表紙過去ログ
<シリーズ:コンプレックス>
2009年02月(1):「第14回 生きてないからイライラする(後編)」
2009年02月(2):「第15回 起爆剤(前編)」
【2009年02月(1)】
◇「第14回 生きてないからイライラする(後編)/コンプレックス」◇
(第1回〜第13回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
前回述べたように、「何らかのそれを生きていない」ということが、心の奥で感情のカタマリやシコリになり、イライラしたり普通じゃなくなることがあるようです。(もちろん、これがすべてではありませんが)
こういうのはもちろん、個人の中で生じるのですが、それが世代間で生じることもあるようです。というのは、次世代が「それを生きようとする」のを見て、前世代のコンプレックスが刺激され堪らなくなる、こういうことが起こったりするのです。
☆
堪らなくなった前世代は、そのコンプレックスにより、次世代を攻撃するかもしれません。攻撃しないまでも、その関係に微妙な影を落としたりします。あるいは、表面上は何の問題もないのに、抑うつ的になるかもしれない。
しかし、次世代にしてみれば、そんなことは分かりようがない。ただ、「それを生きようとする」だけです。また、そのこと自体に罪はない。
ただ、困ったことに、前世代には処理してない未整理な感情や、「生きていない半身」のようなものがある。生きたくても生きられなかった、そんな事情。当時の常識により封殺されたもの。それを表に現すことを赦されなかった、そんな経緯まであったりする。
あるいは、本人にしたら、そういう意識はないかもしれない。しかし、無意識にあるカタマリが、目の前のそれ――それを生きる次世代――を見て、刺激される。活性化されて動き出してしまう。
そんな絡み合ったカタマリが、前世代と次世代の間にまで、生じてしまいます。(このカタマリが、両者の間の交流、エネルギーの流れを阻害するかもしれません)
更にいえば、そこに個人間の価値観の差や、時代による価値観の差まで加わるのだから、これは簡単に処理できる問題ではありません。ましてや、明確に意識されないのだし。
☆
そして、ふたりの間には「関係」というものもあるでしょう。互いに強い感情を持つということは、そこにはおそらく、切っても切れない間柄のようなものが存在するのだと思います。
切っても切れない間柄、そこに生じる感情、その奥にある感情のカタマリ。それぞれに生じる負担。
これはしんどいです。
しんどくなっている人の背後には、このように、個人だけでない、人と人との課題や、世代間の課題、その集まりが今まで持ち続けてきた課題、そういったものまで隠されているのかもしれません。
まったく、難儀な話です。
☆
さて、今一度、「生きる」ってことの話に戻らせていただきます。
我々は、「何かしらを生きていない」ということで、イライラしたり、普通じゃなくなってしまうということがあります。
これはある意味では、困った症状です。しかし、もう一方では、それだけではない、よい面も有しているようです。
☆
というのは、「生きていない」ということは、それだけ「生きる余地がある」ということでしょ。まだ生きるだけの新しい世界や可能性が、十分にあることも意味しています。
こういうのは、その可能性や生きる余地を否定している限り、単に嫌なものですが――あるいは、そういう面に目を向けない限り、単にイライラさせられるものだったりしますが――その可能性を受け容れてしまえば、必ずしもそれだけのものではないようです。
それはいわば「その先」や「未来」なわけで、世界が広がることを意味するんですからね。(もちろん、そこには当たり前に艱難辛苦が付随するにしても、です)
☆
そう考えると、我々はコンプレックスによって生じる感情を、抑え込もう抑え込もうとしてしまいますが、むしろコンプレックスと共に生き、開放・解放させる方が、いい時もあるようです。
次への扉を開けたり、がんじがらめにしていたものを解くのも、ひとつの方法なんでしょう。
我々はコンプレックスを封じ込めるためにエネルギーを使い、疲弊してしまったりします。しかし、そこでエネルギーを使うのではなく、また、単にコンプレックスに操られて動かされるのでもなく、少しずつコンプレックスを開放・解放しながら、それをエネルギーとし、それぞれが奥に持つ「何か」、「生きてこなかった何か」を、生きることには意味があるのかもしれませんね。
エネルギーも使いよう。
抑え込むために使うか、生かすために使うか。
実際は、どちらも大切なんでしょう。
しかし、人間というのは、生きているうちに一方に偏り、バランスを失うものなので、人生のどこかで「やり直す」ことを強いられるのかもしれません。
個人においても、人と人の間においても、ですね。
(続きは下に…)
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◇「第14回 生きてないからイライラする(後編)/コンプレックス」◇
(第1回〜第13回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
前回述べたように、「何らかのそれを生きていない」ということが、心の奥で感情のカタマリやシコリになり、イライラしたり普通じゃなくなることがあるようです。(もちろん、これがすべてではありませんが)
こういうのはもちろん、個人の中で生じるのですが、それが世代間で生じることもあるようです。というのは、次世代が「それを生きようとする」のを見て、前世代のコンプレックスが刺激され堪らなくなる、こういうことが起こったりするのです。
☆
堪らなくなった前世代は、そのコンプレックスにより、次世代を攻撃するかもしれません。攻撃しないまでも、その関係に微妙な影を落としたりします。あるいは、表面上は何の問題もないのに、抑うつ的になるかもしれない。
しかし、次世代にしてみれば、そんなことは分かりようがない。ただ、「それを生きようとする」だけです。また、そのこと自体に罪はない。
ただ、困ったことに、前世代には処理してない未整理な感情や、「生きていない半身」のようなものがある。生きたくても生きられなかった、そんな事情。当時の常識により封殺されたもの。それを表に現すことを赦されなかった、そんな経緯まであったりする。
あるいは、本人にしたら、そういう意識はないかもしれない。しかし、無意識にあるカタマリが、目の前のそれ――それを生きる次世代――を見て、刺激される。活性化されて動き出してしまう。
そんな絡み合ったカタマリが、前世代と次世代の間にまで、生じてしまいます。(このカタマリが、両者の間の交流、エネルギーの流れを阻害するかもしれません)
更にいえば、そこに個人間の価値観の差や、時代による価値観の差まで加わるのだから、これは簡単に処理できる問題ではありません。ましてや、明確に意識されないのだし。
☆
そして、ふたりの間には「関係」というものもあるでしょう。互いに強い感情を持つということは、そこにはおそらく、切っても切れない間柄のようなものが存在するのだと思います。
切っても切れない間柄、そこに生じる感情、その奥にある感情のカタマリ。それぞれに生じる負担。
これはしんどいです。
しんどくなっている人の背後には、このように、個人だけでない、人と人との課題や、世代間の課題、その集まりが今まで持ち続けてきた課題、そういったものまで隠されているのかもしれません。
まったく、難儀な話です。
☆
さて、今一度、「生きる」ってことの話に戻らせていただきます。
我々は、「何かしらを生きていない」ということで、イライラしたり、普通じゃなくなってしまうということがあります。
これはある意味では、困った症状です。しかし、もう一方では、それだけではない、よい面も有しているようです。
☆
というのは、「生きていない」ということは、それだけ「生きる余地がある」ということでしょ。まだ生きるだけの新しい世界や可能性が、十分にあることも意味しています。
こういうのは、その可能性や生きる余地を否定している限り、単に嫌なものですが――あるいは、そういう面に目を向けない限り、単にイライラさせられるものだったりしますが――その可能性を受け容れてしまえば、必ずしもそれだけのものではないようです。
それはいわば「その先」や「未来」なわけで、世界が広がることを意味するんですからね。(もちろん、そこには当たり前に艱難辛苦が付随するにしても、です)
☆
そう考えると、我々はコンプレックスによって生じる感情を、抑え込もう抑え込もうとしてしまいますが、むしろコンプレックスと共に生き、開放・解放させる方が、いい時もあるようです。
次への扉を開けたり、がんじがらめにしていたものを解くのも、ひとつの方法なんでしょう。
我々はコンプレックスを封じ込めるためにエネルギーを使い、疲弊してしまったりします。しかし、そこでエネルギーを使うのではなく、また、単にコンプレックスに操られて動かされるのでもなく、少しずつコンプレックスを開放・解放しながら、それをエネルギーとし、それぞれが奥に持つ「何か」、「生きてこなかった何か」を、生きることには意味があるのかもしれませんね。
エネルギーも使いよう。
抑え込むために使うか、生かすために使うか。
実際は、どちらも大切なんでしょう。
しかし、人間というのは、生きているうちに一方に偏り、バランスを失うものなので、人生のどこかで「やり直す」ことを強いられるのかもしれません。
個人においても、人と人の間においても、ですね。
(続きは下に…)

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【2009年02月(2)】
◇「第15回 起爆剤(前編)」◇
今まで、「コンプレックスには爆発がつきものです」とか「うまく爆発させるのも、ひとつの手かもしれません」とか、そういうことを書いてきました。実際、物事が収まるひとつの分岐点では、このような爆発が生じることもあるようです。
また、ひとつの爆発で収束に向かう場合もあれば、何度か爆発する場合もあるでしょう。
更にいえば、思い返すと必要な爆発であったと思えるようなものもあれば、悲しいかな、なかなかそうは思えぬような爆発もあるようです。
☆
それはある意味、「変容への爆発」とでもいえましょうか。コンプレックスでいえば、「人が変容する」「人と人とが変わってくる」「場が変わる」、こういう時に、その前段階として、爆発が生じることがあるようです。そのような激しいエネルギーの発動がなければ、なかなか変わらないわけですね。
一方的だったエネルギーが ―― 一方的だったが故に澱んでいたり、負担になっていたりしたものが ―― 爆発を経由して、流れを取り戻してゆく。凝り固まっていたものは流れ始め、一方的だったものは逆流する。
「堰(せき)を切ったように」という言葉がありますが、イメージ的にいえば、ダムが崩壊してこそ、取り戻せる流れもあるということです。
もうちょっと続けさせてもらうと、そのダムにはそのダムなりの役割があり、恩恵もあった。社会的にも認められたものだったりして、非常に助かる部分もあった。
しかし、それは部分であって、全体ではなかった。助かった部分の影で、犠牲にされたものもあった。つまり、見えないところで悲しい思いもし、我慢もし、ある意味では、死んでいたのです。
そして、その死んだ部分に生を与えるためには、ダムの崩壊や、そのための爆発も、時には必要だったと。
☆
少し話は変わるのですが、人が変わろうとする時には、たいへんなことが生じるようです。
例えば、何も話さない子が話し始めた時には、期待していたものとは違った、とんでもないものが口から飛び出すかもしれません。
動きのなかった人が動き始める時には、予期しなかった、驚くようなことをし始めるかもしれません。
それを目にして我々は唖然としたり、失敗したと思うかもしれません。
しかし、「その奥にあるもの」や「今までの経緯」、「全体の布置」などを考えると、そこには納得できるものがあるかもしれませんね。
☆
そこには、今まで禁じられていたもの、封じ込められていたもの、背負わされていたもの ―― そういういわば、今まで殺されていたものの存在を感じるかもしれません。
今まで殺されていたものが急に現れたので、こちらはビックリする。また、極端に封じ込められていた反動として、極端に出てくるので、なおのこと驚く。
そう考えると、また見方が変わってきそうです。
我々は意外と意識しないところで「禁じ手」のようなものを持つもので、その禁じ手を発現させる時には、たいへんなことが生じるものかもしれません。
禁じ手になるということは、それなりに理由があるでしょうしね。
しかし、そういったたいへんなことを経由しながら、禁じ手を表に出し、己の一部にするということには意味がありそうです。
また、その禁じ手の奥に、「ああ、なるほど」と思えるような、例えば、もう我慢する必要のないもの、背負わなくていいもの、そろそろ卒業するもの、そういうものが見えてくるかもしれません。
☆
つまり、「否定的なものに生を与える」というのも、ひとつの鍵なんですね。
これはもちろん、何でも認めろ、というのではありません。むしろ、よく見ないと分からない、といったもの。何でも認めようとして結局よく見ないのなら、それは反対を向いただけで、変わっていないのと同じことですからね。
そして、「否定的なものに生を与える」には、たいへんなことを経由したり、爆発を経たりということが、どうしても必要な部分があるのかもしれません。
(続きは09年03月の過去ログに…)
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◇「第15回 起爆剤(前編)」◇
今まで、「コンプレックスには爆発がつきものです」とか「うまく爆発させるのも、ひとつの手かもしれません」とか、そういうことを書いてきました。実際、物事が収まるひとつの分岐点では、このような爆発が生じることもあるようです。
また、ひとつの爆発で収束に向かう場合もあれば、何度か爆発する場合もあるでしょう。
更にいえば、思い返すと必要な爆発であったと思えるようなものもあれば、悲しいかな、なかなかそうは思えぬような爆発もあるようです。
☆
それはある意味、「変容への爆発」とでもいえましょうか。コンプレックスでいえば、「人が変容する」「人と人とが変わってくる」「場が変わる」、こういう時に、その前段階として、爆発が生じることがあるようです。そのような激しいエネルギーの発動がなければ、なかなか変わらないわけですね。
一方的だったエネルギーが ―― 一方的だったが故に澱んでいたり、負担になっていたりしたものが ―― 爆発を経由して、流れを取り戻してゆく。凝り固まっていたものは流れ始め、一方的だったものは逆流する。
「堰(せき)を切ったように」という言葉がありますが、イメージ的にいえば、ダムが崩壊してこそ、取り戻せる流れもあるということです。
もうちょっと続けさせてもらうと、そのダムにはそのダムなりの役割があり、恩恵もあった。社会的にも認められたものだったりして、非常に助かる部分もあった。
しかし、それは部分であって、全体ではなかった。助かった部分の影で、犠牲にされたものもあった。つまり、見えないところで悲しい思いもし、我慢もし、ある意味では、死んでいたのです。
そして、その死んだ部分に生を与えるためには、ダムの崩壊や、そのための爆発も、時には必要だったと。
☆
少し話は変わるのですが、人が変わろうとする時には、たいへんなことが生じるようです。
例えば、何も話さない子が話し始めた時には、期待していたものとは違った、とんでもないものが口から飛び出すかもしれません。
動きのなかった人が動き始める時には、予期しなかった、驚くようなことをし始めるかもしれません。
それを目にして我々は唖然としたり、失敗したと思うかもしれません。
しかし、「その奥にあるもの」や「今までの経緯」、「全体の布置」などを考えると、そこには納得できるものがあるかもしれませんね。
☆
そこには、今まで禁じられていたもの、封じ込められていたもの、背負わされていたもの ―― そういういわば、今まで殺されていたものの存在を感じるかもしれません。
今まで殺されていたものが急に現れたので、こちらはビックリする。また、極端に封じ込められていた反動として、極端に出てくるので、なおのこと驚く。
そう考えると、また見方が変わってきそうです。
我々は意外と意識しないところで「禁じ手」のようなものを持つもので、その禁じ手を発現させる時には、たいへんなことが生じるものかもしれません。
禁じ手になるということは、それなりに理由があるでしょうしね。
しかし、そういったたいへんなことを経由しながら、禁じ手を表に出し、己の一部にするということには意味がありそうです。
また、その禁じ手の奥に、「ああ、なるほど」と思えるような、例えば、もう我慢する必要のないもの、背負わなくていいもの、そろそろ卒業するもの、そういうものが見えてくるかもしれません。
☆
つまり、「否定的なものに生を与える」というのも、ひとつの鍵なんですね。
これはもちろん、何でも認めろ、というのではありません。むしろ、よく見ないと分からない、といったもの。何でも認めようとして結局よく見ないのなら、それは反対を向いただけで、変わっていないのと同じことですからね。
そして、「否定的なものに生を与える」には、たいへんなことを経由したり、爆発を経たりということが、どうしても必要な部分があるのかもしれません。
(続きは09年03月の過去ログに…)

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