第7回『暴力を振るう親』
<暴力を振るう親>
前回までは、言葉で傷つける親についてでした。今回は、暴力を振るう親について。
親による暴力については、ニュースなどで「虐待」として報じられてますよね。では、何が虐待になるのか、どの程度から虐待になるのか、という話になりますが、法的なことはともかくとして、作者のスーザン・フォワードさんはこのように述べておられます。
傷跡のあるなしにかかわらず、子供に強い肉体的苦痛を加える行為はすべて虐待である。
(P136)
傷には心の傷も含まれるわけだし、仮に肉体的な傷が消えたとしても、長期間に及ぶ虐待はその後の人生に大きな影響を与えるわけで、そんな人たちをたくさん見てきた作者からすれば、こういうことになるのでしょう。
では、なぜ、彼らは子どもに暴力を振るうのでしょうか?
子どもはダダをこねたり、泣きやまなかったり、時にすごく片意地になることがあります。そんな時はつい、手を上げたくなることもあるかもしれない。そして本人も周囲も、「だって、あの子が○○だから」と思う。でも、作者によれば、その時の子どもの態度や行動というよりは、親自身の精神状態の方が原因となっていることが多いのだという。疲れ、ストレス、不安や心配事、あるいは人生の問題、それらが大きく影響していると。
前述のとおり、ついつい手を上げたくなることは誰だってあると思います。でも、多くの親はそれを抑えることができる。仮に衝動があっても、行動化することはありません。でも中には、行動に移すと共に、習慣化さえしてしまう人もいる。この両者の間には、どのような違いがあるのでしょう?
本には、後者の親について、幾つかの特徴が紹介されています。
(1) 自分の衝動をコントロールする能力が、著しく欠如している。
そのため何かストレスがあると、まるで自動反応のように、子どもに暴力を振るってしまいます。そういった一連の流れが、まるで反射のように行われてしまう。途中にブレーキがありません。
(2) 自分自身が子どもの頃に暴力を振るわれており、体罰が当たり前になっている。
子は基本的に、親をモデルとして態度を学びます。彼らは不幸にして、暴力を振るうことを当たり前として学んでしまった。
(あるいは、時代時代の考え方や、文化的なことも考慮しなければならないのかもしれません。特に、昔のことを語る場合は)
(3) 子どもの頃から感情的に満たされず、大きなフラストレーションを抱えたまま成長してしまっている。
感情を満たされることが少なかったため、それが溜まりに溜まって、ギリギリになっているのです。なので傍から見れば、すぐに爆発するように見える。しかし実は、それ以前に繰り返されて来たことで、相当まいっているのです。やりきれなさの連続が、このような状態を生んでいる。
このような布置の場合、満たされることのなかった親は精神的には子どものままで、自分の子どもに 親にしてもらえなかったことを要求するのだという。そしてそれがうまく満たされないと、怒ったり責めたりする。本当に怒っているのは自分の親に対してなのですが、それになかなか気づけません。
(4) これは必ずしもそうではありませんが、暴力を振るう親は、アルコール中毒であったり薬物依存である場合が多いのだという(「多い」ということと「イコール」は同じではありませんが)。
こういったことも、感情のコントロールに影響を与えるということです。(日本と欧米の差があるので、何とも言えない部分がありますが)
暴力を振るう親を持つ子どもが怖れるのが、その「気まぐれさ」だという。いつ、何が原因で怒るか分からない。なので当然、子どもはビクビクしながら過ごすことになります。心が休まらない。
親の態度に一貫性があれば、子どもは「ああ、これをしたらダメなのか」「こうしたら褒められるのか」ということを学べます。これが人のペルソナを作るのに一役買う。でも、気まぐれに怒られると、何がよくて何が悪いのか、学べないのです。そして子どもは怯えると共に、「自分が悪いのか?」と疑念を持ってしまう。
このような布置に長年 置かれ、その後の人生に大きな影響を受けてしまう人もいます。守ってくれる人もおらず、ビクビク怯えなければならなかったため、基本的な信頼というものがすごく薄くなってしまう。人を信頼できないため、人とうまく付き合えなくなります。
人間が多くのことを学ぶのは、人間からだという。相手の人格を尊重すること、安心して触れ合うこと、それらを人間関係を通して学んでゆく。そして子どもが一番多くの時間を過ごすのが、親ということになります。人間に対してポジティブなイメージを抱くのか、ネガティブなイメージを抱くのか、それにも大きな影響を与えると。
他人とうまく付き合えないことに対し、自分を責める人は多いのではないでしょうか。でも、人間は人間関係が育てるということを考えた場合、自分だけを責めることはない、ということになるでしょう。鎧をまとう人、過剰に警戒する人、弱みを絶対に見せない人、できるだけ近づかないようにする人、そこにはそうなるだけの理由があったのかもしれません。
子どもがターゲットにされる理由には、幾つかありそうです。
まず、子どもが弱い存在で、反抗できないこと。これで、自分が責められずにすみます。また、子どもは親の所有物であるという間違った理論を持った人もいる。そういう人は、「これがうちのやり方だ」とか「うちの教育方針に口出しするな」とか、メチャクチャなことを言います。子どももひとりの人間だということを忘れている。
間違っているといえば、上でも触れましたが、間違った習慣を当たり前だと思うこともあるようです。自分がされてきたから当たり前だとか、そういう風に個人の人生――あるいは特定の集団のやり方――を一般化してしまうこともある。(こういうのは部活のしきたりみたいなものにも言えるのかもしれません)
<暴力を正当化する親>
子どもに対する暴力を正当化する親もいるという。暴力を振るった後で、「おまえのためだ」と言ってしまう。厳しく叩いて教育や修正をしてやろうというわけです。
このような意見はテレビなどでも見かけることがありますが、いつも不思議に思うのです。そういう人はそういう人で、あまり好ましくない態度を度々とったり、社会常識から外れることをしたり、時にはそれを自慢する人さえある。ということは、彼らの主張する理論から言えば、彼ら自身がどなたかから体罰を受け、矯正されねばならないということになります。(あくまで、「彼らの理屈からいえば」ですが)
批判者はいつも、「怒る側」から物事を考えます。「怒られる側」のことは、あまり考えない。その癖に、怒られても仕方ないようなことをしていたりするわけで、この辺も矛盾しますね。体罰肯定派の人は、自分が叩かれるかもしれないという可能性を忘れているように思います。
社会的に体罰が肯定されたなら、やがてどうしようもない大人が子どもに叩かれ教育されるかもしれないという現実を、すっぽり都合よく忘れているのではないでしょうか? (あくまで、社会が体罰を肯定すれば、です)
暴力を振るう親には、それを傍観する親がセットになっている場合が多いという。止めるべき大人が、その役割を果たしていないわけです。そのような場合、傍観する親は、消極的協力者ということになります。直接的に暴力を振るってないにしても、子どもを見捨てている。
こうなっても、子どもは自分を見捨てたも同じ状態の親をかばうといいます。傍観する親を、同じ被害者だとし、気の毒に思ったりする。もちろん、パートナーも暴力を振るわれる場合もあるのですが、夫婦関係における被害者であるということと、親子関係における傍観者であるということが、なかなか分けて考えられません。
また、ここでも「役割の逆転」が起こり、子どもが親を怒らせないようにと気を遣い、同じく暴力を振るわれるもう一人の親を守ろうとしたり、慰めようとする。被害者であるはずの子どもが、親の役割をせねばならなくなってしまいます。「自分が頑張れば何とかなるかもしれない」と、重い荷物を背負ってしまう。
<罪悪感を感じる子ども>
暴力を振るわれるという被害者である子どもが、「自分が悪い子だから」とか「自分が何かいけないことをしたから」と思ってしまうのだという。
子どもは「親が間違っている」とか「親が悪い」ということを、信じられません。なのでそこに、否認が入る。結果、自分を責めてしまいがちです。
「親が間違っている」→「いや、自分が何かを間違ったのだ」
「親が悪い」→「いや、自分が何か悪いことをしたのだ」
とにかく否認したいので、何か理由を探す。ちょうどいい理由があればそれを信じるし、仮になかったとしても、「ともかく自分が悪いのだろう」というところに落ち着いてしまいます。(この「自分」が「社会」になったり、他の何かになることもあるでしょう)
この健気な行為の結果としてどうなるのかといえば、子どもは自分を責めるパターンを身につけ、強化し、何かにつけて自分を疑ったり、自分のせいにしてしまうようになります。
子どもであれば何か間違うこともある。子どもであれば多少悪いこともする。この当たり前のことが、「きっと自分が…」を強化し、正当化してしまうことも。「親は間違っておらず、自分が悪いに決まっている」、この信仰は成人後にもつきまとうことが多いといいます。
このようなことは、単に子ども時代だけでなく、その後の人生にも大きな影響を与えます。思い込みが思い込みを生み、「自分はダメ人間だ」「何をやっても、うまくいくわけがない」「幸せなど一生来ない」、そう思い込んでしまうことも。目の前で起こっていることより、長年付き合ってきた<考え方>の方が勝ってしまうんですね。なので、「けっこうやれたこと」や「なかなかうまくいったこと」、「ちょっと幸せだったこと」が、考えに覆い隠され、見えなくなってしまいます。
その結果として、不安になったり、理由もなくイライラしたりと、よく分からない症状に悩まされることも。
「気まぐれさ」や「一貫性のなさ」が、余計に子どもを混乱させるという。
継続的に暴力を振るう親でも、時には愛情を見せたりする。子どものために何かすることだって、あるでしょう。これが親を信じたい子どもにとっては、拠り所になります。確かに暴力は振るわれたかもしれない、でも、やさしいところもあった。そうやって、子どもから進んで、親を正当化しようと努める。
これは例えるなら、喉が渇いている時に水を与えられた状態。あるいは、空腹でどうしようもない時に、食事を与えてもらったような状態。喉を潤せたこと、空腹を満たせたことに、大いに感謝します。そして、喉が渇いてしょうがない状態にしたのは誰か? 飢餓状態になるまで食事を与えなかったのは誰か? そういうことが忘れ去られています。
しかし、これは人情です。たとえ無いものでも、あると信じたい。誰も責めることはできません。
ただ、それを解消しないことには、人生が前に進まないだけです。
このような状況にあっても、子は自分で何とかしようと健気に頑張ろうとします。自分が頑張ればと荷物を背負うし、きっと何かをきっかけとして好転すると期待を抱く。
この期待や希望が、秘密を作ってしまうといいます。きっと好転するに違いない、なので、今の状況は誰にも話さないでおこうと、口をつぐんでしまうのです。また、自分の家は普通だと信じたい気持ちもあるので、余計に黙ってしまう。
そして結果としてどうなるのかといえば、救いの手はいつまでたっても現れないということに。逃げ場も、作れません。
自分のせいだと思いたい子どもですが、暴力を振るわれ、おまえのせいだと言われ、重荷を背負わされ、与えられるはずのものを与えられずと、このような状態が続いているのに何も起こらないはずがありません。いくら気づかないふりをしても、いくら抑え込もうとしても、怒りは蓄積されているものです。
人は怒りをコントロールしようとします。でも、それも、場合場合。人はまずそれを抑え込もうとしますが、それがどういう意味を持つか、よく考えねばなりません。感情は内から溢れるものであり、行き先を探しています。なので、それを抑えつけてばかりだと、蓄積されてしまうのです。
感情は確かに抑え、コントロールせねばならない。でも、同じことをするのにも、短期的なものと長期的なもの、それで意味は違ってくるのです。例えば、たまに甘いものを食べるのと始終甘いものを食べるのでは、体に与える影響が違います。「ずっとそう」なのは、蓄積されてしまいます。
というわけで、溜まりに溜まった怒りが大人になって表に出てくることも少なくありません。
この時、外に怒りが向けば、何かにつけ怒るようになったりするし、場合によっては、子どもに怒りをぶつけるようになってしまいます。また、内に向かったとすれば、理由もなく自分を傷つけるようになったり、訳の分からない不安やイライラなどに悩まされることになる。
怒りに対する方法は、過剰にコントロールしようとして抑えつけるのでもなく、かといってそれに支配され行動化させるのでもなく、うまく外に出すこと、つまり、怒りを表現することが大切なようです。
溜めるのが問題なので、外に出す。でも、出し方を間違えると危ないので、ちょうどいいぐらいに出す。ちょうどいいくらいといっても、何も上手に出すこともなく、初め不器用でもいいので、だんだんと出し方を覚えるということになるのでしょう。
この辺のことも、第二部に出てくると思われます。
次回に続く…
<チェックシート>
・子どもに暴力を振るってないか?/親に暴力を振るわれてないか?
・子どもに親に対する要求を向けてないか?/向けられてないか?
・子どもを所有物だと思ってないか?/そう思われてないか?
・子どもを守っているか?/親に守ってもらった経験があるか?
・「自分が頑張れば」「自分が力不足だから」と、自分を責めてないか?
(分かりにくい場合は、小さい子がそうされている場面を想像してみてください。そして、何か助言したくなったら、心の中で、何か言ってあげて下さい)
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