表紙過去ログ
2008年11月(1):「第6回 場とコンプレックス(1)」
2008年11月(2):「第7回 場とコンプレックス(2)」
2008年11月(3):「第8回 場とコンプレックス(3)」
【2008年11月(1)】
◇「第6回 場とコンプレックス(1)/コンプレックス」◇
(第1回〜第2回はこちら、第3回〜第5回はこちら)
劣等感コンプレックスのない状態を、「わたしは○○ができません」「わたしは△△を持っていません」とか、「あの人は○○ができます」「あの人は△△を持っています」とか、そういうことを無理なく言える状態だとすると、劣等感コンプレックスを持たせないようにする場というのは、どんな場なんでしょうね?
☆
それは大丈夫だと言い合える場、「私は大丈夫」「あなたも大丈夫」、「I’m OK」「You’re OK」、そう言える場なのかもしれません。
劣等感(自分が他より劣っているという感情) というのは誰もが持つものだと思います。多様性のある人間が存在する限り、それぞれできることもあれば、できないこともあります。持っているものもあれば、持っていないものもある。つまり、他人はできるが自分はできないこともあるし、他人は持っているが自分は持っていないものも出てくるでしょう。
そして、劣等感というものにも差がありますよね。多少の感情はあるものの、わりとサラッと「(他の人はできるが)自分はできない」とか「(他の人は持っているが)自分は持っていない」と言える人もいれば、そういう認識がちょろっと出てくるのさえ許せないような、そんな人もおられます。(というか、誰しもそんなものを持つでしょう)
この差は何なんでしょうか。
☆
例えば、前者は、「わたしは××はできないけど、○○はできる」「××は持っていないけれど、○○は持っている」――そういう風に思えているのかもしれません。ともかく、それをできなくても、持っていなくても、自分の存在が脅かされないことを知っています。実感できているのでしょう。
××ができなくても、わたしは大丈夫。××を持っていなくても、わたしは大丈夫。しっかり、そう思えるだけの下地や支えがあるんでしょうね。
ということは、後者ではどうなんでしょう?
☆
そこには絶対的な不動の価値観があるのかもしれません。それも非常に限定された、狭い価値観。
そんな限定された価値観があるとどうなるのかというと、前者の逆になりますわな。
「××できないなんてダメだ」
「××を持っていないなんて、救いがない」
こういう風になってしまうでしょ。
これじゃあ、ひとつのことで自分の存在が脅かされてしまいます。人格否定につながってしまう。まったくひどい話です。
(続きは下に…)
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◇「第6回 場とコンプレックス(1)/コンプレックス」◇
(第1回〜第2回はこちら、第3回〜第5回はこちら)
劣等感コンプレックスのない状態を、「わたしは○○ができません」「わたしは△△を持っていません」とか、「あの人は○○ができます」「あの人は△△を持っています」とか、そういうことを無理なく言える状態だとすると、劣等感コンプレックスを持たせないようにする場というのは、どんな場なんでしょうね?
☆
それは大丈夫だと言い合える場、「私は大丈夫」「あなたも大丈夫」、「I’m OK」「You’re OK」、そう言える場なのかもしれません。
劣等感(自分が他より劣っているという感情) というのは誰もが持つものだと思います。多様性のある人間が存在する限り、それぞれできることもあれば、できないこともあります。持っているものもあれば、持っていないものもある。つまり、他人はできるが自分はできないこともあるし、他人は持っているが自分は持っていないものも出てくるでしょう。
そして、劣等感というものにも差がありますよね。多少の感情はあるものの、わりとサラッと「(他の人はできるが)自分はできない」とか「(他の人は持っているが)自分は持っていない」と言える人もいれば、そういう認識がちょろっと出てくるのさえ許せないような、そんな人もおられます。(というか、誰しもそんなものを持つでしょう)
この差は何なんでしょうか。
☆
例えば、前者は、「わたしは××はできないけど、○○はできる」「××は持っていないけれど、○○は持っている」――そういう風に思えているのかもしれません。ともかく、それをできなくても、持っていなくても、自分の存在が脅かされないことを知っています。実感できているのでしょう。
××ができなくても、わたしは大丈夫。××を持っていなくても、わたしは大丈夫。しっかり、そう思えるだけの下地や支えがあるんでしょうね。
ということは、後者ではどうなんでしょう?
☆
そこには絶対的な不動の価値観があるのかもしれません。それも非常に限定された、狭い価値観。
そんな限定された価値観があるとどうなるのかというと、前者の逆になりますわな。
「××できないなんてダメだ」
「××を持っていないなんて、救いがない」
こういう風になってしまうでしょ。
これじゃあ、ひとつのことで自分の存在が脅かされてしまいます。人格否定につながってしまう。まったくひどい話です。
(続きは下に…)
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【2008年11月(2)】
◇「第7回 場とコンプレックス(2)/コンプレックス」◇
中には、コンプレックスを作り出さないようにと、何にでも「大丈夫、大丈夫」、「問題ない、問題ない」、更に進んで、「そんなこと、しなくていい」「そんなもの、見なくていい」――こういうことを主張する人もいるようです。
☆
しかし、これでコンプレックスが作り出されないかというと、そんなことはないですよね。というか、現実に蓋をしているわけですから、見ないようにしている → 意識させないように努力しているのと同じで、「意識するのが困難」という点では、コンプレックスが生まれるのに手を貸しているようなものなのかもしれません。
だいたい、「大丈夫、大丈夫」、「問題ない、問題ない」と言いながら、「○○ができない」とか「○○を持っていない」というのを、懸命に隠そうとしているわけでしょ。
それは、「○○ができなくても、大丈夫」とか、「○○を持ってなくても、問題ない」というのとは、ちと違うようです。コンプレックスのない状態を、「わたしは○○できません」と無理なく言える状態だとすると、それは「○○できない」というのをちゃんと知っていなければならないわけですから、それを頑なに隠すのはちと違いますよね。
「わたしは○○できません。でも、大丈夫」――それが理想なんです。
それをひた隠しにするのとは、違うんですね。
だいたい、隠そうとするということは、それに対しネガティブな感情なり評価なりを持っているということでしょ。あるいは、隠そうとする人が、その事実に耐えられないのかもしれない。
(↑これは必ずしも責められるものではないですけどね。むしろ人情か)
☆
こうなると、「じゃあ、何でも大っぴらに出せばいいのか」というと、もちろん、そうではないです。
何の準備もないままに大っぴらに出されたら、傷つきます。
だいたい、周囲にも「○○でも大丈夫」なんて考えがあるかどうか分からない。というか、あまり無いのが現実なんでしょう。そうそう準備なんて出来てませんよ。
こういう難しさがあるんですよね。
☆
時に、こういう難しさを無視して、子ども達を集めて、「じゃあ、ひとりずつ、みんなの前で、できないことを宣言してください」なんてことをやりそうな人が出て来そうな気もしますが、相当難しいですよ。
だいたい、人前で言えないからコンプレックスなんだし、意識できないもの、意識したくないものは、そう簡単には出てこんでしょう。(それを出せっていうのは酷だ)
更には、それを受け取るだけのものがないことろに、何でも出していいものではない。それを嘲笑されたり、笑わないまでも引かれたり、そうするとやっぱり傷つきます。そして、引くほうにしても、やっぱり準備ができていないんだから、そりゃ無理ですよ。ビックリします。
こういう、かなりデリケートな問題なので、「ひとつ試しにやってみるか」でやっていい代物ではないんでしょうね。
後々傷が残ってしまう。
☆
だいたいが、大人でもできないことを子どもにやらせるのは賛成しかねます。
大人だってコンプレックスに悩み、あるいは傷つけられている。そうでしょ? 「○○でも大丈夫」なんて思えないことが多い。
なのに、それをすっ飛ばして、子どもにやれってったって、そりゃ無理ですよ。酷だ。
それならまず大人からやりなはれや、ってことです。
違います?
☆
子どもたちが大丈夫と言えないということは、身近な大人たちが大丈夫だとはとても言えない状態にあるということ、おそらくは。なので、それを何とかしないうちは、子どもにどうこうさせるのもどうかと思います。
そして、その前にやっておかねばならないのは、己自身のこと、大人自身のことですよね。「○○ができなくても大丈夫」「○○を持っていなくても大丈夫」、そういうのが自分の中で確立されていないと。そして、身近な他者に対して、それが実践されてないと。
そうでしょ?
逆に、それができていれば、子どもをどうこうする必要はあまりない。自然と覚えてゆくでしょう。
いいも悪いも、子どもは大人の影響を受けるようです。その影響の受け方は違ったりするものの。
☆
ところで、仮に、自分自身が「○○できなくても大丈夫」「○○を持ってなくても大丈夫」と思えて、身近な人たちもそう思えたとしても、社会にそういうのが行き渡っていない場合は、どうしても傷つくような事態は出てくるかもしれません。悲しいかな、あるでしょう。
世の中には、通りすがりで、平気で人を貶めたり、「○○ができない」とか「○○を持っていない」とか言ってひどく愚弄するような人もいるので、どうしたって傷ついてしまいます。
しかし、身近な人、手の届く範囲の人というのは、やっぱり影響力が大きいもので、そういう人たちが大丈夫だと知っていて、なおかつ、大丈夫だと言ってくれる限り、傷ついたって大丈夫だと思います。それは大きな救いになるでしょう。おそらく、存在を脅かすようにはならない。(傷つくのは傷つくにしても)
しかし、こういうのは嘘ではできんものでしてね、無理やり思い込もうとしたような代物では、どうしてもボロが出てきてしまいます。
そういうのをしっかり己に定着させるには、やはり自分自身の劣等感コンプレックスというようなものと勝負しておかなければならないんでしょうね。
大人が。
(続きは下に…)
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◇「第7回 場とコンプレックス(2)/コンプレックス」◇
中には、コンプレックスを作り出さないようにと、何にでも「大丈夫、大丈夫」、「問題ない、問題ない」、更に進んで、「そんなこと、しなくていい」「そんなもの、見なくていい」――こういうことを主張する人もいるようです。
☆
しかし、これでコンプレックスが作り出されないかというと、そんなことはないですよね。というか、現実に蓋をしているわけですから、見ないようにしている → 意識させないように努力しているのと同じで、「意識するのが困難」という点では、コンプレックスが生まれるのに手を貸しているようなものなのかもしれません。
だいたい、「大丈夫、大丈夫」、「問題ない、問題ない」と言いながら、「○○ができない」とか「○○を持っていない」というのを、懸命に隠そうとしているわけでしょ。
それは、「○○ができなくても、大丈夫」とか、「○○を持ってなくても、問題ない」というのとは、ちと違うようです。コンプレックスのない状態を、「わたしは○○できません」と無理なく言える状態だとすると、それは「○○できない」というのをちゃんと知っていなければならないわけですから、それを頑なに隠すのはちと違いますよね。
「わたしは○○できません。でも、大丈夫」――それが理想なんです。
それをひた隠しにするのとは、違うんですね。
だいたい、隠そうとするということは、それに対しネガティブな感情なり評価なりを持っているということでしょ。あるいは、隠そうとする人が、その事実に耐えられないのかもしれない。
(↑これは必ずしも責められるものではないですけどね。むしろ人情か)
☆
こうなると、「じゃあ、何でも大っぴらに出せばいいのか」というと、もちろん、そうではないです。
何の準備もないままに大っぴらに出されたら、傷つきます。
だいたい、周囲にも「○○でも大丈夫」なんて考えがあるかどうか分からない。というか、あまり無いのが現実なんでしょう。そうそう準備なんて出来てませんよ。
こういう難しさがあるんですよね。
☆
時に、こういう難しさを無視して、子ども達を集めて、「じゃあ、ひとりずつ、みんなの前で、できないことを宣言してください」なんてことをやりそうな人が出て来そうな気もしますが、相当難しいですよ。
だいたい、人前で言えないからコンプレックスなんだし、意識できないもの、意識したくないものは、そう簡単には出てこんでしょう。(それを出せっていうのは酷だ)
更には、それを受け取るだけのものがないことろに、何でも出していいものではない。それを嘲笑されたり、笑わないまでも引かれたり、そうするとやっぱり傷つきます。そして、引くほうにしても、やっぱり準備ができていないんだから、そりゃ無理ですよ。ビックリします。
こういう、かなりデリケートな問題なので、「ひとつ試しにやってみるか」でやっていい代物ではないんでしょうね。
後々傷が残ってしまう。
☆
だいたいが、大人でもできないことを子どもにやらせるのは賛成しかねます。
大人だってコンプレックスに悩み、あるいは傷つけられている。そうでしょ? 「○○でも大丈夫」なんて思えないことが多い。
なのに、それをすっ飛ばして、子どもにやれってったって、そりゃ無理ですよ。酷だ。
それならまず大人からやりなはれや、ってことです。
違います?
☆
子どもたちが大丈夫と言えないということは、身近な大人たちが大丈夫だとはとても言えない状態にあるということ、おそらくは。なので、それを何とかしないうちは、子どもにどうこうさせるのもどうかと思います。
そして、その前にやっておかねばならないのは、己自身のこと、大人自身のことですよね。「○○ができなくても大丈夫」「○○を持っていなくても大丈夫」、そういうのが自分の中で確立されていないと。そして、身近な他者に対して、それが実践されてないと。
そうでしょ?
逆に、それができていれば、子どもをどうこうする必要はあまりない。自然と覚えてゆくでしょう。
いいも悪いも、子どもは大人の影響を受けるようです。その影響の受け方は違ったりするものの。
☆
ところで、仮に、自分自身が「○○できなくても大丈夫」「○○を持ってなくても大丈夫」と思えて、身近な人たちもそう思えたとしても、社会にそういうのが行き渡っていない場合は、どうしても傷つくような事態は出てくるかもしれません。悲しいかな、あるでしょう。
世の中には、通りすがりで、平気で人を貶めたり、「○○ができない」とか「○○を持っていない」とか言ってひどく愚弄するような人もいるので、どうしたって傷ついてしまいます。
しかし、身近な人、手の届く範囲の人というのは、やっぱり影響力が大きいもので、そういう人たちが大丈夫だと知っていて、なおかつ、大丈夫だと言ってくれる限り、傷ついたって大丈夫だと思います。それは大きな救いになるでしょう。おそらく、存在を脅かすようにはならない。(傷つくのは傷つくにしても)
しかし、こういうのは嘘ではできんものでしてね、無理やり思い込もうとしたような代物では、どうしてもボロが出てきてしまいます。
そういうのをしっかり己に定着させるには、やはり自分自身の劣等感コンプレックスというようなものと勝負しておかなければならないんでしょうね。
大人が。
(続きは下に…)
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【2008年11月(3)】
◇「第8回 場とコンプレックス(3)」◇
今まで書いてきたようなことを考えると、奥の方に仕舞われていて、ちゃんと見れないもの、ごちゃごちゃしていて整理できていないもの、故に意識できないもの、認められないものが、コンプレックスなのだということになります。
で、「じゃあ、すぐにでも見ればいいじゃん」と言えるかというと、そうではないですよね。
☆
まず第1に、それを意識できない事情があるからコンプレックスなのだということ。すぐに向かい合えるようならば苦労はしませんし、悩みもしません。そして第2に、何だかんだ言いながら、見ないことで救われている部分があるということです。
だいたいが、ストレートに見ると大変なことになるから見ないわけで、準備もなしに見たら、えらいダメージを受けます。前に書いた血栓の話に例えるならば、傷が開いて大出血してしまいます。あるいは、トゲトゲのカタマリが、他の部分まで傷つけてしまうかもしれません。だからどうしても、慎重にならざるを得ません。
それにけっこう近くまで行くことはあるわけで、しかし事情により、また戻ってしまっている。直接見るまではいかないまでも、ほんのり意識するぐらいには行き来することはある。しかしまだ準備できていないので、何やかんやで引き返すことになってしまっている。そういうことでしょ? 誰しもそんなことありませんか?
そういうわけですから、人間って、真実を知らないおかげで日々を平穏にすごせている面も、やっぱりあるわけです。
誰だってそうでしょ? コンプレックスのカタチは違えど。
☆
ただ、そうも言っておれない、ってこともあるわけで、そういう状況に追い込まれてしまう場合も、人生にはあります。どうしても、そうなってしまう。
自分自身が追い込まれてしまう場合もあれば、身近な誰かが追い込まれてしまう場合もあるでしょう。あるいは、集団なり社会なりが、にっちもさっちもいかなくなるような場合も、あるかもしれません。(集団の持つコンプレックスもあるでしょうしね)
何らかの「それ」を見ないままにすごせればいいのかもしれませんが、「それ」と向かい合って、処理しないことにはどうにもならないことも、やっぱりあるわけでしょ。そうなるともう、理屈ぬきで、やり通すしかなくなってくるわけです。向かい合わんことにはしゃあない。
悲しいし、しんどいですけど、どうしようもなくなってしまう。
☆
意識できない事情があるということは、そこに痛いものや破壊的なものがあるということです。そのまま見たら危ういものが潜んでいるということ。今まで向かい合えないのは、それ相応の事情があるからです。
コンプレックスと対決するということは、そういうものを前にして、どういう風に見ていくか、向かい合っていくか、整理していくか、時には、爆発させていくか、そういう仕事になります。
こんなにもややこしいものが相手ですから、そうそうキレイにスマートにはいきません。
そして、そこでその程度があまりに大きいと身が持たなくなるわけですから、ちょうどいい程度に、何とか身が持つ程度にやらなければならない。こんな難しい仕事をやらねばならなくなるんですね。
爆発させるというくらいだから、それは尋常じゃないんだけど、その尋常じゃない破壊を、身が持つ程度にやらねばならない。こいつは難しいです。ある意味、人間の業(わざ)ではどうにもならない仕事でしょう。だから、不思議なもののチカラを借りねばならんのでしょうね。
不思議なチカラといっても、それはタイミングのようなものですが…
(続きは過去ログ12月分に…)
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◇「第8回 場とコンプレックス(3)」◇
今まで書いてきたようなことを考えると、奥の方に仕舞われていて、ちゃんと見れないもの、ごちゃごちゃしていて整理できていないもの、故に意識できないもの、認められないものが、コンプレックスなのだということになります。
で、「じゃあ、すぐにでも見ればいいじゃん」と言えるかというと、そうではないですよね。
☆
まず第1に、それを意識できない事情があるからコンプレックスなのだということ。すぐに向かい合えるようならば苦労はしませんし、悩みもしません。そして第2に、何だかんだ言いながら、見ないことで救われている部分があるということです。
だいたいが、ストレートに見ると大変なことになるから見ないわけで、準備もなしに見たら、えらいダメージを受けます。前に書いた血栓の話に例えるならば、傷が開いて大出血してしまいます。あるいは、トゲトゲのカタマリが、他の部分まで傷つけてしまうかもしれません。だからどうしても、慎重にならざるを得ません。
それにけっこう近くまで行くことはあるわけで、しかし事情により、また戻ってしまっている。直接見るまではいかないまでも、ほんのり意識するぐらいには行き来することはある。しかしまだ準備できていないので、何やかんやで引き返すことになってしまっている。そういうことでしょ? 誰しもそんなことありませんか?
そういうわけですから、人間って、真実を知らないおかげで日々を平穏にすごせている面も、やっぱりあるわけです。
誰だってそうでしょ? コンプレックスのカタチは違えど。
☆
ただ、そうも言っておれない、ってこともあるわけで、そういう状況に追い込まれてしまう場合も、人生にはあります。どうしても、そうなってしまう。
自分自身が追い込まれてしまう場合もあれば、身近な誰かが追い込まれてしまう場合もあるでしょう。あるいは、集団なり社会なりが、にっちもさっちもいかなくなるような場合も、あるかもしれません。(集団の持つコンプレックスもあるでしょうしね)
何らかの「それ」を見ないままにすごせればいいのかもしれませんが、「それ」と向かい合って、処理しないことにはどうにもならないことも、やっぱりあるわけでしょ。そうなるともう、理屈ぬきで、やり通すしかなくなってくるわけです。向かい合わんことにはしゃあない。
悲しいし、しんどいですけど、どうしようもなくなってしまう。
☆
意識できない事情があるということは、そこに痛いものや破壊的なものがあるということです。そのまま見たら危ういものが潜んでいるということ。今まで向かい合えないのは、それ相応の事情があるからです。
コンプレックスと対決するということは、そういうものを前にして、どういう風に見ていくか、向かい合っていくか、整理していくか、時には、爆発させていくか、そういう仕事になります。
こんなにもややこしいものが相手ですから、そうそうキレイにスマートにはいきません。
そして、そこでその程度があまりに大きいと身が持たなくなるわけですから、ちょうどいい程度に、何とか身が持つ程度にやらなければならない。こんな難しい仕事をやらねばならなくなるんですね。
爆発させるというくらいだから、それは尋常じゃないんだけど、その尋常じゃない破壊を、身が持つ程度にやらねばならない。こいつは難しいです。ある意味、人間の業(わざ)ではどうにもならない仕事でしょう。だから、不思議なもののチカラを借りねばならんのでしょうね。
不思議なチカラといっても、それはタイミングのようなものですが…
(続きは過去ログ12月分に…)
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