【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング


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このページでは、「やさしいユング心理学講座 第三章 コンプレックス」を紹介します。
第3節「自我とコンプレックス」


【第三章 コンプレックス】




前回は、「心の壁と自我の防衛機制」について学びました。

人間には、心の安定を守るためのメカニズムが備わっています。でも、そのメカニズムが、認識に障害を与えることもある。本当のことは痛ましい。でも、すべてを隠すと、それはそれで不都合が生じる。

今回は、その認識する側について。それぞれの<わたし>である、<自我>についてです。



3.自我とコンプレックス




コンプレックスの4つの状態


河合隼雄さんは、著書「コンプレックス (岩波新書)」の中で、コンプレックスを4つに大別してくれています。


[1] 自我がコンプレックスの存在を殆ど意識せず、その影響も受けていない状態。

[2] 自我が何らかの意味でコンプレックスの影響を受けている状態。
  (意識している時と、無意識の時がある)

[3] 自我とコンプレックスが完全に分離し、その主体性の交代が行われる状態。
  (いわゆる二重人格)

[4] 自我とコンプレックスとの間に望ましい関係がある状態。


 (P75「コンプレックスの現象」より)



では、そのぞれの状態について、考えてみましょう。




[1] 自我がコンプレックスの存在を殆ど意識せず、その影響も受けていない状態。

これは大きなコンプレックスがないか、あるいは、あるにしても影響を受けていない状態。第1節の例えを借りるなら、感情の核に他の感情が絡まってない状態(川の中の石に藻や枝が絡まっていない状態)。あるいは、コンプレックスは壁の向こうにあり、完全に遮断されている状態。

何にしても、問題なく、自我は平静を保てます。ただ、「コンプレックスの存在を殆ど意識せず」ということなので、「コンプレックスが存在せず」というわけではありません。


ところで、ユングは興味深いことを述べています。

コンプレックスは心的生命の焦点であり、結節点である。これは無くなってはならないものである。なぜならば、コンプレックスがなくなれば、心の活動は停止してしまうだろう。
感情のない人間は、動けません。感情は、人間活動の動力源でもある。コンプレックスが感情に大きく関係する以上、そこには大きなエネルギーが内包されているのです。

我々は、我々を困らせる存在であるコンプレックスとの関係を完全に切ろうとしたり、消滅させたいと願いますが、仮にそれが可能になったら、エネルギー源を失うことになるんですね。



[2] 自我が何らかの意味でコンプレックスの影響を受けている状態。

これは、この章で散々述べてきた状態。

特定の場所や特定の人の前で、うまくいかない。落ち着かなくなったり、普段はしないような失敗をしたりする。うまく自分をコントロールできなくなったり、不可解な態度や行動をとってしまう状態。これらはある程度意識している場合もあるし、ほとんど意識してない場合もあるようです。

前節で述べた防衛機制が働くのも、この状態。例えば、誰かに自分の中にあるこだわりを投影し、猛烈に攻撃したりする。あるいは、同一視や反動形成などにより、極端な行動をとったりする。何にしても、現実が無視され、自身の中のこだわりが増幅されるので、方向は違えど、その程度が極端になるようです。



[3] 自我とコンプレックスが完全に分離し、その主体性の交代が行われる状態。

上の[2]のように影響を受けているというのは、関係がある状態です。つながっている状態。しかし、自我にとってコンプレックスに影響を受けるというのは好ましくない状態なので、それを何とか排除したいと願います。自我が強ければ強いほど、抑圧しようとする。コンプレックスにしてみれば、外に出したい。外に出して、解消したい。でも、自我は頑なに、それを拒む。その押したり引いたりの状態が、[2]の状態です。

これはホースをつまんだ状態に似ているかもしれません。コンプレックスは、蛇口から水を出そうとする。自我は、ホースをつまんで、水が出るのを遮る。それを続けると、どうなるでしょうか?

ホースの場合は、破裂しそうになったり、蛇口のところでホースが外れて、水浸しになったりするでしょうか。人間の場合でいうと、自我とコンプレックスとの関係が切れてしまうようです。(その前に、感情の爆発がありそうですが)

「何だ、切れたんならいいじゃないか」、そう思うかもしれません。でも、事はそんなに単純ではない。関係の切れたコンプレックスは、自由に動き回ります。自我が強さを保っている時は表に出ないかもしれませんが、いったん弱まると、顔を出す。主人格と入れ替わり、コンプレックスが主人格のように振舞う。また、関係が切れているので、主人格はそれに気づかない。そういうことになってしまいます。

我々はコンプレックスに悩まされますが、それはまだいい方で、関係が切れてしまうと、それ以上に勝手なことをされてしまうのです。



[4]自我とコンプレックスとの間に望ましい関係がある状態。

これについては、次節「コンプレックスとの対決」で書きます。




自我とコンプレックス


自我の働きは、目がそうであるように、前を見ることです。人間は、自分自身を見ることができない。鏡など、自分を映す物のおかげで自分を像として捉えることができますが、それなしに直接に、自分を見ることはできません。人間は、自分ひとりだけの状態では、己の全体像を把握することはできないのです。

コンプレックスは、自分の内側にあります。だから、余計に見えません。

自分の感情や考えていること、感じていることも目には見えないのですが、こちらはそれでも把握はできますよね。わたしはこんなことを考えている、感じていると、自我は捉えることができる。

ただ、コンプレックスは、前節の表現を使うと、壁の向こうにあるようなものなので、よく分かりません。分かるのはそれによって生じる影響だけであって、その根源はよく分からない。

まとめると、自我は自分の外側にあるものを捉えるのが得意で、外側にあるものを五感で捉える。また、内側においても、ある程度は捉えられる。ただ、ずっと内側のことになると、捉えられない。そして、コンプレックスは内側にあり、また防衛機制により隠されたりしているので、よく見えない。


これらの布置が、興味深い状態を引き起こします。

一つに、自我はコンプレックスに対しては無意識であり、それを捉まえることができない。ただ、コンプレックスにより生じた、感情なり、状態なりは、把握できる。そして、もっと把握できるものが、相手の状態というものです。

コンプレックスを持っている人は、相手のコンプレックスに反応しやすい。

人間は自分の中にあるものを見ることができませんが、相手がそれを持っていることには気づきやすい。自分が○○な状態だということは分かり難いけど、相手が○○な状態にあることは、容易に分かる。人は、自分がコンプレックスの影響を受けていることが、なかなか分からない。しかし、人がコンプレックスの影響を受けているであろうことは、比較的分かりやすい。

さらに、投影という機能を考えると、コンプレックスに強い影響を受けている人は、自身のコンプレックスを相手に投影するので、その人は、相手に中に実際より大きなコンプレックスを見出すことになる。相手の持っているコンプレックス+自分の持っているコンプレックス、そんな像を見出すので、強いコンプレックスを持つ人ほど、相手の中にコンプレックスを見つけやすいことになります。(「見つけやすい」といっても、そこに実際以上のものを見ているわけですが)


例えば、怒りを抑圧している人ほど、他者の怒りには敏感だったりします。あるいは、不安を意識しない領域に持つ人は、他者の不安に敏感です。

まあ、これくらいのことは誰にでもあるのですが、こういう状態がさらに進むと、現実認識が難しくなることもあるようです。というのは、怒りを内在する人が相手が怒っているのではないかと思ったり、疑いを内在する人が相手が疑っているのではないかと思ったりする。いや、思うことは誰にでもあるし、そんなに問題ないのですが、現実を無視して、そう確信することがある。こうなると、しんどいですね。

といっても、疲れたり、余裕がなくなったりした時、一時的にそうなることもあるでしょう。そういう時は、疲れをとったり、余裕を回復するのが優先されるのだと思います。


自我との関係を見るとき、コンプレックスの困った点はというと、現実認識に影響を与えること。実際以上に見せたり、実際以下に見せたり、ある時は、あるものを隠したり、無いものを見せたりする。

我々は目の前にあるものや自分の身に起こっていることに対し、イライラしたり、不安になったり、おかしいなと感じたりしてしまいますが、その根源は、自身の内側にあるのかもしれません。

自我の性質上、自身の内側を見ることはできず、その時に生じている感情なり感覚なりだけを捉えてしまいます。だから、目に見えている風景と感情や感覚を直結させてしまう。

しかし、本当に直結しているのは自分の中にあるものなので、そこに奇異を感じたり、不可思議さを感じてしまう。例えるなら、頭にガツンと来た。辺りを見回すと、向こうに一人立っているだけである。その時に、おかしいなと思ったり、あの人がやったのかと思ったりしてしまう。けれど、実際は、自分の頭の中からガツンと来ていると。

あるいは、誰かを前にすると、ドキドキする。でも、その誰かにドキドキするだけの理由がないので、おかしいと思う。これも、実は、その誰かにドキドキしているのではなく、別の何か、それも自分の内側にある何かにドキドキしているのだとすると、話は変わってくるでしょ?

コンプレックスが認識に影響を与えると、混同しやすくなるようです。あるものを愛しているのに、別のものを愛してると思ったり、あるものを憎んでいるのに(憎むようなことをされているのに)、別のものを憎んだり、あるものに関して生じた感情なのに、目の前のものに対する感情だと、勘違いしてしまう。

コンプレックスは、こういう性質を持つようですね。





第4節に続きます…





[追記]


人と人との関係もまた、コンプレックスとの関係に似ています。それを、コンプレックスの4つの状態に当てはめると、以下のようになるでしょうか。


[1] 自我がコンプレックスの存在を殆ど意識せず、その影響も受けていない状態。

意識しないモヤモヤなり確執なりがありますが、顕在化していません。外から見る分には、問題ない関係にある。


[2] 自我が何らかの意味でコンプレックスの影響を受けている状態。

相手を見るだけでイライラしたり、抑え切れない感情が生じる。あるいは、それを言葉や態度として現す。気に食わない相手を、何とかしたいと思う。


[3] 自我とコンプレックスが完全に分離し、その主体性の交代が行われる状態。

何かの拍子に、関係を切る。関係があった時は、目が届いていたのですが、関係が切れたので、相手が何をしているのか分からない。自分の知らないところで、相手は自由に何かをします。それが判明して、驚かされることもあるでしょう。


[4] 自我とコンプレックスとの間に望ましい関係がある状態。

それを乗り越えると、望ましい関係になるのですが、それは次章以降に。





【関連】
表紙の過去ログでコンプレックスについての記事を書いています――

「表紙の過去ログ・目次 シリーズ・コンプレックス」










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