第11回『自分は何者か? 本当の自分になる』
第11章「自分は何者か――本当の自分になる」
本当の自分になる
本当の自分になるということは、どういうことでしょうか?
スーザン・フォワードさんは、以下のように述べておられます。
親(や そのほかの人たち)の要求や意向に影響されず、自分自身の考えでものを考え、自分自身の感覚でものを感じ、自分自身の意思で行動している時、あなたは本当の自分になっている。
(P222)
これは、チェックシートになり得そうですね。
・それは、自分の意思だろうか?
・誰かに従わせられてはいないだろうか?
・誰かへの反発から来てはないだろうか?
あの人を悲しませないために、あの人の機嫌を損ねないように、そういう気遣いに大きく影響されてないだろうか? あるいは逆に、あの人に負けないために、あの人を懲らしめるために、あの人が憎いから、そういう想いに左右されてはいないだろうか?
本当の自分になるには、ある程度の不快を我慢しなければならない時があるという。
なぜなら、親が「あなたが本当の自分になること」や「あなたの本当の気持ち」を気に入らない時、彼らの不快感や責め立てる言葉、干渉などに、晒されるかもしれないから。
また、親と同じ意向だった時も、心のモヤモヤや反発心を、我慢しなければならない。それはあくまで「たまたま」であって、親の意向とは関係ない。自分で選択したということが、複雑な気持ちに勝たねばならない。
親からの影響が強いと、親の気に入らない選択をした際、1つには責められることに耐えなばならないし、もう1つには自分の中に生じる罪悪感に耐えねばなりません。
また、親の考えと同じ選択をする場合には、「それでは相手に屈したことにならないか?」という疑問に我慢し、それ以上に、自分の気持ちや選択というものを大事にせねばなりません。
どちらにせよ、親からの心理的影響に打ち勝たねばならないことになる。縛りから逃れるために、踏ん張ることになるでしょう。
特に日本人は、「我がまま」や「自分勝手」という言葉に、敏感なところがあるように思います。中でも、毒になる親を持つ人や、やさしい虐待にさらされている人は、我慢が身に染みているかもしれない。
(参照:ブログ記事 「やさしい虐待」)
本当の自分でいることは、もちろん、人の気持ちを踏みにじることでもなければ、他者に与える影響を無視することでもありません。でも、同時に、他人が自分の気持ちを踏みにじることを許すことでもなければ、誰かが自分に与えている影響について、見て見ぬフリをすることでもないのです。
我慢する人の思考は、こうなっていることが多い。
自分を思いやる心 < 他人を思いやる心
確かに、それは日本人の美徳とされます。思いやりは美しいし、尊い。
でも、本当に望ましいのは、こうでしょう。
自分を思いやる心 = 他人を思いやる心
時には、人を傷つけることもあるでしょう。時には、自分を傷つけることもあるでしょう。でも、どちらにしろ、「いつも」なのは危ない。いつも傷つけられれば、人間はどうにかなってしまいます。そこには、ある程度のバランスがあっていいはずです。
「他人を思いやりましょう」というのは、「他人を思いやることが少ない人」にこそ示される言葉です。ふだん他人を思いやっている人は、たまには「自分を思いやればいい」のです。
何が大切なのかといえば、「他人も自分も全部含めた、人間を思いやりましょう」なのだから。
「場合場合」は、現代日本にとって非常に大切な言葉で、また、単純だけど忘れられていることが多い言葉、あるいは考え方であると思われます。
ここでは、「本当の自分になる」ということが掲げられています。でも、これだって、場合場合。いつも本当の自分であろうとすると、かえって無理が出たり、周囲との摩擦に悩んでしまう結果になりそうです。
いつもいつも、自分の思うように行動するわけにはいかない。集団にいるのに、自分の決定をいつも採用するわけにはいきません。もし、それが叶ったとしたら、自分でない誰かが、思うようになってないということですから。
これはいわば、「自分を思いやる心 > 他人を思いやる心」であって、これはこれでバランスが悪い。
独立や自立に関しても、そうです。自立にこだわって依存をすべて排除するのは、自立ではなく孤立であると、河合隼雄先生もおっしゃられています。自立した人が互いに頼り合うのが、本当の自立であると。
(参照:ブログ記事 「自立と依存の関係」)
なので、親の言うことに妥協するのも多少であれば問題ないと、作者スーザン・フォワードさんは言います。問題なのは、「なんとなく押し切られて、本当はいやなのにそうなってしまった」というような場合(P223)。パターン化されてしまっており、言うことを聞くのが当たり前になっているような状態が、問題なのだと。
自分の気持ちにいつもフタをして、我慢する。心は傷つきながら、それを見ないフリする。これもいわば、虐待なのです。頭が心を、見殺しにしている。
自分に誠実であることと利己主義は混同されやすいと、作者は指摘します。
利己主義とは、社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。または、他人の迷惑を考えずに、勝手気ままに振る舞うことです。英語でいうところの、エゴイズム(egoism)。自分中心ってわけですね。
先にも述べたように、我慢する人というのは、自分勝手だと言われるのを怖れます。わがままだ、利己主義だと言われるのを、過剰に怖がる。また、本当の利己主義者が、それを利用するというのもあるようです。自分の意見に従わせるために、相手を身勝手だと責めるんですね。
特に幼い子は、親に否定されることを過剰に怖れます。そういう風にできている。なので、小さい頃から、何度も何度も、こういう恐怖にさらされると、常に「自分がわがままでないこと」を証明しようとする癖がついてしまいます。
いろんなことをする前に、無意識的に、そんな前提が影響を与えてしまうのです。子どもなら、多少わがままで当たり前なのに。
それが習慣化されてしまうので、常に我慢することになり、なかなか要求が満たされません。それが溜まりに溜まって、大人になってから影響が出てくることもしばしば。一見すると何でもないことで、癇癪を起こしたりしてしまいます。
でも、それは必然です。長い時間をかけて、怒りが溜まっているのだから。むしろ、当たり前だということになります。怒りと満たされなかった要求が、溜まりに溜まって、爆発してしまう。
ちょっとしたことで、イラッとしたり、カッとしたりすることがあります。これは、「反射的で自動的な反応」だと、スーザン・フォワードさんは言う(P224)。
この時、気分は、相手の支配下にあります。なぜなら、相手の言ったことやしたこと次第で、気分や感情が左右されてしまうから。
幼い頃から傷つけられてきた心は、当然のように敏感なものとなります。なので、些細なことが大事になったり、時には誤解まで生じさせ、余計に心を傷つけさせることになってしまう。
場面だけ見た時、「どうして、あんなちょっとしたことで怒るんだろう?」となることがある。でも、人生を通して見た場合は、また別です。今まであったことをちゃんと意識すれば、「ああ、なるほど」と頷けることも少なくありません。
「反応」と「対応」
反応というのは、自動的であったり反射的であったりします。何かが生じると、自然とそうなる。そこに人の意思はありません。
逆に対応するという時は、そこに人の意思がある。何かが生じた、ある状況に置かれた、それを自覚した上で、アクションを起こします。したがって、衝動的な行動に出ることもない。
ということは、もうお分かりですね。本当の自分になるためには、反応を捨て、対応を身につければいいことになります。
何かひどいことを言われた、何かひどいことをされた、これでカッとなってパターン化された行動をとる。これをやめるようにし、すべてを自覚した上で、感情も否定せず、何かしらの選択をする。これによって、自分に対するコントロールを取り戻すというわけ。
とはいえ、既に習慣化されていることを変えるのは、簡単にはいかなそうです。でも、「簡単ではない」のと「絶対に無理」なのは、同じではありません。あきらめずに続ければ不可能でないと、作者は言います。そして、ひとりで続けるよりもセラピーを受けるのがいいと、勧める。
スーザン・フォワードさんが推薦するのは、「ロール・プレイ(ロール・プレイング)」という方法。参加者が集まり、実際の場面を想定し、互いが役割を演じながら、問題の解決法を会得する方法です。
ある人は子どもを演じ、ある人は親を演じる。また、他の人は、それを見守る。そうしていく中で、今まで見えてなかったものが見えるようになり、多くのことに気づくようになると。
特に分かるのが、自分を守るために相手を攻撃しようとしてしまう姿勢だといいます。傷ついてきた人は自分を防衛するために、どうしても攻撃的になるというのです。
過剰な防衛を捨てる
多くの人は、自分を守るために、つい攻撃的になってしまいます。けれども、この姿勢が、より争いをエスカレートさせてしまう。
なので、毒になる親と向かい合うために、作者は「自己防衛的にならない対応の仕方」を身につけることを勧めている(P226)。
対応の例には、以下のような言葉があるようです。
・「ああ、そうなの」
・「なるほど」
・「それはおもしろい考えかもしれない」
・「あなたがどういう意見を持とうと、もちろん自由ですよ」
・「あなたが賛成してくれないのは残念だけど」
・「それについては、もう少し考えさせて」
・「これについてはあなたがもう少し冷静な時に話しましょう」
・「がっかりさせて申し訳ないけど」
・「あなたが傷ついたのは気の毒だけど」
これをいきなり使うのではなく、まずはひとりで練習することを作者は勧めています。
相手のことを思い浮かべ、声に出して対応してみる。
ただし、幾つかの注意点があります。
・論争しようとはしないこと。
・いい訳を言おうとしないこと。
・自分のことを説明しようとはしないこと。
・相手を説き伏せようとはしないこと。
これらをしてしまうと、自分のエネルギーを相手に渡すことになってしまうという。確かに、土台無理なことを要求しても、エネルギーを使うだけかもしれません。
「自己防衛的にならない対応の仕方」というのは、相手に何も求めないことだという。そして、要求していない以上、相手は何も拒否できないと。
上の言葉をもう一度見てみると、なるほど、相手と自分がちゃんと分けられているようです。相手の考えと自分の考えに、ちゃんと線が引かれている。そこには、「わたし」と「あなた」という境界が、明確に示されているように思います。
そしてこの感覚が、大切なんでしょうね。
まずは、この練習をする。そして慣れてきたら、あまり感情的にならないで済みそうな相手に、この方法を使ってみる。違和感や失敗は当たり前だと受け止め、どんなものかと試し、観察する。
修正した方がよさそうな点は、修正してみる。無理はせずに、できる時にやる。練習だと思い、完璧な結果は求めない。それを繰り返して、だんだんと身につけていきます。
自分をはっきりさせる
大事なのは、2点。
・反射的に反応してしまうのを防ぐ。
・自己防衛的になって相手を攻撃しないようにする。
そのために必要なもうひとつのことは、「相手に対して自分をはっきりさせること」だと作者は書いています(P229)。そしてこれが、「自分は何者か」を知る道にもつながる。
では、何をはっきりさせればいいのでしょう?
・自分の信じていること。
・自分にとって重要なこと。
・やる意志のあるなし。
・話し合う余地のありなし。
これらをはっきりさせるには、まず自分に対して、自分をはっきりさせねばなりません。
そしてそれが、慣れておらず、苦手とするところなのでしょう。
本当はやりたくない。でも、相手は傷つけたくない。このジレンマの中で生き続けてきた人は、はっきりさせることをタブーとしてきたため、慣れていないのです。
なのでまず、ここから手をつけることになります。
自分の意思で選択していることを確認する
「○○できない」と信じている人は多い。でも、それは必ずしも正しくないようです。なぜかといえば、「○○できない」のではなく、「○○しない」を選択していることがあるから。
つまり、本当は、できないのではなく、しないでいるだけだというわけ。(全部が全部、そうだとは限りませんが)
幼い頃、多くの選択権は、親にあります。でも、健全に育てば、成長と共に多くの選択権を自分のものとするようになる。けれど、親に支配され続けている場合は、この選択権の移譲が、スムーズに行われません。
明確に支配するわけではないにしても、相手に決めさせない空気を作り、親の方で抱え込もうとします。そして子どもの方は、無力感に苛(さいな)まれることになる。
ここでの問題は、自動で言いなりになってしまうこと。この状態から脱するのが、自分を取り戻すカギとなります。
何も、すぐに自分の思っていることを言えるようにならなくてもいいと、作者は励ましている。その前にも、選択はできると。
例えば、「今はまだ準備の段階だ」と自分を知り、「今は保留しよう」と選択する。これは見た目は同じ状態ですが、そこには自分の意思と選択がある(ちゃんと、保留を選択している)。流されているわけでも、自動でそうなっているわけでもないというわけ。
少なくとも、「変わる兆し」があるわけです。
窮地にある人は、どうしても急ぐきらいがあります。また、完璧を求めすぎることも少なくない。でも、本当に大事なのは、最終的に変わっていることです。そしてそのためには、ゆっくりやるのが大切になる。
急ぎすぎたり完璧を求めすぎるのは、投げ出す癖につながりやすいので、要注意。ダイエットだって、そうでしょ?
自分を示す練習
何事にも、慣れは必要です。不器用なのは慣れてないからなので、練習すればいい。それも、小さなことから始めると、やりやすいようです。
例えば、初めは自分の好みを示すことから始めればいい。服装についてや料理についてなどで、自分の考えを表明する。
支配したいという欲求を持っている相手ならば、それでもあなたに難癖をつけるかもしれません。でも、そんな時にこそ、前述の「自己防衛的にならない対応の仕方」を使う。言い争うのでもなく、相手を説き伏せるのでもなく、単に、自分の考えを表明します。
それでも相手は、変わらないかもしれない。こちらが冷静でも攻撃してくるかもしれないし、感情的になるような言葉を投げかけ、攻撃させようとするかもしれない。
でも、それは相手のこと。あちら側の出来事。あなたがしたわけじゃない。
この手法の大切な点は、相手にではなく あなたに効果があることだと、スーザン・フォワードさんは言っています。
「相手が変わるか変わらないかは重要なことではない。大切なのはあなたが変わることであり、あなたは相手の反応がどうであるかには無関係に、自分の力だけで過去のパターンから変わっていくのである」(P233)。
・自分をはっきりさせる。
・反射的に反応するのではなく、冷静に対応する。
・自分の考えや感じていることを、はっきり伝える。
・受け入れられることと受け入れられないことを、明確に示す。
これらができるようになった時、相手そのものはともかくとして、関係は変わらざるを得なくなってくるのです。あなたが変わったことで、今までと同じではなくなる。
次回に続く…
<チェックシート>
・自分のことを、思いやっているだろうか?
・本当は嫌なことを、ずっと我慢してないか?
・何かをされ(言われ)カッとすることがパターン化されてないか?
(反射的な反応を捨て、対応しよう)
<<「第10回 考えと感情と行動のチェックリスト」に戻る
│「目次」│
「第12回 怒りを管理する方法/悲しみを処理する方法」に進む>>
ページの先頭に戻る