【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、表紙の過去ログ 09年03月分
「起爆剤(後編)」「人と人の間で-2(前編)」を紹介をしています。

表紙過去ログ

    <シリーズ:コンプレックス>
    2009年03月(1):「第16回 起爆剤(後編)」
    2009年03月(2):「第17回 人と人の間で-2(前編)」
【2009年03月(1)】


◇「第16回 起爆剤(後編)/コンプレックス」◇


(第1回〜第15回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)

さて、前回、人や人の集まりが変容していく時の前段階として爆発が生じる場合がある、というようなことを書きました。

その際、その布置を表現するものとして、「疲弊した人」や「疲弊した子」が登場する場合がるように思います。

例えば、何らかの病気になる人、何らかの問題を抱える人、何らかの問題を起こす人、そういう主人公が登場する。

そして ―― けっこう先の話になると思うのですが ―― やがて、その人の存在を通して、集団なり何なりの、問題が語られる。その人が語るという意味ではなくて、その問題を通して、核心の部分が見えてくる。その集まりにかかわるみんなが関係する、核心のようなものが。



時に、この主人公は同情をかけられながらも、困った人扱いをされることがあります。しかし、今まで書いてきたようなことを鑑みると、必ずしもそうとは思えなくなるでしょう。そういう部分があるにしても、それだけとは思えない。むしろ犠牲者だったりする部分もあるかもしれません。

その人は、今ある布置を知らせる人なんであって、役割を担った人です。単に困った人というのではない。(困難を抱えたとか、困った事態に遭遇しているとか、そういう意味では、困っている人)

そして最初、周囲は ―― あるいは本人も ―― 彼・彼女が変わることを要求したり望むかもしれません。でも、もっと高次の視点から見ると、待たれているのは全体の変容であって、その人個人をどうにかしようというのは、実は違うのかもしれませんね。

彼・彼女を核とし、全体が変わることが望まれていたりするのです。



だから、そんな人を早急にどうにかしようというのは実は筋違いなのであって、その人を中心として、視野を広げることこそ、必要なのかもしれませんね。

変わるのはその人だけではない。むしろ、みんな変わらねばならない。(一見すれば問題ないように見えたとしても)

全体の布置を知れば、「ああ!」と思えるようなこともあるかもしれないし、その集団の構成者にしてみれば、「うすうす感じていたこと」と向かい合える、絶好の機会になるかもしれません。(「ああ!」となって喜ぶのは、ちょっと違いますけどね。そこで止まると、先がないから)



主人公を語るには物語が必要で、物語はその世界をあらわすもの。世界を知れば、いろいろと感ずるものもあるでしょう。

逆の方向から言えば、そこにいる人たちが暮らす「その世界」を表すものとして、主人公の顕現が望まれた。そうとも取れます。

主人公はその疲弊した世界を体現するものだったりする。その限界を迎えた世界を表現するものだったりするのかもしれません。あるいは、今は未知の何かを伝えようとするもの。

そして、世界の変容には少なからず爆発が必要で、誰がどういうカタチで爆発するのかは別にしても、その主人公が起爆剤になっていることも、少なくないのかもしれません。



爆発は爆発で厄介だけれど、正常化・清浄化に必要な爆発なら、また考え方や見方も変わろうというもの。

爆発だけに目を奪われると痛みだけがありますが、その奥にあるもののことを考えると、また別かもしれません。

爆発だけに目を奪われると、相手であれ本人であれ、責める気持ちだけが溢れ出るかもしれませんが、その奥にあるものに目を向けると、また違ってくるかもしれません。

我々は実は、うまく表現する言葉というものをあまり持っていなかったりします。そして、意識化が困難な問題というものがあるのだから、なおさら言語化は難しいです。

そういう、意識化や言語化ができないという状況が、何らかの渦巻く状況を作り出し、表面上意味の伝わり難い、問題なり爆発なりを作り出しているということは、あるかもしれませんね。いろんなところで。


ある人は、そういうエネルギーに支配され、荒れ狂ってしまう。ある人は、そういうエネルギーを抑え込もうとして、疲弊してしまう。ある人は不安に駆られ、ある人は何かに夢中になり、ある人はエネルギーを奪われ、ある人は退行する。エネルギーを抱え込み、へしゃげてしまう場合だって、あるかもしれない。



「そこ」に何があるかは、分からない。きっと、本人だってよく分からない。したがって、何か出てくるのを待つということが大切になるんでしょう。

(そして、得体の知れないものを待つというのは、怖いし、しんどい)


その根底にあるのが、意識できないこと(=無意識)と、不理解であるとするならば、硬くなった制限の無い、ニュートラルな状態というのは鍵になるポイントかもしれない。そこで、支配もされず、否定もせず、何が出てくくるか、じっと待つことが、大切になるのかもしれません。



まるで、瞑想ですね。


我々は、我々なりの、自身の瞑想を持つことができるでしょうか…




(続きは下に…)





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【2009年03月(2)】


◇「第17回 人と人の間で-2(前編)/コンプレックス」◇


今まで、コンプレックスについて、いろんなことを書いてきました。でも、読んでいるうちに、そんなこと言ったって心の奥の感情なんて見つめられやしない、ましてや、整理することなんてできない ―― そう思われたかもしれません。そして、実際、その通りなんでしょう。

今まで説明してきたように、コンプレックスとはそういうものです。それは意識できないものであるし、少しでも触れようとすると、カッとなったり、訳が分からなくなったり、そうするものです。簡単に見つめられるものではないし、ましてや、整理できるものでもない。

じゃあ、どうすればいいのか? どうしようもないのか? 何か役に立つものはないのか? そうなるかと思うのですが、実は、人間という存在が、鍵になってくるのではないかと思います。



前にも述べたとおり、感情もコンプレックスも、人と人との間で生じるものだと思われます。ある意味、人が生み出すものです。人間、一人きりだと、生まれんものでしょう。

そして、その性質により、そのなかなか見えない「それ」を見つめようとする場合、これまた、人という存在が必要になってくるようなのです。



繰り返しになりますが、コンプレックスのような、我々がなかなか認識できない、整理できない、感情というものは、人との接触によって顕現するようです。そりゃ、一人きりの時でも出てくるわけですが、そういう時は、誰かのことを考えたり、思い出したりしているわけで、そういう時でも、人の存在というのは関係しているんですね。コンプレックスと人の存在というのは、いろんな意味で、切っても切れない関係であるようです。

人は、人(他者)の存在ゆえに、コンプレックスを生んでしまう。しかし同時に、その人(他者)が、見えないコンプレックスの存在を教えてくれるとも取れる。普段見ることのできない、心の奥にあるカタマリを、間接的に教えてくれる。

そういう、ふたつのことがいえそうです。



例えば、軽はずみな言葉がコンプレックスを生んだり、そのカタマリを大きくするというのは、想像に難くないでしょ?

実際のことをいうのもなんなので、大河ドラマ「天地人」を例として挙げると、この物語には、上杉謙信の後継者として、ふたりの養子、景勝と景虎が登場します。

このふたり、その境遇もあってか、何かと比べられます。言う方に他意があるとは思いませんが、どうしてもそうなってしまうんですね。そして、こういうのは、我々の生きる世界でも同じじゃないかな、と思います。

で、家臣の中には、当然、ふたりについていろいろと言う人が出てくる。

「景勝さまは○○じゃ」「景虎様は○○じゃ」、いろいろと言います。

言う方にしても悪意はなく、実際、それはそれぞれへの褒め言葉であったりするかもしれません。

でも、人の発する言葉というものは、意図せずとも、いろんなものを含んでしまうんですね。

「景勝さまは○○じゃ、でも、景虎さまは…」
「景虎さまは○○じゃ、でも、景勝さまは…」

どうしても、そういう後ろの部分を含んでしまう。それを感じてしまう。また、実際、口に出す者が出てきたりもする。


そして、こういうものは、本人たちにしても、うすうす感じていることだったりします。場合によっては、それを気に病んでいたり、思い悩んでいたりするかもしれない。口には出さなくとも。あるいは、はじめはそうじゃなかったとしても、周囲の者の言葉によって、そうなるかもしれません。

こういうことが生じれば、心の奥にカタマリだってできるし、それを刺激するようなことが続けば、大きくなったりもするでしょう。誰だってさ。



そして、我々の住む世界にしても、こういうことがあるでしょ? ある時は刺激され、ある時は刺激し、そういうことを互いにやってしまう。

他意はなくとも、そうなってしまう。

ということは、我々は、既に何かしらのコンプレックスを持って生きている状態であるといえるでしょう。誰であれ、何かしらのコンプレックスを奥に抱えて生きている。

抱えながらも、問題なく生きている人もいる。抱えるが故に、非常に生きにくいことになっている人もいるでしょう。どちらにせよ、我々はコンプレックスのキャリアであることにはかわりないようです。


だから、どうしても、対処することが必要になってくる。身動きができなくなってきているのなら、なおさらです。

で、対処とは何かというと、ひとつに、認知の歪みのようなものを修正することなんでしょうね。

思い違いをしていたり、間違ってはいないものの一方的になり過ぎていたり、そういう硬くなっているものをほぐさねばならない。

そういうものと、心の奥にあるカタマリをほぐすこととは、実は密接につながっているんでしょう。



で、じゃあ、どうするのかというと、やはり、心の奥にあるカタマリについて、いろいろと気づかねばならない。そして、そのカタマリを作り出している布置についても、知ってゆかねばならない。更には、その布置を構成している、人や、人の態度というものも、見ていくことになるでしょう。

そして、そういう仕事を助けるのもまた、人間という存在になるということです。









(続きは09年04月の過去ログに…)





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はじめに…
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ゲシュタルト療法

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認知の歪み

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