第5回『言葉で傷つける親/子どもと対抗する親』
<言葉で傷つける親>
人を傷つけるのは何も、体罰など肉体に対する暴力だけではありません。言葉の暴力でも、人は傷つけられます。特に、本来守ってくれるはずの親に傷つけられると、すごくこたえる。また、身近な存在なので、それは「いつも」につながりやすい面も。
さらには、言葉による暴力は目に見えにくいという難点を持っています。肉体的な暴力の場合、傷や痕(あと)が残ります。なので、別の場所で第三者が気づくことも可能。でも、言葉による暴力は、その瞬間でも見ない限り、気づけません。(残念なことに、それでも気づけない場合もある)
前に、「自然治癒と虐待」という記事で書きましたが、虐待とは「保護下にある人や動物などに対し、長期間にわたって苦痛を与えること」といえるのでしょう。
誰だってきつい言葉を吐くこともあれば、時には罵ることもあるでしょう。でもそれが「稀に」ならば、虐待とは言いにくいと。逆に、それが長期間に及ぶものであれば、虐待の色が濃くなる。
なお、本の中では、このように述べられています。
子供の「身体的特徴」「知能」「能力」「人間としての価値」などについて、日常的かつ執拗に、ひどい言葉で攻撃を加えるのは虐待である。
(P113)
さらに本によれば、言葉で傷つける親にも、2種類あるという。1つは、はっきりと露骨に罵るタイプ。これは、分かりやすいですね。でも、もう1つは分かりにくい。からかったり、嫌味を言ったり、屈辱的なあだ名をつけたり、ちょっとずつ けなしたりという、陰険な方法をとる人もいる。世にあるイジメと同じで、「ちょっと からかっただけ」や「じゃれてただけ」というのの後ろに、人間が隠れてしまっています。それでいて、執拗に言葉で追い詰める。
これもいろんなところで書いていますが、ちょっとした傷なら、すぐ治る。でも、何度も加えたような傷、執拗に繰り返したような傷は、なかなか治りません。場合によっては、深い傷となって残り、後々にも影響を与えるでしょう。
これは、肉体的な傷も、精神的な傷も同じ。毎日毎日罵られたり、毎日毎日からかわれたり、そうすれば、それは傷となって、後に何らかの影響を及ぼしてくるのです。
大人なら、それなりの防御力があるでしょう。「それは違う」と言ったり、言わないまでも、思うことはできます。でも、子どもは――特に小さい子は――親の言うことは素直に受け取ってしまいます。「○○」と言われれは、「ボクは(わたしは)○○なのか」と信じてしまう。
そしてそれがいかに心を傷つけるか。落ち込ませるか。
確かにこのようなことは生きていればあるでしょう。避けられないのかもしれない。でも、「稀に」と「いつも」では、明確に違うのです。傷のありようが、全然違います。
とはいえ、人間なら誰しも、冗談は言います。人をからかうこともある。なので、本では、以下の3つの要素に注目している。
(1) 何を冗談のタネにしているのか
(2) 残酷さの程度
(3) その発言の頻度
(P115)
少し脱線するなら、いわゆるイジメなどの場合は、ここに、「相手との関係」や「相手の気持ち」が入ると思われます。というのは、同等の間柄でじゃれ合っているのか? 相手の表情はどうか? 表情の奥の気持ちはどうだろう? ということ。
それを忘れると、相手を追いこんでしまいそうです。
からかいや罵りの困った点には、なかなか反論できないという点があるのかもしれません。
まず、親子関係があるので、反論しにくい。さらには本に書かれているように、反論しかけると「冗談の分からないやつだ」と言われてしまう。この場合、親が、冗談の後ろに隠れてしまっている。冗談の後ろに隠れて、人を攻撃しているわけです。
さらには、周囲も気づかなかったりするので、困ります。周りが分かってくれない、救ってくれる人がいないというのは、すごくこたえるのです。
さらには、小さければ小さいほど、自分が親にひどい目に遭っているということを認められません。なので、モヤモヤをすごく溜め込んでしまう。怒りと認識される前のモヤモヤが、ずっとずっと、心の押し入れに溜まってしまうのです。
人間には、性格があります。それによって、いろんなタイプに分かれる。外向的な人、内向的な人、感情的な人、思考タイプの人、いろいろいます。
でも、単に性格によるものではないものも、あるようです。それはいわば、「反応」。悲しい場面に接すれば、人の中で、それに応じた反応が生じる。うれしい場面もそう、楽しい場面もそう、泣きたくなったり、落ち込んだり、いろいろあります。
いつも罵られる、いつも馬鹿にされる。すると当然、ネガティブな反応が生じるでしょう。しかも、「いつも」なので、その溝は深く刻まれます。つまり、パターン化される。
こうして、人は性格とはまた別に、ネガティブ反応という感情パターンを身につけることになってしまいます。
<子どもと対抗する親>
子どもを言葉で傷つけながら、親は口実を使うという。「おまえのためだ」「世の中の厳しさを教えるためだ」「みんな、こんなものなんだ」、そう言って、自分を正当化しようとする。
また、子どもは素直なので、それを信じてしまいます。あるいは、信じたいと願う。親が虐待しているなんて堪らないので、自分のためだと思いたい。
自信は、成功体験の積み重ねだという。でも、いつも けなされたり、馬鹿にされたら、どうなるだろう? 子どもの「親を信じる」という性質を考えたら、どうだろう? 気持ちは反応だということを考慮したら、どうだろう?
はたして、自信は育つのだろうか?
これが子どものためなのだろうか?
何のプラスになるというのだろうか?
世の中には、自分が優位になっていないと落ち着かない人がいます。またこれを、親子関係でもやろうとする人がいる。自分(親)が何事にも勝っているのだと証明するために、いちいち子どものあらを探し、いかに駄目か、いかに劣っているか、教えようとする。
これはもちろん、自信のなさの裏返しですね。自信のある人は、いちいち証明する必要を感じません。
子どもに対抗しようとする親は、子の成果が認められません。まるでライバル関係があるかのように、子どもが成功すると、カッとなったりする。普通なら子どもが何かできるようになったら喜びそうなものですが、むしろ、何とも言えない気持ちになる。
勝たないと気がすまない親は、子の成長を素直に喜べない。受け容れられない。そこには「自分が負けるかもしれない」という脅威があるのです。なので何かネタを探しては、貶めないことには気がすまない。勝ってないと、安心できません。
しかし、そういう親を一方的に責めることもできません。そこには、常に勝たなければならない事情があるから。常に優位を証明しなければならない、理由があるから。彼らもまた、自信を育ててもらえなかった犠牲者であることが多いのです。
こんな状況に置かれると、子はなかなか自分の成功を喜べないという。1つには、成功すればするほど、親が攻撃的になるから。もう1つは、自分が成功することで親が傷つき、打ちのめされるから。
健全な家庭なら、親は子の成功を喜ぶ。その姿を見て、子どもも喜んだり、一層のやる気を示したりします。でも、このような状況では、それがないどころか、真逆の効果が出てしまうのです。
こうして、競争相手にされている子どもは、自分の成功に後ろめたさを感じてしまいます。
やりきれなさと共に、生きてゆくことになる。
次回に続く…
<チェックシート>
・日常的に、罵ってないか?/罵られてないか?
・日常的に、からかってないか?/からかわれてないか?
・子どもの劣っている点を、いちいち探してないか?/探されてないか?
(分かりにくい場合は、小さな子がそうされている場面を想像してみてください。そして、何か助言したくなったら、心の中で、声をかけてみてあげてください)
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