表紙過去ログ
<シリーズ:コンプレックス>
2009年01月(1):「第12回 人と人との間で」
2009年01月(2):「第13回 生きてないからイライラする(前編)」
【2009年01月(1)】
◇「第12回 人と人との間で/コンプレックス」◇
(第1回〜第11回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
先に書いたように、感情というのはエネルギーと関係しているようです。そして、相手というものにも関係している。というのは、感情というものは人と人との間で生じるものだからです。
感情は他者との関わり合いの中で生じるものだと思われます。感情自体は個人の中に生じるし、例えばひとり部屋の中にいても生じるわけですが、それは「○○さんのことを思って」とか、「昔の△△が思い出されて」とか、人との関係の中にあって生じるようです。
中には明確な相手が見えてこない場合もあるでしょう。「なぜかイライラする」「なぜか不安になる」。そういう場合も、相手が見えていないだけで、見えないところに相手は存在するのではないかと、私は考えます。それを意識できないだけで、ですね。(←だからこそのコンプレックスですが)
☆
さて、そう考えると、感情のカタマリを整理しようとする時は、人と人との間でエネルギーのやり取りが生じるということなのかもしれません。
相手との間に、感情というエネルギーにも関係するものがあり、その処理の具合や目詰まりによって負担が生じているわけですから、そのエネルギーを何とかしなければならない。
しかし、それは相手との間で生じるものなので、自分ひとりで処理できるというものではない。行ったり来たり、ぶつけたりぶつけられたり、あるいは互いに引き受けたり、そうやってこそ処理されるものなんでしょう。
また、逆にいえば、そういう点が抜け落ちているから、処理されないし、目詰まりを起こしているとも取れます。
☆
実際、その布置の中にいるとなかなか見えないのですが、布置の外から冷静な目で眺めると、そういうところが見えることもあります。
中の人はそれを当たり前だと思っていたり、あるいはコンプレックスの性質によって核になる部分が見えなくなっていたりしますが、ある部分ではAという存在が我慢し、そこに負担が溜まり、またある部分では、Bという存在に負担が集中し、相当なストレスが生じており、そういう布置が出来上がってしまいます。
つまり、偏りや、負荷の集中が、関係や集団の中で、生じているということ。
行き来することがなく、ぶつけ合うこともなく、引き受け合うこともなく(あるいは、引き受ける部分が固定されすぎて)、循環しない状態になってしまうんですね、どうしても。
いや、だから悪いというのではないですよ。だいたい、誰だってそうだし、どこででもカタチを変えて、生じていることですから。
いい悪いの問題ではないんです。
ただ、偏りすぎてバランスが悪すぎるとか、負荷が集中して折れそうだとか、循環しないから濁っているとか、そういうことが人と人との間や集団の中で起こっており、いわば瀕死の状態になってしまうということです。
で、瀕死なんだから、どうにかしないと危ない。そういうことです。
☆
ただ、人と人との間、相手との間で、エネルギーをやり取りするというのは、そのエネルギーが大きければ大きいほど、危険です。そして、コンプレックスが関わっている場合、今まで処理されず、循環もされないエネルギーをやり取りするんだから、そりゃ危険でしょう。
今まで動きがなかったもの、抑え込まれていたもの、溜まるだけ溜まっていたもの、そういうものが動き出すわけですから、なかなかすごいです。ビックリするような爆発だって生じるかもしれません。
☆
ところで、我々は爆発は危ないものだから何としてでも止めなければならない、そう思いがちですが、はたしてそうでしょうか?
火山なんかをイメージすると分かりやすいと思うのですが、適度に噴火する方がある種、安全なんですよね。イメージが伝わりますか?
噴出する物自体はどうこうできなくて、向こうからあふれてくるわけでしょ。そうすると、それを塞いでしまうのは危険なわけです。というか、塞ぐから爆発してしまう。適度に出てくれた方が被害が小さいです。ヘンに抑え込むから爆発する。
この季節、ポットに湯を入れて、しばらくしてからボタン式の蓋を開けたような場合、ポンッ!! と水蒸気が出たりするでしょ。あれのひどいやつ、例えば、湯を沸かしながら空気の逃げ道を完全に塞いだ場合 ―― その安全なものが圧力鍋だと思うのですが ―― 空気の逃げ道もないまま沸騰させ続けたら、水蒸気で爆発しちゃうでしょ。大惨事です。
そうならないためには、水蒸気というエネルギーはちょっとずつ逃がしたほうがいい。それと同じです。
火山でも、小さな爆発があったほうが大きな爆発が避けられていいわけです。爆発がまったくないと、流れが滞って余計に大爆発の危険が高まりますもんね。
ただ、爆発はやっぱり怖いですよ。小さな爆発でも、爆発は爆発。破壊的なものがあります。爆発する方も悲しいし、爆発を受ける方も悲しい。悲しいし、痛い。でも、何らかのカタチで処理せんとどうもならんので、多少ブサイクでも、処理する必要に迫られるのです。自然現象と同じですね。
爆発は危ない。しかし、それがないと余計に危ないわけで、こういうのは必要な爆発ということになるでしょうか。流れ自体は失くせないわけですから。
(安易に爆発を勧める気はないんですけどね)
☆
もう一度エネルギーの話に戻ると、そのエネルギーはうまく使える状態になってないエネルギーです。しかも非常にデリケート。うかつに触ると、ちょっとしたことで爆発してしまうかもしれません。そのくせ、何かをうまく動かすのに使えるようなエネルギーにはなっていない。
そんなデリケートで、危なっかしいもの。でも、エネルギーはエネルギーで、よい方向に使える可能性を秘めている。
そんなものが人と人との間にある。人間の間に生じるので、人と人との間でエネルギ−化しなければならない。だから、爆発もしますよね。(爆発しないで行き来できれば、それが一番いいのですが)
☆
時には怒鳴り合いになるかもしれない、寝込むかもしれない、互いに泣いたり、痛みを負うかもしれない。でも、エネルギー化するとは、そういうことなんでしょう。そういう過程を経なければなりません。だって ―― 詳細はあとで書きますが ―― それ以前の状態というのは、あまりに一方的で、とても「行き来」といえるような状態ではないことが多いからです。
(お互いに、ということになりそうですが)
ともかく、コンプレックスというのは感情のカタマリであり、うまくエネルギー化されないまま固まった、それでいてデリケートな状態なんでしょう。
そういうものを人と人との間で、活性化させねばならないんでしょうね。
(下に続く…)
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◇「第12回 人と人との間で/コンプレックス」◇
(第1回〜第11回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
先に書いたように、感情というのはエネルギーと関係しているようです。そして、相手というものにも関係している。というのは、感情というものは人と人との間で生じるものだからです。
感情は他者との関わり合いの中で生じるものだと思われます。感情自体は個人の中に生じるし、例えばひとり部屋の中にいても生じるわけですが、それは「○○さんのことを思って」とか、「昔の△△が思い出されて」とか、人との関係の中にあって生じるようです。
中には明確な相手が見えてこない場合もあるでしょう。「なぜかイライラする」「なぜか不安になる」。そういう場合も、相手が見えていないだけで、見えないところに相手は存在するのではないかと、私は考えます。それを意識できないだけで、ですね。(←だからこそのコンプレックスですが)
☆
さて、そう考えると、感情のカタマリを整理しようとする時は、人と人との間でエネルギーのやり取りが生じるということなのかもしれません。
相手との間に、感情というエネルギーにも関係するものがあり、その処理の具合や目詰まりによって負担が生じているわけですから、そのエネルギーを何とかしなければならない。
しかし、それは相手との間で生じるものなので、自分ひとりで処理できるというものではない。行ったり来たり、ぶつけたりぶつけられたり、あるいは互いに引き受けたり、そうやってこそ処理されるものなんでしょう。
また、逆にいえば、そういう点が抜け落ちているから、処理されないし、目詰まりを起こしているとも取れます。
☆
実際、その布置の中にいるとなかなか見えないのですが、布置の外から冷静な目で眺めると、そういうところが見えることもあります。
中の人はそれを当たり前だと思っていたり、あるいはコンプレックスの性質によって核になる部分が見えなくなっていたりしますが、ある部分ではAという存在が我慢し、そこに負担が溜まり、またある部分では、Bという存在に負担が集中し、相当なストレスが生じており、そういう布置が出来上がってしまいます。
つまり、偏りや、負荷の集中が、関係や集団の中で、生じているということ。
行き来することがなく、ぶつけ合うこともなく、引き受け合うこともなく(あるいは、引き受ける部分が固定されすぎて)、循環しない状態になってしまうんですね、どうしても。
いや、だから悪いというのではないですよ。だいたい、誰だってそうだし、どこででもカタチを変えて、生じていることですから。
いい悪いの問題ではないんです。
ただ、偏りすぎてバランスが悪すぎるとか、負荷が集中して折れそうだとか、循環しないから濁っているとか、そういうことが人と人との間や集団の中で起こっており、いわば瀕死の状態になってしまうということです。
で、瀕死なんだから、どうにかしないと危ない。そういうことです。
☆
ただ、人と人との間、相手との間で、エネルギーをやり取りするというのは、そのエネルギーが大きければ大きいほど、危険です。そして、コンプレックスが関わっている場合、今まで処理されず、循環もされないエネルギーをやり取りするんだから、そりゃ危険でしょう。
今まで動きがなかったもの、抑え込まれていたもの、溜まるだけ溜まっていたもの、そういうものが動き出すわけですから、なかなかすごいです。ビックリするような爆発だって生じるかもしれません。
☆
ところで、我々は爆発は危ないものだから何としてでも止めなければならない、そう思いがちですが、はたしてそうでしょうか?
火山なんかをイメージすると分かりやすいと思うのですが、適度に噴火する方がある種、安全なんですよね。イメージが伝わりますか?
噴出する物自体はどうこうできなくて、向こうからあふれてくるわけでしょ。そうすると、それを塞いでしまうのは危険なわけです。というか、塞ぐから爆発してしまう。適度に出てくれた方が被害が小さいです。ヘンに抑え込むから爆発する。
この季節、ポットに湯を入れて、しばらくしてからボタン式の蓋を開けたような場合、ポンッ!! と水蒸気が出たりするでしょ。あれのひどいやつ、例えば、湯を沸かしながら空気の逃げ道を完全に塞いだ場合 ―― その安全なものが圧力鍋だと思うのですが ―― 空気の逃げ道もないまま沸騰させ続けたら、水蒸気で爆発しちゃうでしょ。大惨事です。
そうならないためには、水蒸気というエネルギーはちょっとずつ逃がしたほうがいい。それと同じです。
火山でも、小さな爆発があったほうが大きな爆発が避けられていいわけです。爆発がまったくないと、流れが滞って余計に大爆発の危険が高まりますもんね。
ただ、爆発はやっぱり怖いですよ。小さな爆発でも、爆発は爆発。破壊的なものがあります。爆発する方も悲しいし、爆発を受ける方も悲しい。悲しいし、痛い。でも、何らかのカタチで処理せんとどうもならんので、多少ブサイクでも、処理する必要に迫られるのです。自然現象と同じですね。
爆発は危ない。しかし、それがないと余計に危ないわけで、こういうのは必要な爆発ということになるでしょうか。流れ自体は失くせないわけですから。
(安易に爆発を勧める気はないんですけどね)
☆
もう一度エネルギーの話に戻ると、そのエネルギーはうまく使える状態になってないエネルギーです。しかも非常にデリケート。うかつに触ると、ちょっとしたことで爆発してしまうかもしれません。そのくせ、何かをうまく動かすのに使えるようなエネルギーにはなっていない。
そんなデリケートで、危なっかしいもの。でも、エネルギーはエネルギーで、よい方向に使える可能性を秘めている。
そんなものが人と人との間にある。人間の間に生じるので、人と人との間でエネルギ−化しなければならない。だから、爆発もしますよね。(爆発しないで行き来できれば、それが一番いいのですが)
☆
時には怒鳴り合いになるかもしれない、寝込むかもしれない、互いに泣いたり、痛みを負うかもしれない。でも、エネルギー化するとは、そういうことなんでしょう。そういう過程を経なければなりません。だって ―― 詳細はあとで書きますが ―― それ以前の状態というのは、あまりに一方的で、とても「行き来」といえるような状態ではないことが多いからです。
(お互いに、ということになりそうですが)
ともかく、コンプレックスというのは感情のカタマリであり、うまくエネルギー化されないまま固まった、それでいてデリケートな状態なんでしょう。
そういうものを人と人との間で、活性化させねばならないんでしょうね。
(下に続く…)

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【2009年01月(2)】
◇「第13回 生きてないからイライラする(前編)」◇
劣等感コンプレックスなんかがそうですが、○○と聞いただけでイライラするというような時は、そこに何らかの感情が隠されてるということかもしれません。
しかも、「何だか知らないけどイライラする」となるわけですから、よく分からない感情のカタマリがそこにあるということになる。
ともかく、何もなかったらイライラすることもないし、突っかかる必要もないわけで、そこに未知の、あるいは未整理な何かがあるのは、確かなようです。
☆
イライラするのは誰でも嫌ですから、「じゃあ、そこには厄介なもの、イケナイものがあるのだろう」ということになりますが、実はそうでもないようです。それだけでもないようですね。
イライラしたり、普通じゃなくなったり、そういう意味では厄介だし、イケナイものかもしれません。しかし、それは表に出てきているものがそうなだけで、その奥に何が隠れているかは分からない。
特にその奥に隠れているものが感情であるとするならば、感情自体に善悪はないわけで、その奥にある感情を悪としてぶった切るわけにはいきません。だいたいが、感情に道理は通用しないのだし。向こうから勝手に湧き出るものですからね。
☆
しかし、その感情について、意味を考えることは可能かもしれません。
すべてがその通りというわけではないのですが、そういう時もあるという意味では、その奥には、次のような感情が隠されていることがあるようです。
それは、例えば、「やり残したこと」であるとか、「やりたくてもやれなかったこと」、あるいは、「私だってやれるんだ」、そういう感情。
つまり、生きられなかった何かがあるというわけです。
前述の通り、何もなければイライラすることもないわけで、関係ないこととして、「ああ、そう」で済みます。いちいち感情を乱されることもない。ということは、イライラするということは、関係があるということ。例えば、「わたしもやりたかった」「わたしにもやれるのに」、そういう感情があって、関係ないこととしては扱えないのです。
意識ではそう思っていないものの、意識のすぐ近く、無意識の浅いところで、そういう思いがあったりする。
☆
ということは、意識できない感情のカタマリにより心を乱される、といった場合、そこには「生きられなかった何か」が存在するのかもしれません。
(もちろん、これがすべてではないですよ。ただ、こういうこともあるということです)
(続きは09年02月の過去ログに…)
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◇「第13回 生きてないからイライラする(前編)」◇
劣等感コンプレックスなんかがそうですが、○○と聞いただけでイライラするというような時は、そこに何らかの感情が隠されてるということかもしれません。
しかも、「何だか知らないけどイライラする」となるわけですから、よく分からない感情のカタマリがそこにあるということになる。
ともかく、何もなかったらイライラすることもないし、突っかかる必要もないわけで、そこに未知の、あるいは未整理な何かがあるのは、確かなようです。
☆
イライラするのは誰でも嫌ですから、「じゃあ、そこには厄介なもの、イケナイものがあるのだろう」ということになりますが、実はそうでもないようです。それだけでもないようですね。
イライラしたり、普通じゃなくなったり、そういう意味では厄介だし、イケナイものかもしれません。しかし、それは表に出てきているものがそうなだけで、その奥に何が隠れているかは分からない。
特にその奥に隠れているものが感情であるとするならば、感情自体に善悪はないわけで、その奥にある感情を悪としてぶった切るわけにはいきません。だいたいが、感情に道理は通用しないのだし。向こうから勝手に湧き出るものですからね。
☆
しかし、その感情について、意味を考えることは可能かもしれません。
すべてがその通りというわけではないのですが、そういう時もあるという意味では、その奥には、次のような感情が隠されていることがあるようです。
それは、例えば、「やり残したこと」であるとか、「やりたくてもやれなかったこと」、あるいは、「私だってやれるんだ」、そういう感情。
つまり、生きられなかった何かがあるというわけです。
前述の通り、何もなければイライラすることもないわけで、関係ないこととして、「ああ、そう」で済みます。いちいち感情を乱されることもない。ということは、イライラするということは、関係があるということ。例えば、「わたしもやりたかった」「わたしにもやれるのに」、そういう感情があって、関係ないこととしては扱えないのです。
意識ではそう思っていないものの、意識のすぐ近く、無意識の浅いところで、そういう思いがあったりする。
☆
ということは、意識できない感情のカタマリにより心を乱される、といった場合、そこには「生きられなかった何か」が存在するのかもしれません。
(もちろん、これがすべてではないですよ。ただ、こういうこともあるということです)
(続きは09年02月の過去ログに…)

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