★『トリプルカラム法』★
「気持ちや感情は変えなくていい」
うつ症状とは、気分が滅入って力が入らなかったり、何もやる気が起こらないような状態。そこには不安があったり、劣等感があったり、自己否定、絶望感、物事を悪い方にばかり考え悲観するといった厭世観(えんせいかん)などが、あったりする。
これらは、気分だったり、感情だったり、考え方だったします。そして、これらを抑え込もうとしても、なかなかできません。考えないようにしていても、勝手に、自然に、出てくる。
でも、この内で、ひとつだけ、何とかなりそうなものがあります。それは何でしょうか?
それは、「考え方」です。
気分や感情は、心の奥の方から出てくるもの。無意識から出るものだし、どちらかといえば本能的なものだったり、人間の持つ反応であったりする。なので、意識でコントロールすることが難しい。
でも、考え方というのは、頭でするもの。なので、意識で何とかなりそうです。
そうはいっても、考え方をなおすのも困難だ。そう言われるかもしれません。また、それは真実なんでしょう。半分としては。
認知の歪みは <癖> のようなもの、<強固なパターン> のようなものですから、それを打ち破るのは骨が折れそうです。でも、不可能かというと、そうでもない。むしろ可能性はあります。
みなさんの身の回りには、ダイエットに成功した人や、きれいに片づけられるようになった人はいませんか? それが<変わる>ということで、<癖やパターンを克服する>ということ。難しい部分もありながら、根本的に無理というものではない。むしろ、やっておられる人、変わった人、克服した人が、たくさん存在します。
では、そんな人は、どうしているか?
ざっくりいえば、続けているんでしょう。前の癖を捨てるまで、前のパターンを打ち破るまで、続けて、新しいものを習慣にしたのです。認知の歪み、その修正だって、同じこと。すぐには無理ですが、はじめできる範囲でやり、それを続ければ、癖を捨て去って、新たな習慣を獲得できる可能性に満ちています。
ただ気をつけたいのが、認知の歪みには、「すぐに結果を欲しがる」とか「すぐにうまくいかないとダメだと思ってしまう」とか、そんな傾向があること。こういった考え方の癖を捨てるためにやるのですから、この歪みに負けないでください。この考えこそが、敵です。
逆に、「あっ、ちょっとよくなった」とか「少し変わってきた」、これらを実感するのが助けになるのだと思います。
時には、あなたの頑張りを貶めようとする人が出てくるかもしれません。でも、よく観察して下さい。その人こそ、認知の歪みを持っていたりします。「すぐに結果を求める」「ひとつのダメな部分を拡大する」「個人の経験を一般化する」、その他もろもろの歪みが、そこにあるかもしれません。認知の歪みを持った人は、馬鹿げた批判をします。なので、取り合うことはありません。
あなたはこれから歪みを卒業する人ですから、そんな馬鹿げたことで心を惑わす必要は、もうないのです。
「トリプルカラム法」
デビット・D・バーンズは、「いやな気分よ、さようなら」の中で、トリプルカラム法というものを、紹介してくれています。(P58)
カラムという言葉は、ブログのスタイル設定などで出てきますよね。表形式のデータで、縦の列のことを言います。トリプルカラムとは、縦に3列ある表のこと。
一番左には、バーンズのいうところの「自動思考」を書きます。その時、どんな考えが自動で出てきたかを、記述する。
例えば、失敗した時に、「自分はどうしようもない無価値な人間だ」と思ったとしましょう。また、「今後もずっと同じようなミスをするだろう」と思ったとする。そして、「みんなだって陰で馬鹿にしているに違いない」と。
そんな時に、一番左の欄に、それを書き込みます。
次に、二番目の欄「認知の歪み」に記入します。これは今までに学んだ認知の歪みに対し、どんな歪みがそこにあるのか考えてみます。
例えば、「自分はどうしようもない無価値な人間だ」には、一度の失敗ですべてをダメだとしている「全か無か思考」や「レッテル貼り」があるな、となる。「今後もずっと同じようなミスをするだろう」には「過度の一般化」や「結論の飛躍の先読みの誤り」があるな、と分かる。「みんなだって陰で馬鹿にしているに違いない」には、「結論の飛躍の心の読み過ぎ」があります。それらを、横の欄に記入する。
(正確さにこだわることはありません。まずは、書き出す癖をつけましょう。認知の歪みは傾向が重なったりするので、正確さにこだわると進みにくい面があります。まずは、書き出すことを優先しましょうか)
さあ、自分の考えには、認知の歪みがあることが分かりました。そして、もうみなさんは、この自動に浮かぶ考えに根拠や整合性がないことを知っています。気持ちとしてはそうだけれど、実際にそうではないことを、知っている。だから、疑問を持ってみましょうか。
「○○で失敗した」と「自分はどうしようもない無価値な人間だ」には、「=(イコール)」でつなげられる根拠や整合性が、あるでしょうか? いや、気持ちや自動に浮かぶ考えはあるんですよ。でも、それとは別の、客観的な根拠はありますか?
失敗した事実や、浮かんだ気持ちを消すことはありません。それはそれとして、自分を無価値だとする根拠は?
ということは、「確かにミスはしたが、無価値ではない」ということになります。
「今後もずっと同じようなミスをするだろう」は、どうでしょう? そんな感情や予感はあるのでしょう。でも、それを示す根拠や整合性は? 「きっとそうなる」というのは、根拠や整合性にはなりませんよ。「そういう気がしているだけ」です。ということは、根拠も整合性もないことになります。
なので、「今後ずっとミスするとは限らない」「むしろ注意すれば、避けられる」「今までだって、ずっとミスしてきたわけじゃない」となります。
「みんなだって陰で馬鹿にしているに違いない」は、どうでしょう。確かに、そう思えてしまう。でも、それを確かだとする客観的な根拠はあるでしょうか? もしなければ、そう思っているだけで、証明するものがないことが分かります。
さらには、「仮にミスに対して怒るにしても、馬鹿にしているとは限らない」「ひとつのミスで馬鹿にするなら、それこそ認知の歪みじゃないか」「ひとつのミスではびくともしない」「それより、同じミスは繰り返さないように注意しよう」などとなります。
犯したミスには反省をするのですが、人格を傷つけることはありません。ミスを受け止め、それを避ける方法を探した方が、気が利いているし、自分のためにも、相手のためにもなります。
これらはあくまで例ですが、こんな風に、記入してみるんですね。
気分や感情そのものを操作するのは、もうこの際、放棄しましょう。それは人間の自然な反応だから。
「自分はどうしようもない」と考えれば、当たり前に気分は滅入ります。それは自然な心の反応。
でも、問題は、実際には「自分はどうしようもない、ということはない」ということ。「無価値ではない」のに、考え方で無価値だと断定してしまっています。この、認知の歪みこそ、解消すべきなのです。
いつの間にか癖になっていて、否定的なものを拡大したり、一事を万事にしたり、悪い予想をしたり、そうやって、気分が沈むような考えになっています。
なので、まず、認知を修正してみましょう。事実ではないことで、気持ちが沈んでいるのだから。(上の例だと、失敗は事実。でも、その先が事実とは異なっています)
気分が沈んでいる時などは、うまく書けないかもしれません。でも、それもいいじゃないですか。明日も、その次もあるんですから。やれる時に、やればいい。今日ダメだからずっとダメということではありません。それって、認知の歪みですよね。落ち込む日もあれば、そうでない日もあるんだから。今までだって、そうだったでしょ? 焦りや不吉な予感も、認知の歪みの産物です。
なお、「いやな気分よ、さようなら」には、「歪んだ考えの日常記録」というものも紹介されているので、興味ある人はどうぞ。(P62)
「書くことの意味」
ところで、記述することには、どんな意味があるでしょうか?
ひとつには、客観性を持てる。気分や感情は、主観です。「わたしはダメだ」というのは主観で、客観的な事実とは異なる自分の気持ちや考え。認知の歪みでは、それが客観的な事実より勝ってしまいます。だからこそ、書くことで、客観性に目を向けることができる。
もうひとつは、自動処理への抵抗。認知の歪みは自動でそうなるので、なかなか対処しにくいようです。瞬時の対応は、難しい。だから、あとで検証してみる。書いて、見て、考えて、こういった手順を踏むことで、自動処理の呪縛から逃れ、順序を経て検証できる。
敵は、自動処理です。気持ちや感情ではない。気持ちや感情は無垢で、何にでも素直に反応します。そこに、問題はありません。ただ、歪んだ認知が、おかしなものを見せ、気持ちや感情の反応を、歪めているのです。気持ちや感情は自然と同じですから、それはそのままでいい。認知の歪みだけを、何とかしましょう。
さあ、気分が大丈夫なら、練習してみてください。癖を捨てられるほど、練習すればいい。ただし、濃くやるよりは、続けることの方が大切なようです。運動でも、そうでしょ? いきなりやりすぎると、嫌になります。でも、できる範囲だと続けられるし、続けるうちに、できる範囲も広がる。そして何より、身についていきます。
できる範囲で、ほどほどに。そして、身につくまで、続けてみる。
そのうち、練習が必要なくなるくらいに…
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