【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング


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このページでは、「やさしいユング心理学講座 第三章 コンプレックス」を紹介します。
第4節「コンプレックスとの対決-1」


【第三章 コンプレックス】




4.コンプレックスとの対決



今まで書いてきたことを考えると、コンプレックスの困った点というのは、

・認識を妨害する。

 (a)→目の前のものと感情を結び付けるが、感情は目の前のものとは別なものにつながっている。

 (b)→目の前のものに自分の中にあるものを投影し、実際よりも大きなものとしてしまう。
   (実際より過小評価したり、疑ったりする場合も)

 (c)→自分の中にあるものに気づかないように、目の前のものも無視する。

というような点があって、それによって自我の統制が乱されます。自分でも奇妙だと思う態度になってみたり、コントロールできない感情に悩まされたりする。
もともとは自我の統制を乱さないために防衛した結果、こうなるのですが、実際を隠し続けるのは無理なので、どうしても乱されることになる。それも、訳の分からないまま、不可解さだけが残る。


(a):例えば、ある存在に傷つけられたとする。ただし、自我はそれを認識できない。個別に認識できないので、同じカテゴリのものに対し、感情がぶつけられる。コンプレックスが活性化する対象に出会うと、怒りや嫌悪感が生じたり、硬直したりする。あるいは、惹かれることも。

(b):人は自分の内部にあるものを見ることができない。自分の中にあって処理されないものは、相手に投影されやすい。したがって、コンプレックスを持つ人は、他者のコンプレックスに敏感。なぜなら、自分の分まで他者の中に見出すから。

(c):コンプレックスは自我の脅威となるので、防衛機制などによって認識しないようにされる。抑圧、反動形成、同一視など、いろんな手法で、歪曲されたり無視される。防衛のメカニズムは、正確に把握することを嫌います。そのために、目の前の現実を無視しようとする。



コンプレックスの核が認識を妨害するものであると仮定すると、症状を何とかするには、この核をどうにかしなければならないことが分かります。意識を乱す感情というのは、感情それそのものが悪いのではなく、核により、目の前のものに感じている以上に感情を大きくさせられるのが問題。あるいは、目の前のものと別のものが混同されるのが問題。

何かを怖がるにしても、怖いという感情は悪いものではありません。むしろ、無いと困ります。問題は、目の前のものはそんなに怖くないのに、なぜかひどく怖くなってしまうこと。関係ないところで怖くなってしまうことです。


感情について考えると、前に書いた川の例を使うなら、目の前のものに触れて流れてくる感情はそれほど大きくないのに、川の底に沈んでいる石(コンプレックスの核)に絡み付いている同じような感情に引っかかって、より大きなものとして感じるから、混乱してしまいます。

この場合、川に入って石を、そして石に絡みついたものを、取り除けばそれで終わります。ただ、人間の中にあるもの、それも心の中にあるものは、外科手術のようには取り除けません。目には見えない、手にはとれないものなので、通常の除去はできない。

しかし、我々は自分の中にある感情を、日々溜め込んでいるわけではありません。溜め込んでいる部分もあるのでしょうけども、多くは流します。

では、どう流しているのでしょうか?


腹が立った時、我々は怒ります。時には口に出す、時には表情に出す、態度に示したり、文章にしたり、行動で示したり、誰かに訴えたり、そうやって、外に出す。そういう手段で怒りを具現化し、外に流しだしているわけです。

嬉しい時は笑うし、悲しい時は泣く、喜びを表現したり、愛情を表現したり、嫌悪を表現したりと、そうやって、中にある感情を、何らかのカタチで外に出しているのです。

ただ、コンプレックスに関するものは、それができない。

核となる経験は自我を傷つけかねないものなので、心の保護装置が働き、認識させないようにする。ということは、そこにある感情も認識されない。自我を傷つけかねないから、ということは、強い感情が伴なう。伴なうのだけれど、無いことにしなければならないから、感情も一緒に隠される。流れることなく、隠される。また、その流れ出ない感情は、似たような感情を絡めとり、どんどん大きくなる。

こういう布置が、コンプレックスにはあるようです。



では、コンプレックスの解消ということを考えながら、整理してみましょう。

・コンプレックスを解消させるには、核となるものを外に出す必要がある。
  ↓
・外に出すとは、それを何らかのカタチで表現すること。
  ↓
・また、表現するためには、ある程度それに気づかなければならない。


ある人にとって、堪らないことがあったとします。堪らないのだけれど、それを口に出したり態度に出したりするのはタブーだと思われ、してこなかった。してこなかったといっても、それを意識してそうしたのではなく、無意識的にそうなっていた。

人生のある時期で、その我慢が限界を迎える。外に出すことのない感情が、溜まりに溜まって、もうこぼれ出しそうになる。個人的無意識の範疇を越えて、自我の領域まで、迫ってくる。

自我はその圧迫を受けて、驚いてしまう。日常生活の中で不可解なことが生じ、困ってしまう。


例えば、ここでこの人が、カウンセリングを受けたとします。当人は、思うことをつらつらと話す。カウンセラーは、それを遮ることなく、聴き続ける。“話す”ということ、これが、表現すること。つまり、外に出すということにつながります。

とはいえ、簡単に核心が出てくるわけではない。その過程では、自我の防衛機制により、誰かにコンプレックスを投影し、攻撃するかもしれません。いや、まず訴えるのは、症状でしょうか。眠れません、特定の状況で混乱します、自分で自分がコントロールできません、訳の分からない感情に戸惑います、なぜか○○できないのです、前にできていた△△ができなくなりました、等など、症状を訴える。

次には、家族や生い立ちが語られるかもしれません。あるいは、学校のことや会社のこと、故郷のこと、友達のこと、趣味について、いろいろ出てくるのでしょう。そして、今までのことを考えると、この“いろいろ出てくる”ということの素晴らしさが分かる。

こういうのは、コンプレックスの核とは、何ら関係のないことかもしれません。でも、そうやって話すうちに、“外に出す”練習をしているのだとも、とれます。いわば、詰まったパイプを掃除するように、流しやすいものから流して、流れを確保する。ちょろちょろでもいい、多少乱れがあってもいい、大事なことは、少しでも流すこと。流れをだんだんと回復させることです。

そして、準備が整った時、コンプレックスに関することが語られるのでしょう。ついに、本丸が姿を現すのです。


それはある意味では、「本当のことを言う」ことです。しかも、単なる本当のこと、ではない。「言うに言えなかった、本当のこと」「認識するのがはばかられた、本当のこと」です。

言うに言えなかった、それ以前に、それを意識することがはばかられた、考えることさえ罪だと感じた、そのようなものに、ついにアプローチすることになる。



しかも、コンプレックスは人と人の間で形成されるものです。つまり、相手があるということ。それはカウンセリングという密室で行なわれるかもしれませんが、コンプレックスの対決ということを考えると、そのクライマックスには、“相手にぶつける”ことになる。そうならないまでも、それに近しいことになる。

繰り返しますが、単に本当のことを言うのではありません。言うに言えなかったこと、考えることさえはばかられたこと、ある集団でタブーとなっていたこと、それを生きた相手にぶつけるのです。(直接的にか、間接的にか、そういう差はあるかもしれませんが)

ある側面では、こんなに痛ましいことはない。痛ましいから、隠されてきた。先延ばしになってきた。それが「時が来た」と言わんばかりに、実行されるのです。

それは自分にとっても、相手にとっても、また周囲の者にとっても、痛ましいことなのでしょう。だから、疲弊するし、寝込むし、泣きたくなるし、ひっくり返りそうになるしと、たいへんなことになるかもしれません。

ただ、それによってやっと、中に溜まって絡まっていたものが、外に流されるのです。



言葉は時に、凶器になり得ます。だからこそ、そうならないように、隠すことになる。

しかし、形成された不自然を正すには、その凶器を泣きながらでも外に出さねばならない時もあります。

ある人は、そんな凶器なら出さない方がいい、と言うかもしれません。しかし、凶器を出さない時、それは中で、その人を大いに傷つけ続けるかもしれない。見えないところで、切り刻み続けるのです。



「本当のこと」と言うのは、誰にとっても痛ましいものです。誰しも、「言われたくない本当のこと」というものを持つ。また、我々はそれをある程度察し、それには触れないように務めます。何せ、自分にもそれがあるからです。

でも、本当のことと勝負しなければ、どうにもならない時もあります。放っておいた方がいい時もあれば、放っておいたら危ない時もある。

ひょっとすると、コンプレックスというのは、その両方に関係しているのかもしれませんね。

そっとしておいた方がいい時は、隠すことを優先する。しかし、放っておいたら危なくなる前に、自我に影響を与えて、危機を知らせる。

コンプレックスは言葉を持たない。だから別の方法で、何かを伝えようとする。それが自我にとっては、悩ましいこととして受け取られる。

そういう面も、あるのかもしれません。



「本当のことを知る」というのは、「自覚する」ということ。

しかも、誰かが自覚するとか、誰かを自覚させるとか、そういうことではない。それに関わるみんなが、それぞれ痛みを経験しながら、自覚する。みんなが、それをやるのです。自分の分を、引き受けるんです。

今まで不自然だったり足りなかったりした、○○になってゆくのです。

記号として○○なのではなく、真に○○になってゆく、そういうことが望まれるんですね。



前節で述べた、コンプレックスの状態において、“[4]自我とコンプレックスとの間に望ましい関係がある状態”と書きました。

これは、どんな状態でしょうか?


コンプレックスに悩まされる時、多くの場合、我々はコンプレックスが消え去ることを望みます。感情ごと、コンプレックスがどこかにいなくなってほしいと願う。あるいは、コンプレックスに関係する人間ごと、切り離そうとするかもしれません。

ただ、コンプレックスは外には捨てられないし、関係する人間もまた、切っても切れない間柄で結ばれていたりするので、これは叶いません。

このように、我々は切ることに一生懸命になるのですが、それはどうもできそうにない。また、コンプレックスを切り離せば、二重人格に示されるような自由度を与えることになりかねない。それはすごい脅威です。

そんなことを考慮すると、望ましい関係というのが、切れた関係ではないことが分かります。この節で書いてきたことを総合すると、それは、対話する関係、ある程度のつながりを持って交流する関係。そして、そこには、“本当のことを言う”ということが含まれる。

中には、本当のことを言うなんて当たり前だ、と思う人もいるかもしれません。でも、ここでいう「本当のこと」は、そのような容易なものではなく、心に抑圧してしまうほどのものです。言うに言えない、本当のことなのです。

おっと、これは人対人の話ですね。これを自分の中に当てはめたものが、コンプレックスとの間の望ましい関係、です。自分自身に対し、本当のことを言うのです。今までなかなか言えなかった、本当のことを言う。なかなか認識できなかったものを、認識する。しかもそれを、人と人との関係を通して、認識するのです。

これは相当、難しいことですね。



このように、自我がコンプレックスと望ましい関係を構築しようと思えば、ある程度の接触やつながりを持たねばなりません。

それが身体の外にあるものであれ、中にあるものであれ、その関係を切るのではなく、つながっていなくてはならない。我々は切り離したい切り離したいと願うのですが、そうではなく、それを何とかして自分に、自分の人生に、組み込むことが望まれます。

そのままコンプレックスに同化するでもなし、かといって反発するのでもなしに、その有りようを考え、自身に組み込む。統合という仕事が待っています。



人は悩んでいる時、“変わる”ことを望みます。地獄のような苦しみから逃れることを、望む。今が地獄だと思えば当然、現状が変わることを願います。

しかし、それは心であって、“していること”となると、それとは一致していないことが多いようです。つまり、変わりたい変わりたいと願いながら、態度や行動という面では、一向に変わろうとはしない。

ただ、これは責められるものではありません。だって、みんなそうなのです。人間誰しも、どこかの部分で、そうしてしまうものです。苦難の末にそれを卒業した人以外は、ですね。また、卒業した人にしても、勝負して卒業するような人は、それに人一倍苦しんだ人だと言えるでしょう。



さて、“変わる”とは、何でしょうか?

変わるとは、ある意味では、以前を壊すことです。

心地好かったもの、前は正しかったもの、何の疑問もなく、また、助けにさえなっていたもの。それを壊す。何かマズイ部分があるにしても、それだけではないもの。場合によっては、恩さえあるもの。頼りになったもの。それや、それとの関係を壊す。だから、心的負担は大きい。壊すことに抵抗が出る。

そのようなものに“本当のことを言い”壊す。



“安定”というものは、いいものです。みな、安定を目指します。

しかし、安定にも欠点があります。安定とは、落ち着いていて変わらないこと。イメージとしては、穏やかな状態にあって、変わらないこと。

そう、“変わらないこと”。

この世に完璧なものがない以上、この世にある安定の中には、不完全が含まれる。安定というのは、その不完全さも包含しつつ、落ち着いて変わらないことも意味します。

安定は、確かに素晴らしい。落ち着いて、平穏に暮らせるかもしれない。しかし、そこには放置される部分も、内包されている。見逃される部分、手つかずの部分、犠牲になる部分、そういう部分が存在する。

いわば、コンプレックスにまつわる症状というのは、それらの悲鳴なのです。安定の裏にある、溜まりに溜まったものが、ついに声を上げたような状態。それがコンプレックスの一面です。



集団であれ、個人であれ、何かを成すには我慢がつきもの。その我慢が積もりに積もれば、どうなるでしょうか?

自我は往々にして、我慢については無視しようとします。できるだけ考えないようにする。でも、それは危ないんですね。不眠不休でいれば、どうなるか? 飲まず喰わずでいれば、どうなるか? 悲しいことばかりだと、どうなるか? 我慢ばかりだと、どうなるか?

それに声を上げてくれるのが、コンプレックスの一面なのです。

コンプレックスは言葉を持たないので、いちいち説明はしてくれませんが、信号は送ってくれるんですね。



安定の影にある、我慢や犠牲。それは確かに、“仕方ないもの”なのかもしれません。安定を勝ち得るには、欠かせないものです。しかし、それは、頭の理屈なんですね。そして、それを溜め込めば、頭でない部分が、悲鳴を上げだす。

例えば、小さなストレスも積もり積もれば、かなりのストレスになる。それは心に負担を与える。頭は感じなくても、心は堪らなくなる。そしてある日、涙が止まらなくなったり、不安になったり、にっちもさっちもいかなくなるかもしれない。

身体だってそうで、小さな疲労もそれを解消することなく溜め続ければ、かなりのものになる。やがて身体は悲鳴をあげ、どこかに不具合を起こすかもしれない。場合によっては、深刻なことになってしまう。

頭はこういうことには無頓着で、どちらかというと安定のほうを優先したりする。でも、これらを考えると、それは時に、相当危険です。

こういう布置が、自分の中にも、そして相手との関係の中にも、生じるんですね。


参考記事:「シリーズ:うつ病」(ブログより)




我々は、いろんな名前を持っています。いわゆる戸籍上の名前の他に、父であったり母であったり、何かの役割だったりと、いろんな名前を持つ。

コンプレックスの伝えんとすることもまた、名前と関係するのかもしれません。

名前というのは、カテゴリのように、割り振られる面もあります。子が生まれれば自動的に父や母になるし、年齢が到達すれば成人になる。学校に入学すれば、小学生や中学生、高校生や大学生になる。辞令をもらえば、役職に就くことにもなるでしょう。

が、しかし、それはいわば札のようなものであって、“本物の○○”になれているかは、別問題です。

いや、上で述べたようなものはカタチとしてそうなっただけで、そこを出発点として、本物になることが望まれる。

そして、コンプレックスが伝えんとすることもまた、そこにある。コンプレックスは何らかの症状や問題を通して、本物の○○になることを望むのかもしれません。



本物とは何か?

それは、カテゴリや記号として名を持つことではなく、その名にふさわしい人間になることです。属性を得ることではなく、それそのものになること。

今まで見ようとしなかったものを見つめ、今まで欠けていたものを補い、それを誰かにやらせるのではなくて、自分でやる。

権威者は当人に任せ、当人は権威者に頼るのを止め、受け取る。そうやって、本物の○○になってゆく。

安定は時に、それを阻害します。権威者は譲らず、当人も頼るのを止めようとしない。その硬化した布置を破壊しようとするのが、コンプレックスの一部であり、人としてはトリックスターの役割を持つ人になる。





続きます…





【関連】
表紙の過去ログでコンプレックスについての記事を書いています――

「表紙の過去ログ・目次 シリーズ・コンプレックス」










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2009年09月23日:作成
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