★『動くことで気分を変える、虚無主義・ぐずぐず主義』★
「ニヒリズム・虚無主義」
うつ症状になると、身動きがとれなくなります。やる気や使命感があっても、どうにも動けなくなる。ここに理屈はありません。ただ、事実として動けないのです。
そこで人は、理屈や善悪を考えてしまう。なぜ? どうして? そして、動けないことを悪として、責めてしまう。自分を責めたり、相手を責めたり。
でも、それは頭の考えです。うつ症状を心と身体のストライキだと考えれば、頭の理屈が心や身体に通用しないことが分かります。むしろ、そういった限定された頭の思い込みが、動けない症状を生んでいるとさえいえる。心や身体は、頭が見逃している意味や必要性をもって、動かないようにしているのです。
(ブログ参照:「シリーズ うつ病」)
ただ、ここではそういうのは置いといて、動くことで気分は変わるということを学んでいきましょう。
前回までは、気分は考え方次第で変わるということを学びました。ここでは、動くことの意味を、勉強していきます。
うつが引き起こす症状に、ニヒリズム・虚無主義があります。
虚無とは、何ものもなく むなしいことや、目の前のものに価値や意味を見いだせないことなど。ニヒリズム(虚無主義)とは、目に見えるものすべてをことごとく否定してしまうような考え方や態度。虚無に襲われると、今まで疑わなかった価値が崩壊してきます。そして、目標も無くなり、自分を突き動かす理由も無くなる、ひいては、人生の意味を失います。この無い無いづくしが、虚無主義の状態です。
人にも世界にも意味が見いだせなくなり、やがて、動けなくなる。
ただこれがまったく悪いことかというと、そうでもないようです。疑うことも必要だし、疑うことを知らないのは怖いことだったりする。そう考えると、一度価値観をリセットするというのは、むしろ必要な気さえします。
一度作ったものをリセットし、そこから再適応する。うつの症状は、その過程の一部なのかもしれません。
さて、認知の歪みを持ってしまうと、あとで気づけば笑ってしまうような思い込みをしてしまうものです。
これは実際にそうしてしまうということではありませんが、まるで極寒の中を薄着で過ごすような、それに似たようなことをしてしまいます。それも、頑固に止めずに続ける。
こういった場合に必要なことは、何でしょうか? 説得? 説明? そうではなくて、ともかく服を着ることですよね。あるいは、暖をとること。
こういった状況を想像すると笑ってしまうかもしれませんが、それに似たことを我々はしているものですよ。そんなことをしながら、もう暖まることはないと信じ切ってしまいます。裸でいながら、もうだめだと、うずくまっているのです。
暖かいと感じるのは、感覚です。でも、感覚そのものをどうこすることはできません。寒い中に、寒いと感じるような状況でいるなら、当たり前に寒さを感じる。上に書いた けったいな例は、それを示しています。
そして――これまた当たり前ですが――寒いという感覚から暖かいという感覚に移行するには、厚着をしたり、暖をとったりと、そういった実際の行動がものをいうようになります。なのに、我々はそれを案外、忘れてしまうようです。頑なになった自我は、それをしようとはしなかったり、固定化された視点のために、そういうものが見えなくなっている、気づかなくなっているものなのです。
無い無い尽くしの虚無主義ですが、それが本当に無いのか、そう思い込んでいるだけなのか、それは検証してみないと分かりません。検証しないというのが認知の歪みの罠であることは、もう学びましたよね。
例えば、「やる気が起こらない」とか「エネルギーがない」というのは、本当。動くに動けません。
でも、「ずっとこのままなんだ」とか「何をやってもダメなんだ」というのは、どうでしょう? これには、根拠がないように思います。そう思ってしまうのは事実だけど、それが実際にそうなるかは、はっきりしない。我々は予言者ではありませんから。
「くずくず主義の心理状態」
デビッド・D・バーンズは、「いやな気分よ、さようなら」の中で、ぐずぐず主義や虚無主義に見られやすい心理状態を紹介してくれています。
絶望
絶望感があるのは、本当。でも、絶望が続くかは、未定。
過去−現在−未来を混同すると、ずっと絶望的なのかと誤解してしまいます。今の絶望に囚われ、必ずしもそればかりではなかった過去や、未確定な未来を、絶望の色に自ら染めてしまいます。
過去にはきっと、いいことも悪いことも、両方あった。そして、何でもないことが一番多い。未来については、そのすべてを知ることはできません。そして、予想が外れることを、我々は経験的に学んでいます。
無力感
気分そのものは、どうにもできないんでしょう。でも、気分は結果として出てくるものなので、考えや行動を変えれば、自ずと変わって来るようです。
寒い所にいれば寒いし、あったかい所に行けば、そうではなくなる。
気分は出てくるもの、湧いてくるもので、決定されているものでも、固定化されたものでもありません。水がそうであるように、流れを変えれば、流れ着く先も変わるようです。
圧倒されること
人は自分で、圧倒されることを作ってしまう。
先の先まで考えすぎて、それをやるのは不可能だと、頭を抱えてしまいます。例えば、分厚い本を前にして、こんなものを読破するのは無理だと、途方に暮れてしまう。
あるいは、入社したばかりの新人は、ベテラン社員の仕事を見て、とてもあの人のようにはなれないと、憂うつな気分になるかもしれません。
これは、一度にできない、いっぺんになれない、という意味では、事実です。なぜなら、太い本はだんだんと読み進めるものだし、ベテランにはだんだんなるものだから。ということは、裏を返すと、ちょっとずつ読めばいずれは読破できるし、ちょっとずつ経験を積めばベテランになる、そういう事実をも示していることになります。
憂うつな気分は、この「だんだん」とか「ちょっとずつ」を困難にします。ずっと先を見るので、目の前の仕事が御留守になるのです。マラソンに例えるなら、先にあるゴールのことばかり考えて、走るのをやめてしまうような状態。ある人は長距離を走る時は、あそこの電柱までとか、あそこの橋までとか、短い区間を設定し、気分を変えるのだと聞いたことがあります。また、走っていると、そのうちゴールのことは忘れるものだと思う。というか、競技は別にして、ゴールのことばかり考えていると、心的な負担が大きいですよね。
憂うつな気分の時はこのように、先のことを考えて、考えすぎて、自分で自分を圧倒させてしまうようです。
早合点
認知の歪みにやられている時は、よく聞くとかよく確かめるとかが苦手になります。よく聞かないうちに、ああ分かりましたと言ってしまったり、確かめないままに何かをしようとしたりしてしまう。
それで失敗すると落ち込んでしまうわけですが、逆に考えると、よく聞く癖、確かめる癖が身につけば、解消できそうですよね。
うつ状態に現れる早合点といえば、「どうせ無理」とか「ダメに決まっている」というもの。これは上で述べた「圧倒されるもの」でも出てきますが、些細なことでも出てくるようです。本当はできることでも、そう思ってしまう。早合点して、できないと決めつけてしまいます。
あるいは一度の経験が、その後に影響を与えてしまう。
レッテル貼り
自分は「ダメ人間だ」、「怠け者だ」、「どうしようもない」と決めつけてしまいます。
でも、そこに、根拠はありません。頭の自動処理に、そう思わされているのです。だから、誰もそれを合理的に証明できない。
一つについてそうだから、他のすべてについてもそうとは、言えません。それは、一つひとつ検証しないと、分からない。
報酬を安く見積もってしまうこと
したこと・した努力と、それで得られた成果。そのバランスを、見誤ってしまいます。
例えば、心のフィルターやマイナス化思考があると、よいことが弾かれたり、よいことを悪いことに変換してしまったりする。したがって、得られた成果や報酬を、安く見積もってしまいます。
自分がしたことなんてたいしたことない、そう信じてしまうのです。
完全主義
得られるはずのない完璧を求め、自分を苦しめてしまいます。そして、完璧でない他者のことは、目に入りずらい。
一番困るのは、完璧にできないからと、やることをやめてしまうことです。
ちょっとずつやったら、得られるものは大きいのに。
失敗への恐れ
憂うつな状態にある時は、極度に失敗を恐れます。まるで失敗がすべてを台無しにしてしまうかのように、思ってしまう。そしてその裏には、すべてはコントロールできる、という誤った認識があるのかもしれません。
我々は確かに、コントロールできる部分を持っています。でも、それが難しい部分も、持っている。さらに言うなら、相手の気持ちは、コントロールできません。なので、それに責任を負ってしまうと、とてつもなくしんどくなってしまいます。
失敗を恐れてすることをやめてしまうと、確かに失敗は避けられるかもしれませんが、同時に、得られるはずのものが手に入らなくなってしまいます。確かに完璧にはいかない、でも、そこそこやれて得られるものがある。それが、なくなってしまうのです。
そして裏を返せば、活動をはじめれば完璧とはいかなくても、手に入るものがあるということでもあります。
成功への恐れ
弱っている時は、成功さえ負担になるようです。例えば、成功しても、その成功を保つことに不安や負担を感じてしまう。また、相手の期待を拡大して受け取り、押しつぶされそうになることも。
不吉な予感が頭をよぎり、成功の後の失敗を想って、憂うつになったりもします。
マイナスへマイナスへと流れている時は、成功さえも否定的なものになってしまうようですね。
非難や批判への恐れ
人間であるから、失敗や間違いはつきもの。すると、何かを行えば失敗や間違いが起こり、それを非難されたり批判されたりする。その恐れが大きくなると、何かをやるという行為が怖くなります。
これは実体験によりそうなる場合もありますが、想像によりそうなる場合もある。恐れがどんどん膨らんで、身動きがとれなくなります。拒絶されるという恐怖が、心と身体をこわばらせます。
プレッシャーと反発
誰だって、ガミガミ言われるのは大嫌い。でも人は、自分で自分にガミガミ言うことだってあるようです。認知の歪みのひとつ、「すべき思考」もそのひとつ。「○○しなければならない」「○○すべきだ」、そんな考えのもと、自分で自分を監視します。
正しいことが優位に立って、ギスギスしたものになってしまう。さらには、できないことを責めたりもする。
人間の中の上位者がそれを強要し、下の者はそれに従う。上とは頭で、下とは心や身体。頭は強要し、心や身体は緊張したり、疲れたり。そしてそのうち、反発しだします。(さらには、「超自我」というものまである)
うつ症状とは、心や身体のストライキです。
フラストレーション許容力の低下
これも完璧主義の産物。設定していたゴールを邪魔されるのが赦せません。
やろうと思っていたこと、やれると思っていたことを邪魔されるのは誰だって嫌なのですが、その許容ラインが著しく下がった状態。余裕がない時は、些細なことも赦せません。障害に対し、怒りや恨みが出てくる。
(といっても、障害を与えている方が無関心な場合もあるので、ややこしいですが。この点も、見逃されがちですね)
デビッド・D・バーンズは、これは理想と現実とを比較してしまう癖が原因なのだと言っています。なので、少しでも理想とズレると、イライラしたり赦せなくなってしまう。そして、現実を非難する。
フラストレーション許容力の低下が生み出すのは、怒りと諦め。やることを諦めることで、手に入らないものが出てしまいます。確かに完璧ではない、でも手に入るものもある、そこになかなか視点が向かない。
罪と自責の念
罪への意識や自責の念は ないと困るものですが、必要以上に持つこともありません。でも、自分を責める癖がついていると、関係が薄いことでも背負い込んでしまいます。全部自分が悪いんだ、と思ってしまう。
自分が悪いのだと思う → みんな非難したり軽蔑したりするだろう。そんな想いが気分を落ち込ませ、行動を制限させることも。
上記のような考えは、心を委縮させ、やる気をそぐようです。そんな気分になるくらいなら何もしない方がいいと、そうなってしまう。
でも、ここにも勘違いがあるようです。やる気をそぐ原因となっているのは考え方で、それをするからではない。むしろ、しないことで考え方が強化され、余計に気分は落ち込みます。
ひとつには、何かをすれば神経や感覚はそちらに向かいますが、何もしないと否定的な考えの方ばかりに神経が行ってしまいます。悪いことばかり考えてしまう。また、やったら得られるはずの成功体験や達成感がなくなるので、余計に憂うつになりやすい。
自己批判は何もしてない時の方が、起こりやすいようです。
虚無やぐずぐず主義の状態とは、動くのを止めて、物事を否定することに全精力を注いでいるような状態。
だから、そのエネルギーを別の方向に使えば、考え自体は弱まってきます…
<<「第3回 役割、完璧主義、相手のために」
「第5回 日常活動スケジュール、ぐずぐず主義克服シート、満足-予想表」>>
ページの先頭に戻る