意識の意志を、どうにか場面や行為、全体像で表そうとしている。だから、言葉どおりでは分からず、それでいて、奥に意味があったりする。
河合隼雄先生の本から引用させてもらうと、「家具のない空っぽの部屋」が「温かい家庭のない家」につながっていたりする。
☆
今一度コンプレックスの性質を、体験をキーワードに考えると、大きすぎる経験をシャットアウトする点が挙げられます。自我を危うくするような大きな経験を、遮る。大きな感情の波を、遮る。ただし、そうすることで、感情は流れず、後でややこしいことが生じることになる。
そうなると、準備が整ってきたら、感情を流すことも、はじめなければならない。体験でいうなら、追体験する必要が生じる。それによって、今まで認識できなかったものを、認識できるようにもなる。
その追体験に関わるものが、夢だともいえるでしょうか。
これは別に、フラッシュバックに似た、それそのままを夢に見る、ということだけではなくて、上に書いたように、まるで夢の登場人物によって翻訳されたような、夢の表象を通して表現されることもある。それがコンプレックスにより欠けていたものを、追体験させ、教え、だんだんと馴染ませてくれる。
☆
このようなことを考えてゆくと、夢を深めることによって自我を改変できることが、分かります。つまり、夢を通じて、今迄から脱却し、新しい自分になれると。生き方を変えられることが、分かってくる。
だから、夢と現実の整合性に目を奪われたり、夢の解釈に力を入れるというよりは、夢を通じて自分をどうして行くのか? そういった点に注目した方が、いいのかもしれません。
自分はどう生きるのか? それこそが、夢と現実をつなぐ鍵なのかもしれない。
<人生を生きる>
コンプレックスの解消とは、コンプレックスを単に消し去るということではなく、生き方を変えること、いうなれば、新しい生き方をすることなのかもしれません。
それは偉人伝のような輝かしいものとは限らず、平凡であったり、些細なものであってもいい。
ただ、そこには、以前とは違う自分がいるはず。あるいは、以前とは違う、相手がいるはずです。
コンプレックスは人を苦しませもしますが、同時に、その先には変容が待っていたりする。
それも、人と人、みんなの変容が…
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