自然治癒力と虐待
★『(1) 恒常性・ホメオスタシス』★
人間には、自然治癒という能力があります。いや、能力といっても、特別なものではありません。誰もが持っているもの。 では、その自然治癒力には、どのようなものがあるでしょうか?
(1) 恒常性を保つ。ホメオスタシス(ホメオスターシス)。
難しく考えることはありません。要は、環境などの変化に対し、生体が内部の状態を一定に保とうとする現象のことです。体をある程度安定した状態に保つための、調整作用。
例えば、暑い所に行くと、汗をかくなどして、体温を下げようとします。逆に、寒いところでは、震えることで発熱して、体温を保とうとする。
このように、人間には体温や血圧などを一定に保とうとする働きがあります。無意識下に、自動調整機能が備わっている。
こういう働きは、心理的にも起きるようです。
安定状態があると仮定しましょう。それは範囲が決まっていて、行き過ぎてもダメ、なさ過ぎてもダメというもの。領域を図式化すれば、例えば、
[ ありすぎ │ 安定状態 │ なさすぎ ]
みたいになる。
平穏に暮らせているというのは、心がある程度安定していることを言いますが、それと上の図を合わせると、自我「○」が安定状態の範囲内であることをあらわす。
[ ありすぎ │ 安定状態 │ なさすぎ ]
[ ―――― │ ○〜〜○ │ ―――― ]
自我「○」は日々の生活の中で動くものの、範囲の中におさまっています。
人間は、性格を持ちます。当たり前ですね。その性格は、態度や行動、生き方に影響を及ぼす。結果、ある部分ではありすぎに偏り、ある部分では無さすぎに偏ることになります。性格を持つとは、そういうことなのです。
ということは、性格を持つ人間は、どこかで、ありすぎに逸脱したり、なさすぎに逸脱することに。
[ ありすぎ │ 安定状態 │ なさすぎ ]
[ ―――― │ ○〜〜○ │ ―――― ] ← 安定している状態
[ ―――― │ ―――― │ 〜○―― ] ← なさすぎてバランスを崩した状態
[ ――○〜 │ ―――― │ ―――― ] ← ありすぎてバランスを崩した状態
何がありすぎて、何がなさすぎるのか? それは人によって、違います。ある人は考え過ぎたり、ある人は感情に動かされすぎたり、あるいは、今にこだわりすぎたり、未来に生きすぎたりしてしまう。話しすぎ、黙りすぎ、動きすぎ、じっとしすぎ、その辺は、いろいろあります。
→ タイプ論 参照。
→ エニアグラム 参照。
さて、カタチはともかくとして、性格を持つ以上、人は○○しすぎるし、また、○○しなさすぎる。こうなると、おそらく、実生活の問題として、何かが生じるのでしょう。何かが生じるのだけれど、人は自分の姿を見ることができません。また、心理作用によっても、自己弁護的になるため、自分自身には気づけないものです。なので、なかなか修正が効きません。
と、そこで、恒常性、ホメオスタシスの出番です。
人間の心理作用は、ありすぎるものは削ろうとし、なさすぎるものは足そうとする。しかし、ここで問題となるのは、一面的な態度や考え方、価値観といったものです。なので、体温を上げるとか血圧を調整するとかとは違って、態度の修正や行動の修正、考え方を変えることを要求します。
ただ、ここで問題が生じます。人間総体は、一面性を見直しバランスを回復させようとしたり、今では変わってしまった世界(環境)に適応するように、人間の態度や考え方を変えるように要求する。というか、したい。あるいは、せねばならない。
けれど、人間総体、心、体、無意識といったものは、言葉を持ちません。人間総体の司令塔である頭とコンタクトを取ろうとしても、話すことができない。共通言語を持たないんです。
そこで、誤解が生じる。
人間総体は、何らかのメッセージを送ったり、何かに気づかせようとする。しかし、言葉で伝えるわけではないから、頭の方は、何のことか理解できません。おかしいなと思ったり、奇妙だなと思ったり、時には、訳が分からない症状に悩んだりもする。
そんなメッセージみたいなものに、何があるでしょうか?
ユングの心理学でいえば、心の言葉は夢といえそうです。心(や人間総体)は夢を通じてその人(の頭、思考)に話しかけ、人間全体の恒常性を発揮させようとします。単純な例をいえば、歯止めが効かなくなっている人に、ブレーキが壊れた車の夢を見せる。あるいは、自身のおかれた状況を、何らかの代替――それもこれしかないという表現――で夢に見せる。
ところが、「歯止めが効かない」のと「ブレーキが壊れた車に乗っている」というのは必ずしもイコールではないので、なかなか気づけないわけですね。夢をストレートに解釈する時、夢見手は現実の世界で、ブレーキが壊れた車に乗るわけではありません。ただ、人生のどこかで、「ブレーキが壊れたような状態」になっていたりする。
その辺の、微妙な受け取り方の変換が、必要になってくるわけですね。
あるいは、ドキドキする症状があるとしましょう。ある一定の状況でドキドキしてしまい、自分ではコントロールできなくなる。さりとて、ドキドキする理由が見当たらない。こうなると、「?」と思うわけですね。心当たりはないけれど、実際にドキドキしたり身動きが取れなくなって、非常に困る。
これを、心のしこりや感情の束みたいにとらえ、コンプレックスと呼ぶこともあります。
→ コンプレックス
この得体のしれないドキドキですが、タイムラグによるものである場合があります。
Aさんが、ある状況で、ドキドキする。でも、なぜドキドキするか、分からない。実はそれはもっともなことで、Aさんは目の前の状況にドキドキしているのではなく、それと同じようでありながら目の前のものとは違う、別の何かにドキドキしているというわけ。
ドキドキしているのは今、でも、ドキドキさせている原因は、今ではなかったり、そこにはなかったりする。症状は現れる。でも、原因は、別にある。別の時間、別の場所、そんな似た様な何かが、ドキドキさせているんです。
例えば、カウンセリングは、その何かを見つけるための試みだったりします。話しているうちに、そんな何かが、自然と出てくるわけ。絡まったものを解いたり、紐(ひも)を手繰り寄せるようにして、肝心な何かにたどり着こうとします。
さて、話はだいぶ反れましたが、要点は、以下のようになります。
(a) 身体と同じように、心にも恒常性・ホメオスタシスがある。(というか、人間総体にある)
これは、ありすぎやなさすぎを知らせ、安定範囲内におさめようとする試みです。
(b) 変化を起こすのは、人間の態度や行動、考え方。
感情はその反応なので、これが変わらないと、気分は変わらない。
これが自然治癒力のひとつなのではないかと思います。
安定した状態から外れると、問題が生じたり、負荷がかかったり、疲弊したりする。それも一瞬であったり短期であるならいいのですが、長期に及ぶと、これは危ない。
なので、人間総体は、それを何とかしようとします。自然の調整作用のように。
私の考えでは、うつ症状も、そのひとつです。人間は多少(社会的に)逸脱しても、「ん?」と気づき、自分の態度や行動、考え方を修正することで、安定状態に戻れる。逆に、戻らないと、破滅しそうになる。
人間総体は、それを司令塔である頭に知らせようとしているのです。
共通言語を持たないために、なかなか意思疎通がうまくいかないわけですが。
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★『心の傷』★
恒常性では、環境に対し、体温や血圧などが調節されます。これも自然治癒ですが、ここでは、傷について。
みなさんも経験があるように、人間の細胞には、自己再生能力や自己修復能力があります。多少ケガをしても、小さなケガなら、わりとすぐに治る。骨折など大きなケガでも、患部を固定し、安静にしていれば治りますよね。あるいは、直接目に触れないような細胞レベルでも、このようなことは行われているようです。この辺は、想像できますよね。
で、今度は、心の話ですが、心理の方でも、このような働きがあるようです。
人間、生きていると、嫌なことがあります。嫌なことがあると、傷ついたり、落ち込んだりする。ただこれも、そんなに大きい傷ではなく、また、一度きりのことなら、割とすぐに治りますよね。傷つくには傷つくけど、ある程度の期間で、治る。これはいわば、心の一部が自己再生したり、自己修復したりしたと、例えられます。
では、その反対は、どうでしょう?
ここでは、いったん、体の話に戻りましょうか。身体の傷やケガが治らないのは、どんな時でしょう?
(1) 治る前に、傷つく。
小さな傷なら、放っておいても治りそう。でも、同じ個所を、何度も傷つけていたら、どうでしょう? 例え小さな傷でも、毎日毎日、同じ場所を傷つけていたら、どうなるでしょうか?
(2) 傷自体が、大きい。
大きな傷は、治りづらいですね。治るにしても、すぐには無理そうです。また、跡が残ることもある。
(3) 安静にしてない。
骨折などは、適切に治療し、安静にしていれば治るようです(基本的にであって、すべてとは限りませんが)。でも、治療を拒否したら、どうでしょう? また、治療したとしても、安静にしてなかったら、どうなるでしょう?
このようなことは実際の傷の話ですが、では、心の傷として捉えた時は、どうでしょう?
(1) 癒される前に、何度も傷つく。
(2) 傷自体が大きい。
(3) 安静にしていない。
心の傷が癒えないのには、こういった理由があるのかもしれません。
人間は、多少のことなら、生まれながらに持つ治癒力で、治すことができます。でも、何度も何度も傷ついていたり、傷自体が大きかったり、安静にしてないと、治るものも治らないかもしれない。
では、それに気づいた時、どうすればいいでしょうか?
そこにひとつの答えが、ありそうです。
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★『虐待と善悪の彼岸』★
人間には、自然に治癒する力があるようです。それは細胞や身体にもあるし、心にもある。でも、何度も何度も傷つけられると、傷が治る暇がありません。
虐待とは、広い言葉です。辞書には、「むごい扱いをすること」と書いてある。これにもう少し法の観点を盛り込むと、「保護下にある人や動物などに対し、長期間にわたって苦痛を与えること」となるでしょうか。
ここでは、場所と、時間(期間)と、状態を規定してみます。すなわち――
[場所] 逃げられない(自分の意志では逃れにくい)状況で
[時間] 長期間にわたり
[状態] 苦痛を与え続けること。
といっても、あくまで仮定です。(このサイトが勝手に定義したものです)
では、ひとつひとつ、見ていきましょうか。
[場所]
容易に逃れられる場合、「長期間にわたる」という項目を自身で消すことができるので、虐待を消すことは可能。ただし、何らかの精神的支配や束縛を受けている場合は、また違ってくるかもしれない。一般には容易に逃れられることでも、特殊な関係により、それが困難になっている場合も、あるかもしれません。これは、その都度その都度、状況を見ないと分かりませんね。
もう少しわかりやすい話をすると、家庭であったり、学校であったり、会社であったり、そういった容易には逃れにくい場所では、虐待に近い行為が生じやすいのかもしれません。なかなか離れられなかったり、出て行きたいからといってホイホイ出て行くわけにはいかない面があります。あるいは、離れにくいという点に注目すると、宗教関係で虐待が生じたりするのも、この逃れにくさ(プラス、逃れさせないようにする力)があるのかもしれません。
また、少し広げると、近所付き合いというものにも、虐待の要素は潜んでいるのかもしれません。引っ越しが簡単でない時、そして、傷つけられることが続く時、「逃れにくい状況で、長期間にわたり、苦痛を強いられる」となって、虐待に近いことになってしまう。
こういった場合、「じゃあ、引っ越せばいいじゃん」と言う人もおられるかもしれませんが、それはひとつの方法だとしても、「長期間にわたり、苦痛を強いる」というのがアリなのかという、問題が残りそう。人は時に、自身の感情に従い、残虐になることがあります。(というか、それと気づかずに、傷つけてしまう)
[時間]
ここでは、長期間にわたり、というのが問題になります。上で書きましたが、人間には自然治癒力があるので、多少のことなら、治ります。でも、長期間にわたり傷つけられていると、治るものも治りません。
分かりやすいのは、暴力です。長期間暴力を振るうのは、虐待ですよね。でも、心を傷つけるのは、それだけではないでしょう。例えば、「ウンザリする気持ち」も、心を傷つけるのではないでしょうか。
人間は、一度くらいウンザリしても、忘れます。でも、何度も何度も、ウンザリさせられたら、どうでしょう? 毎日毎日、ウンザリしたら、心はどうなるでしょうか?
驚きだって、そうです。一度驚いても、傷にはならない。怒りだって、そう。一度怒るくらいでは、傷にはなりません。でも、毎日毎日驚かされたり、毎日毎日怒らされたり。そうなったら、どうでしょう? 心が毎日かきむしられるようになれば、どうなるでしょうか?
人は他人事として覘く(のぞく)時、その一瞬だけを見て判断します。その1回だけを見て、大丈夫だろうとか、大したことないと、判断する。でも、それは1回とは限らない。
特に虐待の訴えがある時は、気をつけた方がよさそう。
「繰り返し」や「慢性化」というのは、そういう恐ろしさがあります。一度なのか? いつもなのか? それについても、確かめた方がよさそうです。
[状態]
苦痛を与え続けること。
苦痛には、目に見える苦痛と、目に見えない苦痛があるようです。ちょっとおかしな話になるかもしれませんが、生活習慣病だって、ある種の虐待といえなくもありません。暴飲暴食などによって、血管や臓器が、見えないところで傷つけられているわけですから。血管にとっては、「逃れにくい状況で、長期間にわたり、苦痛を強いられている」のかもしれない。
といっても、だから人間――この場合は頭――を責められるのかというと、そうでもないですね。大人になると分かりますが、飲まないとやってられないとか、食べないとやってられないとか、そういうことは多々あります。その人はその人で、追いつめられていたりする。
そう考えると、酒を飲んでいるのか飲まされているのか、大食いしているのかさせられているのか、分からないところがあるんです。快楽主義や怠惰なだけでなく、ストレスにより、まるでそうさせられているかのようになっていることがあるから。
自然な状態だと、それなりに健康に暮らせる。そんな人も、ストレスにさらされ、酒を飲まないとやってられなくなったり、大食いしないと収まらなくなることも、ありそう。
そういう意味では、その人自身、被害者である部分も。ただ、その二次被害が血管や臓器に来ているわけです。
さて、この苦痛ですが、いろいろありますね。暴力などの身体的な苦痛から、ウンザリや怒り、その他いろいろな、精神的苦痛がありそう。
そんなものを誘発するものとして、暴力や言葉の他、音やニオイなど、いろんなものがありそうです。そしてそれが、逃れられない状況で、長期間にわたり続けば、虐待になってしまいます。
では、どうして、虐待になるのでしょう?
それは、苦しめるのを、やめないから。
では、どうして、やめないのでしょう?
それは人が、自己弁護的であるからかもしれません。
人はどうしても、「わたしは悪くない」と言いたい。また、自分が一体化しているものに対し、「あの人は悪くない」と考えたい。「悪くないから止めないんですよ」というのが、無意識化で働いているようです。そんな防衛を、人間は持ってしまう。
で、そんな防衛を取り払うのが、聴くことだといいます。反論せず、指ささず、黙って聴く。それによって、善悪を超えた、態度の改変を導き出す。
人に防衛があって、自己弁護してしまう以上、指摘や善悪論は、むしろ害になるのかもしれません。なので、善悪を抜きにした、純粋な態度の改変を、考えねばなりません。
苦しまないために、そして、苦しめないために。
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