【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、表紙の過去ログ 08年12月分
「第9回 コンプレックスが見えてくる時」「第10回 アレルギー反応や慢性痛との類似」「第11回 感情とエネルギー」を紹介をしています。

表紙過去ログ

    2008年12月(1):「第09回 コンプレックスが見えてくる時」
    2008年12月(2):「第10回 アレルギー反応や慢性痛との類似」
    2008年12月(3):「第11回 感情とエネルギー」
【2008年12月(1)】


◇「第9回 コンプレックスが見えてくる時/コンプレックス」◇


(第1回〜第9回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)

コンプレックスは、なかなか見ることができないもの、認識できないものですが、時に、それが見えてくることがあります。というのは、それそのものはなかなか見ることができないんですが、それが別のカタチとして表に出てくるということです。



コンプレックスというのは、いろんなものをごっちゃにしてしまう性質を持っています。

例えば、あるコンプレックスによって、「男が嫌い」とか「女が嫌い」とか、「ある年代の者が嫌い」とか、そういう風に言ってしまうことがあります(嫌いという表現よりも、苦手というほうが的確かもしれません)。あるいは、「男なんて○○だ」「女なんて○○だ」「あの年代は○○だ」そういうことを言ってしまうこともあるでしょう。

こういうのは冷静に考えれば、つじつまが合わないことであって、男にも女にも、それぞれの年代にも、いろんな人がいるわけで、そのカテゴリだというだけでぶった切れないものです。

部分としてはそういうこともある。しかし、詳細としては違うこともまた多い。その人その人を見ないことには分からない。そういうものでしょ。

だって、自分が男だから、女だから、ある年代だから、そういう理由で、見もしないで判断されたら嫌でしょう。そんな失礼なことはない。しかし、人間というのは、そういうことをしがちです。



みんなだいたい、カタチは違えど、上記のような「決め付け」のようなものを持っていたりします。

性別でどうこうしないという人でも、何らかのカテゴリになると、見もしないで判断してしまっているということは多々あったりします。自分では気づかなくても、ですね。誰だって、「○○なんて××」みたいなことを言ってしまうことがあるでしょ?

で、そういうことをしてしまうというのは、ごっちゃになっているから、という部分があるでしょう。同じカテゴリでもいろんなものがあるのに、いろんな人がいるのに、みんなまとめてごっちゃになってしまっています。細分化して検証するようなことがない。で、しかも強いこだわりをもっていたりする。

こういうことが生じるのは、うまく整理できないからであって、コンプレックスによっていろんなものがごっちゃになって、絡み合ってしまうからです。絡み合っているくせにカテゴリ整理だけはされているので、カテゴリだけで判断してしまったりします。

で、その絡み合ったものの奥にある、コンプレックスの核のようなものはなかなか見えないんですけど、絡み合ったカタマリ自体は確認できますよね。

カタマリ自体は、上記のような症状として、確認できるわけです。



ところで、上のは「決め付け」的な例ですが、「未整理」が強調されるような例もありますよね。

例えば、上のような決めつけ発言をするわけではないけれど、それを目の前にすると普通じゃなくなってしまうとか。(まあ、上の決め付けにしても普通じゃなくなっているんですけどね)

別に嫌っているわけではない、別に明確な理由があるわけでもない、しかし、ともかく、それを前にするといつも通りではなくなって、うまく振舞えないとか、あるいは、怖いとか。うまく表現できない感情が湧いてくるとか。そういうこともありますよね。

こういうのもコンプレックスの仕業で、見えないところにある整理できていないものが、意識に影響を与えてくるわけです。

そして、こういう例にしても、ある意味、決め付けているということなのかもしれません。

このような場合、意識的には決め付けていないのだけれど、無意識的には決め付けているのと同じような働きをしている。つまり、目の前の人はそうではないんだけれど、ある種のカテゴリのものとして無意識的に処理され、同等に扱われてしまう。

時に苦手なものとして、時に怖いものとして、扱われてしまうのです。

(そう思ってしまう方にしても、そう思われる方にしても、罪はないんですけどね)



誰でも自動反応のように吐き棄ててしまうようなものがある。見ただけで否定してしまう。あるいは否定はしないものの、普通の状態じゃなくなってしまう。うまく接することができない。

そういう時は、その奥にコンプレックスが隠れているかもしれないのです。

目の前のそれそのものは、実はコンプレックスではない。コンプレックスにつながるもの、コンプレックスを喚起させるもの。

つまり、そういうものに注目し、それでいて表面のみにこだわるのではなく、奥にあるものを見ようとする時、コンプレックスがだんだんと見えてくるのかもしれません。



ただし、これまた難しいですよね。

だいたいが、目の前のそれを見ただけで冷静ではなくなる。普通ではなくなってしまう。そういう状態では、とてもその奥なんて見れないでしょう。目の前のそれさえ、ちゃんと見れているかどうか怪しい。

しかし、だんだんと目の前のそれが見えるようになってきた時、その奥にあるものとの対面も、近いのかもしれません。

まあ、それまでにいろんな紆余曲折があるにしても…




(続きは下に…)





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【2008年12月(2)】


◇「第10回 アレルギー反応や慢性痛との類似/コンプレックス」◇


前に書いたように、「○○なんて」とか言ってしまうような場合は、それだけごちゃ混ぜになっているということ、あるいは、しっかり見ることができないということですから、その奥に何かしらのコンプレックスが隠されている可能性が見えてきます。

あるいは、端から「○○だ」と決め付けているような場合、「それを前にすると普通じゃなくなる」といった場合も、同じでしょうか。



このように、コンプレックスは何らかの対象を(しっかり)見ないことを要求します。注意深く観察されたら困るかのような、そんな働きをしている。

しかも、それは無意識的な働きであって、自我のコントロールがきかない。まるで反射のように、あるいは自律神経のように、生体の意志とは無関係に働いている。

そして、防御反応であることも予想される。「それを見ない」という、防御反応。

つまり、大仰に言うならば、そこには知ってはならない秘密があるというわけです。もう少し言葉を変えると、成長して大人になるまで受け容れられないような、そんな事実が隠されていると。

幼い内に知ってしまったら大ダメージ(心的負担)になるであろう何かが、隠されていると。

そういうことが予想されます。



防御反応が生じるということは、そういうことなんでしょう。

ただし、それがいつまでもそうなのかは、分からない。というのは、いつまでも防御反応によって守られなければならないのかは、分からないということ。

だいたい、コンプレックスについて悩むということは、その防御反応の強さや、コンプレックスの特徴である「他を巻き込んでしまう」点により、悩まされているわけで、症状をどうにかしようと思えば、その防御反応に対し、何らかのアプローチをしなければならないということなんでしょう。



ところで、この間、NHKで「アレルギー」について特集されていたのですが、アレルギーの仕組みというものとコンプレックス(その防御反応的な側面)について類似点を感じました。

仕組みを大雑把に解説すると以下のようになります。


我々の祖先にあたる哺乳類は、吸血ダニや寄生虫に対抗するものとしてIgEによる免疫を獲得しました。例えば、吸血ダニに一度血を吸われると、その時体内に入ってくる酵素に対するIgEが免疫細胞によって作られます。そして、次に吸血ダニが血を吸おうとした時、吸血ダニの出す酵素をIgEが捕まえて、炎症物質を皮膚の中に放出。血と共にそれを吸った吸血ダニは、逃げ出すかショック死することになる。

このように、IgEによる免疫のおかげで、我々の祖先は吸血ダニや寄生虫を撃退し、滅亡することなく、生き残ることができました。

しかし、環境は激変しました。(ある程度)清潔で整備された住居に住む我々は、吸血ダニや寄生虫の脅威に曝されることは、ほとんどありません。すると、IgEはその攻撃の矛先を、人間にとっては無害な、花粉に向けるようになってしまったそうです。

花粉が持つ成分は、吸血ダニが持つ成分と似ているのだそうで、そのため、花粉が鼻や目に入ると、吸血ダニに襲われたと勘違いする。同じ反応が起こってしまうそうなのです。

「NHKスペシャル|病の起源 第6集 アレルギー 〜2億年目の免疫異変〜」参照)



これをコンプレックスのメカニズムに当てはめたら、どうでしょう?

吸血ダニや寄生虫は強力な病原体を媒介し、大型の哺乳類を死に至らしめることもあったそうです。つまり、相当な脅威だった。

コンプレックスの核になる体験というものは、それと同じくらいの脅威なんでしょう。簡単には受け止められないような、脅威を孕む体験。

そして、IgEが吸血ダニや寄生虫がいない社会で、それと成分の似た花粉に反応するように、心理作用としても、コンプレックスの核となる経験ではないのに、それを似たような場面に遭遇すると、同じような反応が起こってしまう。

人体には、身体に有害なものを撃退する免疫という仕組みが備わっていますが、その免疫が害のないものを有害なものと誤って認識し、過剰に反応してしまうのが、アレルギー反応。

これと同じような働きが、心理作用としても生じてしまう。

例えば、あまりに大きいショック体験は、心を壊しかねない。そうすると、そんなものは認識させないようにと防御反応が生じる。しかし、本来無害なものに対してまで、過剰に反応するような事態も生ずる。

コンプレックスも、ある意味、心理的なアレルギー反応であると、言えるのかもしれません。



また、「慢性痛」という症状が、最近注目されているそうです。

詳しくは下のリンク先を読んでもらうとして、噛み砕いて説明すると、些細な痛み――例えば、電車がすれ違う際の振動――でも、猛烈な痛みとして感じる患者さんがおられるそうなのです。

そのメカニズムはこうです――


事故や病気により、猛烈な痛みを伴なう体験をする。すぐに処置すればいいのですが、いろんな事情で処置するのが遅れたりする。その間、患部から脳へと、痛みの信号が発せられる。それも、猛烈な痛みを伴なうような信号が繰り返し発せられる。

そういう経験があると、患部から脳へと信号が送られる経路が確立されてしまう。「患部に刺激がある=猛烈な痛みである」というような、経路が確立されてしまう。その番組風に言うと、そういう痛みの回路が出来上がってしまうわけです。患部への刺激があると、脳に猛烈な痛みの信号を送るような、そんな回路が出来上がってしまうのです。

すると、傷が癒えた後でも患部に刺激があると、たとえそれが些細なものであっても、経路が確立されているもんだから、脳には大きな痛みがあったと同じ信号が送られる。それによって、患者さんは猛烈な痛みを感じることになるのです。

あるいは、コンプレックスとも関係が深いような表現、「混線」というものも紹介されていました。

即ち、神経が損傷し再生する際、触覚の神経と混線するような形で再生してしまうと、触っただけで激痛になったりする。あるいは、交感神経と混線すると、天候の変化やストレスなどで痛みを感じてしまう。

そういうことが起こるのだそうです。

「慢性痛、痛み自体が病気/ためしてガッテン」参照)
「ためしてガッテン 過去の放送:慢性痛」番組HP)



このように、コンプレックスには、「誤った防衛」や「過剰反応・過敏反応」、「確立されてしまった経路」や「混線」といった性質があるように思われます。







(続きは下に…)





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【2008年12月(3)】


◇「第11回 感情とエネルギー/コンプレックス」◇


前に、コンプレックスは複雑な感情のカタマリである、というようなことを書きました。複雑な感情が絡み合った、デリケートなカタマリです。

そして、感情というのはどうも、エネルギーと密接に関係しているように思います。あるいは、感情自体がエネルギーであるともいえるでしょうか。

それは活力になることもあるし(←コンプレックスをバネに、とか)、爆発して破壊的なことになる場合もある。あるいは、エネルギーを奪い取られて、身動きできなくなったりもする。

コンプレックスが感情のカタマリである以上、こういうことも生じますよね。

そして更に、整理できないということですから、感情が反転してしまうこともよくあって、好きと嫌いや、愛と憎しみのようなものが、交互に入れ替わるようなことも多々あるようです。その間を揺れ動いて、安定が奪われることもあるでしょう。つまり、エネルギーの逆流みたいなこともあり得る。

我々は時に、嫌いなものの中に惹かれるものを見出したり、好きなものの中におぞましいものを見たりもします。嫌おう嫌おうとするものの中にいいものが見えてきたり、慕おう慕おう好きになろう好きになろうというものの中に嫌なものが見える、なんてこともあります。

でも、ある見方をすると、そうしながら、いろんなものを整理しようとしているのかもしれませんね。いろんな感情が絡まりあったそれを、不器用ながらも解こう(ほどこう)としているのかもしれません。

揺れながら。

そして、目に見えない内なるエネルギーのようなものに、道筋をつけようとしているのかもしれません。

人と人の間で生じる、ダイナミズムの中で、ですね。



このように、コンプレックスというのは、相反するものや矛盾するものの間を行き来する、エネルギーのようなものなのかもしれません。

そして、我々は、矛盾するものは無意識に追いやろうとする性質を持っているようです。

特に、コンプレックスに関連するようなものの場合、矛盾する一方を見ないことで安定が保たれている部分がありますから、その傾向は強いでしょうか。

ある一方のみに注目することで、何とか心の安定が保たれている。

だから、「○○なんて××さ」と決め付けてしまう。じっくりと見ようとはせず、はじめから決まっている答えに当てはめようとする。

その矛盾に気づくことは脅威である。気づくわけにはいかない。だから、しっかり見るわけにはいかない。

そういうところがあるのでしょう。



矛盾するものがあるから、混乱もする。しかもその矛盾は、認めてはならない矛盾。認めることはできない矛盾。認めると、今までの自分が壊れかねない矛盾です。(知ってはならない秘密のようなもの)

だから、混乱するのも当たり前だし、未整理になるのも当たり前。容易に注視することはできない。

こんがらがって絡み合うし、見誤りもする。決め付けもする。

そんな中で、いつもと違うものが見えてくる。

矛盾する両方が見えてくるようになる。

そうやって、不器用ながらも整理していこうとしているのかもしれませんね。









(続きは09年01月の過去ログに…)





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