【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、表紙の過去ログ 09年04月分
「人と人の間で-2(後編)」「社会とコンプレックス(前編)」を紹介をしています。

表紙過去ログ

    <シリーズ:コンプレックス>
    2009年04月(1):「第18回 人と人の間で-2(後編)」
    2009年04月(2):「第19回 社会とコンプレックス(前編)」
【2009年04月(1)】


◇「第18回 人と人の間で-2(後編)/コンプレックス」◇


(第1回〜第17回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)

人は人の存在ゆえにコンプレックスを生み出す。しかしまた、人の存在ゆえに、それに気づくことができる。



じゃあその「人」というのは誰でもいいのかというと、そういうことでもないんでしょうね。誰でもいいのなら、この世の中に生きるみんな、自然治癒することになるだろうし。

コンプレックスを見つめようと思えば、何らかの「それ」が、奥の方から出てくるのを待たねばなりません。そして、奥の方から何か出てくるというのは、そうなるに足る、場のようなものがあって、はじめて可能になるのかもしれません。

コンプレックスは普段、奥の方に引っ込んでいるもので、なかなか出てきません。それが何かの拍子に刺激されて、バッと出てきたりするわけですが、そういう出方をする時はすぐにまたパッと引っ込んでしまいます。だから、なかなか捉えられない。いきなり出てきて驚きはするけど、すぐに引っ込むので、驚くばかりで、それが何ものであるか、よう分かりません。だから、別の出方のほうが望ましい。できたら、ゆっくり出てきてほしいわけです。

といっても、そんなの、コントロールできないものがコンプレックスなので、「どれ、ゆっくり出してやろう」なんてことはできません。残念ながら。



で、そうなると、ゆっくり出てくるのを待つしかないんですが、我々は待つことが苦手です。日々の暮らしを思い返してください、いろんなことに対して、なかなか待てないようになっています。

バスや電車なんかでも、来る前からまだかまだかとイライラしたりしてね。パソコンの起動やソフトの動きにも、イライラしたりなんかして。このように、いろんなことに対して、待つのが苦手。

そして、コンプレックスに関係するものというのは、本人であれそれを聴く方であれ、人をイライラさせるものを含んでいたりしますから、なおのこと、待つのが難しくなるようです。

ただでさえイライラしたりカッとなったりするものですから、他のことでは待てる人も、コンプレックスに関係するものとなると、待てなかったりする。まあ、それが人間です。そういう風にできている。文句は神様にどうぞ、ってやつです。(おっと、神様ゴメンナサイ)

その証拠に、人の言うことをただただ聴き続けるというのは、相当に難しいです。我々は何かといえば「でも」「だって」「いや、実は」、そういう風に遮りそうになります。あるいは、「もういい」となってしまったり。そういう風に、口を挟みたくなったり、方向を変えたくなったり、どこかにいきたくなったり、そうなってしまいます。誰だって、そうでしょ?

「じゃあ、何も言わないでおこう」というわけで、今度は、全然別のことを考えたりしてね。

というわけで、ひとりの人間を前にして聴く、聴き続けるというのは、たいへんなことのようです。相当な訓練が要るのでしょう。



さて、コンプレックスの話に戻りますが、環境が整って、何かが出てくるまで待てるような場ができると、また違ってくるようです。混沌としながらも、いろんなものが、だんだんと出てくる。それも、ゆっくりと、ですね。

(といっても、それにしても時間が相当かかるものだとは思いますが)
(それとやっぱり、厄介な出方も経験するんでしょうね)


そんな中で――

「実は、こんなことがあった」「こんなつらいこともあった」

「でも、悪いところばかりでもない」「過去には、こんなこともあった」

「でも、相変わらず、○○だ」


そうやって、揺れながらも、いろんなものが出てくる。それによりだんだんと整理されるようです。



ただ、今まで溜まっていたものが出てくるので、特にはじめの内は、すごいものが出てくるかもしれません。それは一般論からすれば、とんでもないものかもしれない。でも、「今まで溜まりに溜まっていた」ということを考えると、そういう濃さを持つのも致し方ないのかな、とも思います。

それがあまりに直接的になり、「行動」として現れるのは怖いですけど、そうではなくて、赦された場での、「語り」として現れる分には、何ら問題ないんでしょう。

溜まっていたものだから、はじめは濃い。それがだんだんと、落ち着いてくるんでしょうね。



こんがらがったものが出てくるので、それは一見、整理するのとは反対のようにも見えますけど、奥にあるものが少しずつ出てくることで、だんだんと整理されることになるんでしょう。

ぐしゃぐしゃになっていたものが少しずつ出てきて、解かれ、分かるようになってくるし、整理もされてゆく。


また、この「だんだん」というのが、実はよろしいようですね。

「だんだん」という段階を踏むおかげで、我々は本質的な破滅を避けることができます。

逆に、「だんだん」を避けるおかげで、結局、得るものがなくなってくるというのは、生活の中の多くのことでいえそうですね。「バッと出てくる」というのも、「だんだん」とは対照的なものだし。



ちょっと本筋からそれましたけども、人と人の間で言葉が行き来するというのは、意味がありそうです。やっぱり、人を前にするというのは、単に話すということだけではなくて、いろいろと考えるわけですね。(どこまで意識しているかどうかは別にしても)。考えてないようでも、いろいろと考えているものなのだと思います。ということは、ひとりで語るというのとは違って、知らないうちに、いろいろと見直したりしているんでしょう。

いきなり全部は出さないだろうし、ちょっとずつ出したりする。出したり引っ込めたりも、するでしょうか。時には皮に包んだり、時には中身を出したり。「あれ? 本当にそうか?」とか自問したり。

そこにはある種の、怖さというものも含まれるのではないかと思います。疲れたりもするでしょう。そして、やっぱり、揺れる。

でも、そうやって、揺れて、見直して、怖い時もあって、そうしながら、整理してゆけるのかもしれません。



あと、「目が増える」というのも、あるんでしょうね。人が増えることで、視点が増えます。

しかも、自分でない他者ですから、自分にない視点が増えることになる。



そう考えると、人と人って、不思議なものですね。ある意味、それは鏡かもしれない。

人(他者)は鏡だから、自分のある面が見えて、嫌になったりもする。でも、鏡だからこそ、自分のことを気づけたりもする。

よい面もあり、悪い面もあり、難儀な存在です。

でも、よく考えると、鏡自体に善悪はないように、人の存在というのも、それそのものには善悪はないのかもしれません。

それを通して、自分のある一面が見えてくるので嫌になるだけであって、あるいは、自分の非常に近しい人のある面が見えてくるので嫌になるだけであって、鏡自体、人間の存在自体は、また別物かもしれない。

(ただ、「善でも悪でもない」というのは、「善にも悪にもなり得る」ということでもあるのですが)



人は、人ゆえにコンプレックスを生じさせてしまう。

しかし、いろんなものを見つめるには、人を必要とする。


そういうことなんでしょう…




(続きは下に…)





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【2009年04月(2)】


◇「第19回 社会とコンプレックス(前編)」◇


時折、社会がコンプレックスを作る部分があるんじゃないか? そう思うことがあります。

といっても、その社会を構成するのは我々人間であって、それを忘れて人間不在の社会を批判したって、どうにかなるとは思えないんですけどね。



例えば、社会的な価値観ってあるでしょ。あと、文化的な背景とか。そういうものの中で、「○○は素晴らしい」とか「○○こそ大事」とか、そういうものが、時代や地域によって、確かにあると思うのです。カタチは違えど、ですね。

で、そういうのはあっていいと思うのですが、そういうのがあるということは、その反対側もあるということなんですよね。

だから、「○○は素晴らしい」の反対の「××は好ましくない」とか、「○○こそ大事」の反対の「××などつまらないこと」みたいなものが、どうしても出てくる。



で、その素晴らしいものや大事なものを生きられる人はいいんですが、そうでない人は困る。時に、すごく困る。自分の持って生まれたものの一部に、「好ましくないもの」や「つまらぬもの」がある場合、それをどうしていいか分からない。

自我がまだ確立される前に、何らかの「それ」を、社会の価値観として、文化的な背景として、つまり、当たり前のこととして、「好ましくない」「つまらない」、極端な場合には「悪である」、そういう風にされてしまうと、どうなるでしょうか?

自分と関係ないものであれば、それもいいんでしょうけども、自分と関係ある、自分の近しい一部であるとしたら、どうでしょう? 自分と切り離せないものが、そうだとしたら?



その社会に属する人間として、それは否定されるものである。否定しなければならない。そうなると、どうでしょうか?

ともかく、それは持っていてはならない。消し去らねばならない。関わることも避けたい。

そういう、徹底的な拒否が当たり前にあるとするなら、コンプレックスを作るにはうってつけの状況といえるかもしれません。



ところで、究極の「当たり前」は「反射」に似ているかもしれませんね。意識に上ることもなく、処理されます。「それ」を当たり前の悪、当たり前に拒否するもの、と捉えた時、その当たり前の筋道があまりに確立されてしまうと、「それ」は意識されることもなく、どこか見えないところに棄てられてしまうかもしれません。自動処理。

あるいは、それを認識することがあまりに負担である時、心的な保護装置が働いて、それは処理されるかもしれない。意識されることはなく、棄てられるかもしれません。これまた、意識外の自動処理です。

しかし、その棄て場所は、見えないけれど近い場所。外に棄てるのではなくて、内に棄てることになる。内に棄てるとは、溜め込むことです。つまり、無意識と呼ばれる、意識の裏側に棄てられ、溜め込まれることになる。そこに、未整理なまま、放置される。放置され、処理されず、やがて足され、こんがらがって、塊になる。はい、コンプレックスのいっちょ上がりです。



しかし、じゃあ、そんなことになるくらいだったら、社会的な価値観や文化的な背景、素晴らしいものや、大事なものなど、持たないほうがいいのかというと、そういう問題ではありません。

別に、それらを持つからコンプレックスを生じさせる、あるいは、それらがあるからコンプレックスが生じる、そういうことを言っているのではないです。

そもそも、そういう極論に走りたがる人間の性質の方こそ、問題なのでしょう。









(続きは09年05月の過去ログに…)





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