第2回『親の義務/共依存の親子』
さて、「毒になる親」とは、どんな親のことなんでしょう?
前回は、「神様のような親」について触れました。
今回は、「義務を果たさない親」について。
<義務を果たさない親>
ペルソナについて書いた箇所でも触れましたが、子はまず親からいろんなことを学びます。例えば、褒められた部分は「ああ、だいじょうぶなんだ」「これでいいんだ」と残し、叱られたような部分は「これはいけないんだ」と排除しようとする。
幼い子にとって親は絶対的な存在ですから、無意識的に、このような働きが出てきます。いわば、親の顔色をうかがいながら、自分の適切な仮面(態度)を作っていく。このような意味でも、親は子にとって欠かせない存在なのです。
(参考記事:ペルソナ/ユング心理学辞典)
本では、親の基本的な義務を5つ挙げてくれています。
(1) 衣食住や健康などに気を配る。
(2) 肉体的な危険や害から守る。
(3) 愛情や安心感など、心の面でも応える。
(4) 心の面でも、危険や害から守る。
(5) 道徳観や倫理観などを教える。
親といえども人間。なので、すべての面において100%できているという人は、いないのでしょう。ただ、著しく欠けるのも、困るわけです。子に与える影響は大きいから。
人間にはいろいろと事情があるわけで、情緒不安定になるとか、心の健康が損なわれるとか、そういうこともあるでしょう。そしてこのような状態が長期間続く場合、上のような義務、子どものニーズに応えられなくなる。時には、自分のニーズを子どもに満たしてもらおうとするケースだってあるくらいです。(もちろん、意識してそうしているわけではありませんが)
こうなると、子どもは戸籍上の親は持つものの、役割としての親を持たないことになります。助けてくれる人、守ってくれる人、安心させてくれる人、教えてくれる人、それらが不在の状態になるのです。
こうなるともう、安心なんてできないですよね。そしてこれが、後々尾を引くことになります。
人間は、生まれてきた時には真っ白。そこからいろんなことを吸収し、学びます。「思いやり」だって、「人を認めること」だって、知らず知らずに学んでゆく。無意識的に、「そういうものだ」とか「あれはいいものだ」と学び、身につけていきます。
なので、身近にモデルがおらず、学ぶ機会がないと、さて、どうなるか?
また、「学んでない人は教えられない」とか「教えられていない人は教えようがない」とか、そういうことを考えると、延々とループが続くことも容易に予想できます。
この本によれば、子ども時代に親子の役割が逆転した人ほど、「何をやっても満足にやり遂げることができない」と思い込んでしまう傾向があるという(P52)。また、そういう思いが強くなりすぎると、実際にやり遂げることが困難になってくる。心のエネルギーが、常に不足してしまうのです。
当たり前ですが、子どもは子どもであって、大人ではない。そんな時に大人の役割を押しつけられても、満足にやれるわけがありません。どこかで不足や失敗が出ます。なので、そういうことが続くと、「自分はうまくやれない」→「自分は何ひとつ満足にできない」と、強く刷り込まれてしまうのです。
子どもなのだから、そんなものなのに。
人は誰しも、自分のことを可哀想だなんて、思いたくない。そんなことを認めれば、みじめな気分になるからです。で、そうすると、可哀想だと思う代わりに、「それで当たり前」だと信じようとする。そんなのは当たり前のことで、可哀想でも何でもないと。
すると今度は、当たり前だから、それを受け容れなければならなくなる。こなさなければなりません。当たり前なので、子どもだって、大人のようにできなければならない。そういうことになってしまうのです。
こうして子は、できなくてもいいことに対しても、無力感を味わうことになってしまう。本来守られるべきなのに守られず、本来してもらう方なのに してあげることを強いられてしまいます。
「共依存の親子」
「依存」とは、何かに頼って存在・生活すること。「依存症」とは、ある物事に依存し、それがないと平常を保てなくなる状態。「共依存」とは、特定の人間関係に依存する状態のことです。特に、自分の存在意義を認めてもらおうとして、過剰な献身を繰り返すなどするという。
人間はこの世に生まれ落ちた時、無力です。なので当たり前に、親や身近な大人、特に母親に依存します。なぜなら、頼らないと生きていけないから。このように人間の対人関係はまず、依存からはじまる。
けれど人は成長するので、だんだんと「自分でする」ことを覚える。自分でする面白さや、その際の成功体験、失敗体験、いろんなものを経て活動範囲を広げ、やがて自立していきます。
とはいえ、我々はひとりで生きているわけではありません。例えば食べ物は、誰かが作り、誰かが運び、誰かが売って、我々の手に入る。さらには、料理を作る人だっているでしょう。着る物だって、原料を生産する人もいれば、それを行き来(流通)させる人もいる。デザインする人もいれば、縫製する人もいる。そんな企画を立てたり、実際に売ったりと、いろんな人が関わっています。
つまり、社会で生きるというのは、誰かに頼りつつ、まだ誰かのために何かをするといった、つながり合いがある。「相互依存」の関係にあるんですね。
このように、誰もが少なからず、人に社会に依存しています。なのですが、程度が大きくなると、また別の問題が出てくると。
この本では「共依存」の人を、相手を救おうと頑張っているつもりで実は自分の人生が破たんしている人、といった風に表現しています。(P56)
例えば、なぜかいつも問題のある人に惹かれる。その度に相手を救おうとするのだけれど、うまくいかない。本人は相手のために努力していると信じているのだけれど、客観的に見た場合、面倒を見ることで相手の無責任な行動を誘発しているようにも見える。
本では、P57に、「共依存のチェックリスト」を提示してくれています。(1)〜(12)の質問があって、それによって共依存的な性格かどうか、およその目安がつくという。(とはいえ、いくつイエスだから云々といった範囲は示されていません)
この本の作者が関わったケースでは、クライアントの女性の共依存の根は、親子関係にありました。
事情によりこの女性は、子ども時代から、父親をなぐさめて世話する役割を負わねばならなかった。父も母も親としての役割を果たせなかったため、彼女が逆に――ある部分で――世話していたのです。
とはいえ、子どものすることです。父親をうまく なぐさめられるはずがない。したがっていつも、後ろめたい気持ちを抱えていました。そしてそれが、大人になってからパートナーを選ぶのに、大きな影響を与えていたのです。
親に余裕がないと、子どもは基本的信頼という基盤を得ることができません。「生まれてきて、おめでとう」「あなたはこの世に存在していいんですよ」「あなたがいるには意味がある」、言葉を超えたそういうメッセージを与えられると、生きる上で強い土台ができます。ちょっとしたことの積み重ねで、赤ん坊はそれを確認しているのです。
が、親が自分のことで頭がいっぱいだと、こういった支えを作ることができなくなる。さらに子どもは、何でも自分のせいにする傾向があります。親の機嫌が悪いと、「自分のせいなんだろうか?」「自分が悪いのだろうか?」と思ってしまう。
さらには、大人のような役割を負わされた場合、それをうまくこなせなかったという後ろめたさや罪悪感まで背負ってしまうことも。
こういう中にあると人はやがて ごまかしがきかなくなり、身動きがとれなくなります。負わなくてもいい荷物を背負っているうえに、基盤となるエネルギー源もない。なので、力尽きてしまうのも、うなづけますよね。
人間には、「目に見えないけど必要なもの」があります。それは前述の「親の義務」にも関わってくる。なので、「ひどいことをされた」というだけでなく、「必要なものを与えられなかった」ということでも、人は傷つくのです。
また「した」というのは比較的目につきやすいのですが、「しなかった」というのはちょっと分かりにくい。なので、成長した子どもが「してもらえなかった」と気づくのも、ちょっと難しいようです。
さらには、「しなかった」「できなかった」には理由がるもので、その理由が「しなかったこと」を正当化してしまう傾向も。これは周囲も、子どももそう。○○なんだからと、子どもに我慢を強いることが多い。
相手は、子どもなのに。 弱っている大人をかばうために、子どもに我慢を強いる。その子どもも弱っていることは、時に無視されます。
ここでまた、第一命題に戻ります。
傷ついた人は守られねばならない。
負わなくていい責任は、負わなくていいんです。
持つべき荷物だけ持って、持つ必要のない荷物は下ろしてしまえばいい。
エネルギーは自分のために使っていいし、自分の道を歩んでいいんです。
次回に続く…
<チェックシート>
・小さい頃、十分に満たされたか?
・親子の役割が、逆転していないか(してなかったか?)?
・親を満たせない自分を責めてないか?
・いつも、何か問題のある人を好きになってないか?
・その人を救いたいと、頑張りすぎてないか?
(分かりにくい場合は、隣の家の小さな子を想像したり、自分の友達がそうなっている場面を想像してみてください。それらの人に何か助言したくなったら、心の中で、声をかけてあげてみてください)
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