第6回『完璧主義の親/呪縛になる言葉/内面化』
<完璧主義の親>
前回は、言葉で子どもを傷つける親について書きました。からかったり馬鹿にしたりしながら、自分を正当化し、同時に子どもに負い目を感じさせます。
今回は、もっと攻撃的。激高しながら口汚く罵るようなタイプです。
さらに厄介なことに、ここにパートナーが加わるという。もう一人の親は、それを止めない。傍観する。それがまた子どもを、深く傷つけます。本来支えてくれるはずの人たちが、一人は傷つけ、一人は傍観する。こんな堪らないことはないでしょう。
ひどい言葉というのは、単に傷をつけるというだけでなく、また別の影響も与えるという。間違った自己イメージを植え付けるのです。
「おまえは○○だ」と言われれば、子どもはそれを信じてしまう。しかも何度も繰り返されるので、その自己像を、大人になっても引きずると言います。
それが事実かどうかは分からないのに、きっとそうだと信じ込んでしまう。
さらにネガティブな自己像は、それに見合った反応をも生み出します。こうして、なぜかいつも不安になったり、成功しても満たされなかったりと、気が休まることがなくなってしまうのです。
子どもに完璧さを求める親もいるという。能力を超えた課題を与えたり、実現不可能なことを要求したりする。こうなると当然、要求は達成されないので、子どもは激しく責められてしまいます。
幼くして責められ、罵られ、その反応として、何とも言えない気分が生じると。
こういうタイプの親は、間違った信条を持ってしまっていることが多いという。すなわち、「○○したら幸せになれる」といったもの。何らかのそれをクリアできれば、子どもも家族も、何の悩みもなく幸せになれると――ある意味、無邪気に――信じ込んでしまっている。
もちろん、そんなことないのに。
こういった布置の問題点は、子どもが大きな負担を背負わされていること。まるで「あなたの成功が一家の成功」と言わんばかりの期待を、負わされてしまいます。でも、期待が大きすぎるので、なかなかクリアすることは困難。すると今度は、まるで「家族がイマイチなのはあなたが成功しないから」みたいなことを言われたりする。
小さな肩に見合わない荷物を背負わされ、これではつぶれてしまいそうです。
あと厄介なのは、まれに成功例があったりすること。○○さんは成功したからと、万に一つの事例を持ち出し、きっとそうなれると信じてしまう。で、この際、万に一つという確率は、無視されます。
子どもは成功の積み重ねで、自信を育てます。それを考えると、クリアできそうもない課題を延々と与えられ、失敗したらしたで責めら、これでは どうなるでしょうか?
失敗もまた、成長には欠かせない要素です。ひとつには、一度くらい失敗しても大丈夫ということを、親と子が両方で学びます。多少失敗しても挽回できると、勇気を持つ。これが絶望を防いでくれます。
逆にいえば、ひとつの失敗でこの世の終わりのように言われれば、子どもは絶望を覚えてしまうでしょう。子どもが親――特に母性側(女性でなく母性ね)――に求めるのは、「あなたはあなたで大丈夫」という無償の愛なのです。
子どもに自分の人生を託す親もいます。自分が歩けなかった道を子どもに歩んでほしいと、強く願う。願うだけでなく、それを強いる。道から外れそうになると、何としてでも引き戻す。
あまりに想いが強すぎて、親と子は別の存在なのだという前提が、どこかに行ってしまっています。子どものパーソナリティーも、自尊心も、無視されてしまう。
こうなると子どもは、自分でない人生を、強制的に歩まされることに。
度を越えた完璧主義は、人間を圧迫します。ここに「いつでも、どこでも」が加われば、もう完璧。人はだいたい、疲弊してしまうでしょう。プレッシャーに追われ、落ち着けません。心身両面で、圧迫されそうです。
完全さを望まれた子どもの多くは、2つの道を歩むしかなくなるという。1つは、親の期待に応え頑張り続ける道。もう1つは、それとは真逆に反抗する道です。
前者はまるで、血を吐きながら続けるマラソン。しかもそれは、自分の望んだ道ではありません。なので普通、意欲が続かない。(肉体も精神も、ですけど)
後者も実は、自身の望んだ道ではありません。単に、反抗せざるを得なかっただけ。「したいこと」というわけではないのです。
どちらにしても、本人の望んだ道ではない。
<呪縛となる言葉>
心理的な問題においては、「時間差の罠」といったことが生じてきます。というのは、人は現在を生きており、目に見える問題も現在に生じる。でも、「影響を与える何か」は、目の前には無かったりする。それは、遠い過去の出来事である場合も少なくありません。
残酷な言葉は、人を傷つける。でも、それが仮に1回だけのことであったり、遠くの誰かが言ったことであれば、そんなに深刻なことにはならなさそうです。では、逆だったら、どうでしょう? 身近な誰かが、毎日毎日、残酷な言葉を吐いたら、どうなるでしょう?
そうです。ここに深刻な問題と、大きな影響が潜んでいるのです。
残酷な言葉は、いろいろあります。でも、その根底にあり問題となる要素は、ひとつ。それは「あなたなんか必要ない」「あなたなんかいらない」。これは実際に、そう口に出すということだけではありません。残酷な言葉の奥に、それを感じさせるということです。
「あなたでいいの」「あなたが必要」「生まれて、おめでとう」、これらが、人間としての基盤を作る基本的信頼です。(「エリクソンのライフサイクル」参照)
生きていれば嫌なことはあります。傷つけられることだってある。外――例えば学校や会社――で、そういう目に遭うかもしれません。でも、支えになる場所、大丈夫な場所、自分を認めてくれる場所があって、そこに帰ることができれば、ホッとできます。忘れられたり、安心できたり、そうやって回復することができる。
でも、家に、毒があったら、どうでしょう? 毎日毎日、それに触れたら、どうなるでしょうか?
スーザン・フォワードさんは、P131でこのように書いています。
「親の非情な言葉は子供をひどく傷つけるばかりでなく、魔力をもった呪文となることがある」
その呪文が大人になってもつきまとい、影響を与えるのです。
今現在の問題にも、そういった影響が。なので、今現在に理由や原因を探しても、なかなか見つかりません。
<内面化>
親の言葉は、内面化するという。
小さい子ほど、親の助けなしに生きられません。なので親というのは世界の中心であり、絶対者なのです。その親が白を黒だと言えば、子どもは白も黒だと思い込む。そういう風にできています。
「おまえはダメだ」と言われれば、「ああ、ダメなのか」と思う。「おまえが悪い」と言われれば、「ああ、自分が悪いのか」と思ってしまう。疑いを抱くこと自体が罪だというところがあって、何の検閲もなしに、そう思ってしまうのです。
人間の脳は、人から言われたことをそのまま受け入れ、それをそっくり無意識のなかに埋め込んでしまう性質があるのだという(P132)。これを「内面化」と言います。(ちなみに、日本国語大辞典によると、「自分の言動が自分の内に影響を及ぼして、自己の精神や心理の一部となること」という意味もあるようです)
このメカニズムがあるため、人から「おまえは○○だ」と言われると、今度は自分の中で「私は○○だ」と変換されてしまうというのです。特に、子どもの場合、その傾向は強い。まだ検証する力もないし、疑うことを知らないので、よりスッと入り込みやすいようです。しかも、親というのは一番身近で、それが毎日続く。こうなるともう、しっかり定着してしまいますよね。
こうして言葉による虐待は、本来 持てたはずのポジティブな自己像を傷つけ、台無しにし、それだけでなく、ネガティブな像を植え付け、育てるのです。これが将来に影響し、生きていくことを邪魔する。内面化されたネガティブな自己像が、大人になっても、ひどく自分を傷つけるのです。世の中とうまくやっていくことも、困難にする。
その内面化されたネガティブな自己像を打ち破る方法は、第二部の「『毒になる親』から人生を取り戻す道」で、詳しく述べられるという。
(もうちょっと先になりますが…)
次回に続く…
<チェックシート>
・ネガティブな自己像を植え付けてないか?/植え付けられてないか?
・残酷な言葉を、毎日浴びせてないか?/浴びせられてないか?
・そばにいるもう一方の親は、止めてくれたか?
・「○○したら幸せになれる」と信じてないか?/そう言われてないか?
・家族の期待を、一身に背負わせてないか?/背負わされてないか?
・身代わりの人生を歩ませてないか?/歩まされてないか?
(分かりにくい場合は、小さい子がそういう状況におかれている場面を想像してみてください。そして、何か助言したくなったら、心の中で、その子に何か言ってあげて下さい)
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