第9回『毒になる親を許す必要はない』
今回からは、第2部ということになります。
その題とは、「『毒になる親』から人生を取り戻す道」。
これまでは、毒になる親とは どういうものなのか? その特徴などを勉強してきました。親はどういうことをしているのだろう? その時、子はどういうことを強いられるのだろう? 毒になる親を持つ家族の特徴は、どういうものだろう? それらをはじめ、子どもが大人になってから受ける影響についても、学んできました。
これらはいわば、「過去」と「現在」についてです。でも、ここからは、「未来」に関わることになります。
毒になる親を持つ子どもは、過去の影響を受け、現在を蝕まれています。場合によっては、現在になっても直接的な影響を受けている場合もあるかもしれません。どちらにせよ、それによって、未来に期待を持てないような状況に追い込まれていることでしょう。
それを少しずつでも変えていきましょうというのが、第2部です。著者曰く、毒になる親の悪影響から身を守り、自滅的な行動パターンを建設的なものに変えて、人生を自分のものとして生きていく方法を示そうという試み(P194)。
そこには、幾つかの注意点が書かれています。
・現在治療中の人は、そちらを優先すること。
・アルコールなどに頼っている人は、まずその問題に取り組むこと。
・できれば、それについての専門家に助けを求めること。
(6ヵ月間 断てるような状態になることが望まれる)
さらに大事なことは、それを実践したとしても、たちまち問題が解消するわけではない、それを知っておくこと。ここでまず得られるであろうことは、気づきや発見です。また、それにしたって、否認というハードルを越えて初めて、得られること。
そしてやがて、親や周囲の人々との関係について考えるようになる。また、自分とは何者なのか? 人生とは何なのか? 自分が望んでいる人生とは、本当はどんなものなのか? そういうことを考えるようになる。
これらはすべて、過程です。ゴールというわけではない。今まで硬化していたものを解きほぐし、少しずつ整理していこうという試みであり、その過程。それによって、本来得られるはずだった、そして不幸にも得られたなかった、そんな自信や尊厳を取り戻そういうのです。
そしてそのための出発点が、以下の題名になる。
<「毒になる親」を許す必要はない>
毒になる親を持つ子どもも、そして世間も、共通の認識を持っているのではないでしょうか?
それは、「許すことが一番大切なことだ」とか「許すことから、すべてははじまる」といったもの。そうでなくても、「許すのは素晴らしいことだ」とか「許すことこそ、癒しにつながる」とか、そういう考えを持つ人が多いのではないでしょうか。
しかし、著者のスーザン・フォワードさんは、こう言っています。
だが真実を言うなら、あなたが自分に対して良好な感情を持ち、自滅的な人生を建設的なものに変えるためには、必ずしも親を許す必要はないのである。
(P196)
「許すこと(赦すこと)」=「癒えること・癒されること」という構図は、カウンセリングのみならず、いろんな世界で言われるものだと思います。そう信じている人は、多い。
でも、信じることの危うさや、時には害になることさえあるという事実を、我々は知っています。「場合場合」ということを無視して信じ、人をセオリーや鉄則に当てはめることで、人が傷ついたり、象徴的な意味で死にさえすることを、知っている。
(実際に生命が失われないにしても、何かが殺されたりする)
この本の著者も、親を許すことが心の癒しにとって最も重要であると信じていたのだという。しかし、経験して学んだことは、親を許したと語った人の多くが、少しも癒えていないということでした。一時的に気分がよくなるにしても、人生が好転するわけではなかったのです。
「許す」には2つの要素があることに、スーザン・フォワードさんは気づいた。それがこれです。
(1) 「復讐はしない」ということ。
(2) 相手の「罪を免除する」ということ。
1つ目に関しては、問題ないという。「復讐しない」とは、相手にひどいことをされたからといって、自分もやり返すわけではない、ということ。仕返ししてやりたいという気持ちを捨てることについては、特に反対していません。逆に、やり合いになって泥沼化することは、心身の健康にはよくないようです。
まとめると、復讐したいと思うのは人情だし、無理に抑え込むことはない。ただし、実際に復讐すること、行動化することはよした方がいい、ということです。
問題となるのは、2つ目ですね。相手の罪を免除するということ。この相手とは親であり、本でいうところの 「責任を負わなくてはならない人間」ということになります。
なぜ、本来保護すべき子どもにひどいことをした人を許す必要があるのか? 責任を免除しなければならないのか? その後の人生まで台無しにされて、なぜ見過ごしてあげる必要があるのか? というのです。
やがて著者は、「罪の免除」は「事実の否定」の一形態に過ぎないと確信したといいます。「許す」ではなく「許したい」という願いであって、本当の感情は心の奥にしまわれており、その溜まりに溜まったものが心の健康にも影響を与えていると。
<自分の中にいる犠牲者>
少し話は変わりますが、何かを目指す人は、他の何かを犠牲にしたり、蔑(ないがし)ろにしたりしがちです。
例えば、「世界」というものを大事にする人がいる。国境などはいらないとか、国という意識は不要だとか、いろんな意見があるのでしょう。そんな人の中に、自分の国――日本でいうなら日本――をすごく嫌ったり、貶めたり、軽んじる人がいる。
その人は確かに、世界を大切にしているのかもしれません。世界の人々というものを、第一に思っているのかもしれない。でも、その反面、すごく日本を軽んじるのです。日本人や日本人という意識を、蔑ろにする。そういう意識――日本や日本人を大事に思う意識――を持つことは罪だと言う人さえいる。
これは果たして、フェアなことなのでしょうか? 世界について語るのは素晴らしいと考える人もいますが、1つの国が軽んじられるということについて、どう考えるのだろう? この犠牲は、無視されていいものなのでしょうか?
(これは、日本を愛することと他国を貶めることを混同する人にも言えます)
実は、こういう布置が、いろんなところであったりするのです。
許すことは素晴らしいという。許すことが癒しにつながるという。でも、全部が全部、そうなのだろうか? 「場合場合」は、考えないでいいのだろうか? そこにある犠牲は、無視されていいのだろうか?
こんな例えを考えたら、どうでしょう?
毎日毎日、子どもが針で刺されている。チクリチクリと、刺され続けている。それは一度だと問題ない程度かもしれないけど、毎日のことなので、傷が深いものとなっている。肉体が傷んでいる。また、それだけでなく、本来保護すべき人に傷つけられているので、心まで傷ついている。でも、服を着ていると分からないので、誰も気づかない。
ここで、「許す」という意味を考えたら、どうなるだろう?
ここでも、2つの許しがあるかもしれません。
(1) もうしないと誓い、また、もうすることはないであろう人を許す。
(2) そんなことは考えず、無条件に許す。
1つ目は、問題ないでしょう。もう針で刺されることはないので、自己治癒力で何とかなるかもしれない。それが無理でも、適切な治療を受ければ、何とかなる。傷は残るかもしれないけど、それ以上 悪化することもなさそう。
問題は、2つ目です。無条件に許すことで、どうなるか? これからも、毎日毎日針で刺されることで、どうなってしまうか? それは容易に想像できそうです。
ひとりの人間の中にも、幾つかの要素があります。それは例えば、「頭・心・体」に分けられる。
ここで許そうとするのは、頭です。頭は、無条件に許そうとする。でもその結果、体は痛めつけられます。その反応として、心も深く傷つくでしょう。それが続くことになる。この構図を、どう考えるかということ。
許すことに、頭は納得しているのかもしれません。でも、直接的に傷つけられる、体はどうだろう? 頭と体をつなぐ、心はどうでしょう? これがどういう風に、癒しにつながるのでしょうか?
実はここにも、親子関係にも似た構図があることに気づかれたでしょうか?
基本的に、頭は体に命令を出し、体はそれに従います。心はあまり従いませんが、頭はそれを抑えるなど、コントロールしようとする。こういった意味で、頭は心と体に命令できるわけですが、その分、心と体を保護すべきだともいえるわけです。
頭を親とするならば、体は聞き分けのいい子で、心はもうちょっと自由というか、やんちゃな子。
この構図を考えた時、それを今まで述べてきたような布置と合わせて考えると、どうなるでしょう?
何らかの虐待を受けたり、心無いことを言われるなどして、体という子と、心という子が傷つけられている。しかもそれは長年続いており、これからも止むことはなさそうである。こんな時、体と心を保護すべき頭が、「ともかく許しましょう」と言えば、どうなるか? それは何を意味するのか?
体という子、心という子は、見捨てられてしまうのか?
<許すことの落とし穴>
このような布置での許しは、いわば、許したいという願いです。願いであって、実際ではないことが多い。許そうと思う、許さねばと思う、でも、その奥の方では、やるせない思いや怒りが渦巻いていたりするのです。頭という保護者がいくらそう思い込もうとしても、心や体はそうではありません。泣いていたり、怒っていたりするんです。
本来 責任を負うべき人を許す。これは何を意味するでしょうか? すべてを許すということでしょうか? どうも、それは違うようです。毒になる親を許すことで、結果、子どもは自分を責め、自己嫌悪に陥ったり、いつまでも解消されない怒りに、圧迫されたりします。
実は、1つを無理やり許すことで、別の罪のないもう1つに責任を負わせ、責めている。
これは、周囲の人の考えにも、同じことがいえます。問題ある人を許すことで、別の罪のない人に責任を負わせ、責めてしまうことが、世の中にはあります。これも、一方は許しているけれど、もう一方に多大な負担を強いている。このような許しは、全然やさしくないのです。
著者によると、許しが逃げ道になっていることもあるという。本当のことと向かい合うのは相当つらいので、それよりも許す道を選ぶと。また、幻想を持つ場合も多いといいます。許しさえすれば すべてが好転に向かうと、根拠のないことを信じてしまう。それにすがってしまう。
これらはそれを責められることでもないし、そうなるのもやむを得ないと思えることですが、結果、悪い状況が現状維持されるという、よろしくない結果になってしまいます。
許したと割り切ることで、一時的に気分がよくなることはあるようです。でも、それは長く続かない。なぜかといえば、気分を台無しにする人たちが、相も変わらず、同じことをするからです。気分は反応なので、ひどいことをされれば、傷つくし、やるせなくなるし、落ち込んだりもする。それが長期間に及べば、なおさらです。
本の中では、キリスト教の原理主義者の女性が登場します(P201)。彼女はグループセラピーに参加したのですが、怒りを感じ取ることを頑なに拒否したという。それよりも、許すことにこだわった。紆余曲折あった中、彼女はやがて、自分の中の怒りを外に出すこととなりました。そして、ある真理を得たのだという。
それは、神は人を許す以上に、自分(この女性)がもっと回復することを望んでおられるのだろう、ということ。
ここで注意せねばならないのが、「親に対して怒れ」と言っているのではないことです。「親を許すな」と言っているのでもない。言いたいのは、「絶対に親を許さねばならない、ということはありませんよ」ということ。腹の立つことには、腹を立てていい。泣きたかったら、泣いていい。悲しい時は、悲しむに決まってる。助けが必要な時は、呼んでいい。ただ、それだけです。
「許す」という尊い行為も、それが力を持ちすぎると、バランスを失う。「許さねば、許さねば、許さねば」、これは、呪縛になり得るのです。人を傷つけ、切り刻み、悪くすると、殺すことだってある。
許しが適用される場面については、「改心」がそれにあたるのかもしれません。改心とは、今までの行いを反省し、心を改めることです。つまり、今まで毒になる親だったことを悔い、子どもを傷つけていたことを認め、反省する。何より大事なことは、もう、繰り返さないこと。こういう条件が整って初めて、許しは適用されるのだと思います。
でも、この許しを誤用する人もいる。被害者側に許せ許せと強要し、加害者側の態度が変わらないことには注目しない。これでは何も変わらず、傷つけられる人が、ずっと傷つけられるばかりです。
許せ許せと言う前に、被害者の堪らなくなっている気持ちこそ、許してあげればいい。抑圧され、外で出たがっている気持ちこそ、許してやればいいのです。
毒になる親の子どもの苦しみは、背負わないでいい荷物を背負っているから生じているといえます。責任を感じる必要がないものについても責任を負ってしまうから、苦しい。また、それによって生じている感情を無理に封じ込めているから、なお つらい。
ならば、どうするか?
背負う必要のない荷物は、おろせばいい。負う必要のない責任は、放棄すればいい。出てこようとする感情は、出せばいい。
必要のない制限から、自分を解放すればいいんです。
次回に続く…
<チェックシート>
・無条件に、ゆるそうとしてないか?
・無理にゆるそうとすることで、イライラしてないか?
・怒りを拒否することで、かえってイライラしてないか?
(考えるのではなく、気持ちを感じ取ってみてください)
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