【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
ここでは、デビッド・D・バーンズ「いやな気分よ、さようなら」をテキストに進めます。
このページは、「役割、完璧主義、相手のために、書く意味」について。

『役割、完璧主義、相手のために』




「役割」


うつ病になる人は、責任感が強かったり、生真面目だったりすると、よく言われます。あるいは、相手のことを考える人だったりする。

責任感があり、真面目で、相手のことを考える。これは素晴らしいことですが、認知の歪みが、それをも歪めてしまうようです。

例えば、完璧主義といったものが、気分を落ち込ませる。責任ある行動や、真面目な態度、これらを24時間求めても無理なことは、お分かりいただけると思います。理想ではあるけれど、現実的には無理。また、実際にやられると、迷惑になることさえあります。

何故かというと、例えば、責任感にあふれる社長さんが家でもそうであったら、どうでしょう? 真面目な先生が、家に帰ってからもそうだったら? 委員長が遊ぶ時も委員長だったら?

これらは、必ずしも、悪いことではない。むしろ、よい面もたくさんあります。ただ、家に社長さんや先生はいるけど、お父さんやお母さんがいない、といった場合もあるようです。戸籍上の人はいても、役割としては不在だとか。

人にはいろんな時間があって、社長さんや先生の時間もあれば、夫や妻の時間もあるし、父親や母親の時間もあるでしょう。恋人の時間も、あるかもしれない。あるいは、それらをとっぱらった、ひとりの生身の人間の時間だって、あります。

そして、何かひとつだけにこだわり、その仮面や制服を1日中、身につけているとしたら、さて、どうなるでしょうか?

あと、頭が理想を目指すにしても、身体や心がそれに従うかは、また別問題です。前にも書きましたが、身体や心は正直なので、理屈は考えません。善悪は抜きにして、反応したり、要求したりする。

それをあまりに無視すると、心や身体はストライキを起こします。うつ病の症状は、その現れでもあるのです。

(ブログより 「シリーズ うつ病の目次」


役割とは、ユング心理学でいうペルソナにも関係します。仮面は仮面で大事なのですが、それにこだわり過ぎると、中にある人間の部分が、まいってきてしまいます。

あるいは、それを制服とするならば、家に帰った時や、友人に会う時、リラックスタイムや恋人との時間、そんな時には脱がないと、ちょっと へんてこ になりますよね。キメる時はキメるし、ゆるめる時はゆるめる。そういうメリハリも、必要なようですよ。

(参照: 「ペルソナとアニマ・アニムス」



「相手のこと」

相手のことを考える、ということに関しては、どうでしょう?

認知の歪みを持つと、ここにも落とし穴が待っている。


例えば、「感情的決めつけ」。これを持つ時、自分の感情と客観的な事実や相手の感情が、混同されてしまいます。なので、「自分がよいと思うこと」と「実際によいこと」や「相手が望んでいること」が、ごっちゃになってしまいます。

そして、そこにギャップが生じても それを無視するので、ややこしいことになってしまいます。すなわち、よいことだと信じて、実際には よいとはいえないことや、相手が望んでないことを、やり続ける。

そして一番厄介なのが、「相手のことを思う」のだけれど、「相手の気持ちは考えない」というおかしな布置が形成されてしまうことです。

すなわち、「相手のことを自分が考える」「相手によいと思うものを自分が決める」ということはしても、「実際に相手がどう思っているか」については、目を向けないのです。相手のことを考えるのに、相手の感情は無視してしまう。そんなことに、なってしまいます。

(このような布置が、大きな事件の背後に見えることだってあるようです)



「完璧主義」

あるいは、上述の完璧主義に関しては、どうなるでしょうか?

相手のことを想い、完璧な○○になろうとする(完璧な父親や母親、完璧な先生、完璧な先輩や上司)。しかし、完璧な人などいないので、だいたい欠けたものが見えてしまう。

この時、オール・オア・ナッシングを持っていれば、ひとつが欠けているとダメな自分だと思えてしまうでしょう。また、心のフィルターやマイナス化思考により、悪い部分にばかり注目してしまうかもしれない。その他の認知の歪みでも、自分にダメの烙印を押してしまいかねません。

あまりに完璧にやろうとして、(それは素晴らしいことなのに)自分を責めてしまいます。ダメな○○だと信じて、疑わない。

そして困るのが、そこに留まって先に進まないことです。自分を責め、ダメの烙印を押し、結果、実際にすべきことをしなくなってしまう。責めるのに力が使われるので、実際にすることが御留守になってしまいます。こんな勿体ない(もったいない)ことが、生じてしまうのです。

ただ、そんな実際にしない自分はダメ、ということではありませんよ。自動思考・自動処理が、邪魔をしているのです。パターンや癖により、力が自分を否定する方向に使われているだけ。

ということは、その経路を修正すれば、何とでもなることになります。


ここで難しいのは、自分を疑うこと自体はダメではないことです。むしろ、必要でさえある。

前述の例でいえば、「自分の感情と相手の感情」「自分が良いと思うことと、実際によいこと」、それらの乖離にはいずれ目を向けねばなりません。それに、完璧な人がいいのかというと、そうでもなくて、家でも完璧な社長、家でも完璧な先生、家でも完璧な○○となると、相手にしろ、自分の深い部分にしろ、堪らなくなるかもしれません。そういった意味で、疑うことは悪くはない。

しかし、認知の歪みは、自分を責めることばかりに一生懸命にさせるので、建設的な方向に なかなか向かいません。歪みにより、おかしな部分を責めだして、肝心の部分には目がいかないのです。

自動思考・自動処理が、それを邪魔する。

なので、認知の歪みの修正というのは、単に「自分を責めない」ということだけではなく、実は、「いずれは態度を改めていく」という点にまで、及ぶことになります。

とはいえ、それは先の話。今は無用に自分を責めてしまう考え方に待ったをかけ、必要のない落ち込みや疲れを取り除きます。

まずはそこから。

その先は、余裕が出てからで、十分です。





「書くことの意味」


自動思考や自動処理は、自動であるからこそ、厄介です。本当はそこに、合理的な理由などない。理由がないのに、そう思い込まされている。ということは、意識すれば、そこにある不合理に気づけるのでしょう。

そこで、意識する=書く、ということが、助けになります。


トリプルカラム法のように、自動思考(自然と浮かぶ自己批判)を書きだします。そして、それは本当なのか、検証してみる。そして、合理的な反応として、本当はできていることや こうしたらいいと思うことを、その横に書き出す。





[自動思考] → [合理的な反応]

自分は○○をしなかった。 → 実際は、よく注意していた。完璧ではないにしても、△△はやった。

○○すべきだろう。 → 理想としてはそうかもしれない。でも、やり過ぎがいいわけでもない。できる範囲でやろう。そして、相手の気持ちや都合も考えよう。

全部、わたしの責任だ。 → わたしはわたしの行動や態度には責任を持つが、それを超えるものには責任は持てないし、持つ必要もない。すべてを負うのは無理だし、それこそおかしい。

ちゃんと○○していたら、きっと問題は起きなかった。 → そうとは限らない。最善を尽くしても、問題が生じることはある。

結局わたしは最悪だ。 → そういう気持ちに支配されていたが、実は根拠がなかった。完璧ではないにしてもいろんなことをしたわたしは、最悪ではない。それに気づいたわたしは、これからもっとよくなれる。

他の人はよくできている。 → そう思い込んでいたけど、そうではなかった。誰しも、できていることと できていないことがある。そしてそれは、わたしも同じだった。




我々は、勝手な思い込みにより、必要以上に自分を責めてしまいます。反省することや疑うことは何も悪いことではありません。むしろ、必要だったりするでしょう。でも、必要以上にやることはありません。そこに力を使いすぎると、他に力がまわらない。こんな勿体ないことはないですよね。

無意識的な処理、自動思考、それらが認知の歪みの正体です。自動に、勝手に、必要以上に、自分を責めてしまう。なので、気分が落ち込んで、いろんなことが手につかなくなります。

でも、それを打ち破れば、大丈夫。癖やパターンを修正すれば、何とでもなります。

それを阻害するものとして「諦め」や「絶望感」などがありますが、それこそが「認知の歪み」です。そいつをやっつけて続ければ、新しい習慣が身に付き、今までの癖を追い出せます。

人にレッテルを貼るのが馬鹿らしいように、自分にレッテルを貼るのも馬鹿らしい。表面のレッテル(札)よりは、「中身」や「していること」に目を向けましょう。「そんな感じがする」を卒業して、「実際に」確かめましょう。そして、根拠もなく自分を責める、そんな認知の歪みは駆逐してやればいい。

そうすれば、相手を無用に責めることもなくなり、お互いが随分楽になるはずです。

(責めること自体はそんなに悪くありませんが、その程度が問題なんですね)



「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」


自動に自分を責める思考パターンこそが敵です。落ち込む気分そのものは、敵ではありません。

その敵である思考パターンを書き出し、敵を知りましょう。

そしてそれがいかに間違っているか、意識しましょう。いかに実際的でないか、嘘にまみれているか、意識してやりましょう。

そんな馬鹿げたものは、追い出してやればいい。


次には、己を知りましょう。

完璧ではないけれど卑下するものでもない自分。できる自分、持っている自分、可能性に開かれている自分を、フェアに見つめましょう。

そうすれば、もう何も怖くありません。

ありのままの自分を愛して、いいのです。


I am OK! You are OK!


わたしも、あなたも、大丈夫…






<<「第2回 トリプルカラム法」

「第4回 動くことで気分を変える、虚無主義・ぐずぐず主義」>>







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