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★『羨ましいということ…』★
羨ましいと思うことは、誰にでもあると思います。
「羨ましい」というと、どんなイメージがあるでしょうか?
そんなにいいイメージがしませんよね。何だか、切ない感じがします。
羨ましいという時は、だいたい、
・自分にないものを誰かが持っているとか、
・自分にできそうにないことを誰かがしているとか、
・自分にない状況に誰かがいるとか、
そういう時で、しかも、意識的か半意識的かは別にして、自身がそれを望んでいる(欲している)状態だったりするでしょう。
何だか、切なくて、何ともいえない状態ですよね。
あるいは、それも過ぎると嘆きたくなったり、逆に、「そんなもの要らない!」「欲しくない!」「なりたくない!」と、強がりたくもなります。
でも、そこには何らかの感情が存在するようですね。
何ともいえない気分になったり、切なかったり、寂しかったり、腹立たしかったり、泣きたくなったり、そんな気分を否定したくなったり(羨ましくなんかない、羨ましくなんかない…)(寂しくない、欲しくない、何とも思わない…)、あるいは、抑圧しようと、躍起になるかもしれません。(羨ましいなんて、思っちゃいけない、思っちゃいけない…)。
ともかく、そこには何かありそうですね。そもそも、何もなかったら、羨ましくなんかならないわけだし…
◇
ところで、上で、
>・自分にないものを誰かが持っているとか、
>・自分にできそうにないことを誰かがしているとか、
>・自分にない状況に誰かがいるとか、
そう書きましたが、遠くの誰かが、仮に、
・自分にないものを持っていようと、
・自分にできないことをしていようと、
・自分にない状況にいようと、
確かに、多少は羨ましくなるかもしれませんが、それに対して、ああだこうだ言うことも、そんなにないでしょう。ああだこうだ言うにしても、深くこだわることは、そんなにないと思います。
尊敬するとか、目標にしたいとか、そういうのはあるかもしれませんが、「腹の底から羨ましくて、いつもそのことを考えてしまう」――そういうことは少ないんじゃないですかね。(無いとは言いませんが、少ないと思います)
あるいは、自分には関係がないから気にならないとか、さらっと流すことの方が、多いと思います。
で、逆に、身近な誰かが、
・自分にないものを持っていたり、
・自分にできないことをしていたり、
・自分にない状況にいたり、
そうすると、すごく羨ましかったりしますよね。悔しい時さえ、あるかもしれません。
この違いは何なんでしょうか?
◇
遠くの誰かはあまり羨ましくないのに、身近な誰かは羨ましくなってしまう――これって、どういうことなんでしょう?
違いといえば、「遠いか、近いか」「関係があるかないか」ですかね。
何かしら関係があると、羨ましくなってしまう。遠くの出来事では羨ましくなくても、身近な出来事では羨ましくなる。遠くの人では羨ましくなくても、身近な人では羨ましくなる。
まあ、近くの出来事の方が影響が強いのは、その通りなんでしょう。関係も、それなりに深くなります。
そして、実は、もっと近く、もっと関係の深い「何か」が、影響を与えているのかもしれません。
☆
・自分にないものを持っていたり、
・自分にできないことをしていたり、
・自分にない状況にいたり、
これって、ある意味、「(自分とは)反対のもの」ですよね。
反対のも――何か思い浮かびません?
自分の近くにあって、自分と関係が深く、そのくせ、何かと反対のものだったりする、しかも、よく分からん存在…
そう、「影」です。
影とは、
・自分の生きていない半面、
・いまだ開発されない、未知のもの、
・普段否定しているようなもの、拒否しているようなもの、
・身近にあって、よう分からんもの
そういうのを、さします。(いろんな面があるんですけどね)
つまり、「羨ましい」ということは、
・自分の生きていない面や、
・いまだ開発されていない未知のもの、
それらと関係しているのかもしれないのです。
ということは、「羨ましいということ」をきっかけに、
・自分の生きてこなかった面に気づいたり、飛び込んだり、
・それによって、いまだ開発されていない未知の面を開拓できるかもしれない、
そんな可能性を包含していることになります。
新しい生き方をする、新境地を開拓する――そんな可能性を秘めているんですね。
では、そんな「いいもの」なのに、何故、複雑な気分になるのでしょうか?
◇
そこには、「影」の一面でもある、
・今まで拒否してきたもの、
・否定してきたもの、
・認めることができないもの
そういう面が存在するからです。
今まで拒否してきたものを、そう簡単には認められません、否定してきたものを、受け容れられません。
だって、それは嫌いなもの、性分に合わないものであることが多く、端(はな)からポイされて、選択肢の中にも挙がらないことだったりするんです。
そこら辺に転がっていることでありながら、反射ともいえる感じで捨てられるので、意識にも上らなかったりするんです。
それが急にむくむくと動き出したら、ちらちらと見え出したら、そりゃ、戸惑いもしますよね。いろんな感情が出たって、不思議じゃありません。
☆
人間には、「今まで」生きてきた、そんな慣れ親しんだ生き方があります。したがって、影という、今までとは反対の生き方に飛び込むには、それなりの勇気や決意がいるもんです。
それは「今まで」慣れ親しんだものを「棄てる」部分も有し、「今まで」無意識的・反射的に捨ててきた、そういうものと「付き合う」ことも、意味するのです。
これを人間に置き換えてください。「今まで」慣れ親しんだ人と別れて、「今まで」向かい合わないようにしてきた人と付き合うんです。
たいへんでしょ?
「今まで」の生き方を棄てて、「今まで」問題としてなかった生き方を歩むんです。
そりゃ、複雑な気持ちにもなります。もう、なんや分からんでしょう。
☆
更には、それによって「変化」も生じるわけで、当然、変化の一面である、破壊性も含むことになります。なにせ、「今まで」を壊すんですからね。(結果、壊れるんだから)
更に、「安定」していた「今まで」が変化するんですから、「不安定」にもなるでしょう。
素晴らしい可能性の傍には、このような、恐ろしい面も存在しているのです。というか、ワンセットなんです。
理屈じゃなく、事実、そうなんだもの…。
☆
したがって、「羨ましい」には、いい部分も悪い部分もあって、そこに葛藤が生じるのも無理ありません。それは自然なことです。
しかも、人間は、それを簡単には意識化しないようにできてますから、そりゃ、複雑な気分にもなりますわな。
そりゃそうです。それでこその人間です。非常に人間らしい側面です。人間たぁ、そういう風にできているんです。
で、そういうことを踏まえて、そんな時、我々はどうしたらいいのか? そういうことになるでしょう。
◇
正直、答えなんか無いと思います。「こうすればいい」なんて無いですよ。
(答えを期待した方には、申し訳ないですけど…)
「こうすればいい」という答えは、非常に限定された状況において言えることであって、漠然としたものに対しては使えないし、使ってはいけないことです。
「薬」だって、そうでしょう。非常に限定された状態に対して効果を発揮するんであって、使用を間違えれば、かえって病気が悪くなったり、場合によっては死んでしまいます。すべてを「これで大丈夫」でくくるのは、詐欺師やペテン師、ニセ科学の信奉者のくらいのもんです。
したがって、「羨ましい」という非常に漠然とした広い状況に対し、決まりきった答えなんてあるはずもありません。多種多様な個性ある人間に対し、決まりきった答えなんてないですよ。
☆
その答えを、仮に、「やってみる」と「諦める」に限定したとしても、それをやって成功する人もいれば、それをやったことで不幸になる人もいます。それをしないことで不幸を免れる人もいれば、それをしないことで不幸に(=幸せを逃したと)思ってしまう場合もあるでしょう。
何がいいかなんて分かりませんよ、実際。
ただ言えることは、「羨ましい」という思いが一過性のものではなく、いつもいつもあったり、抑えるに抑えられない時、何より、もう堪らない時は、「そこに何かあるだろう」ということです。
それが何か「今は」分からぬにせよ、何かしらは存在するんでしょう。
だって、実際、何らかの感情の動きがあるわけですから…。
☆
「羨ましい」を辞書で引くと、以下のように書いてあります――
『うらやむ気持ちをそそられるさま。人が恵まれていたり、物事が優れていたりするのを見て、自分もそのようになりたいと思うさま』
(三省堂「大辞林」より)
ということは、そこには「自分もそのようになりたい」という気持ちが、少なからずあるということなんでしょう。
自分もそのようになりたい、でも、なれっこない、
自分もそのようになりたい、でも、それは認められない、
自分もそのようになりたい、○×△□#%…
いろんな思いがありそうです。そして、そこには、何らかの事情がありそうです。
(もっとも、それは意識の下のほうなので、すぐに見えるものでもないようですが…)
◇
葛藤というと、迷い、留まりながら苦しんでいるイメージです。進むに進めず、「留まっている」のです。では、「進む」とはどういう状態でしょうか?
各人がどう進むかは分からないし、分かった気になるつもりもありませんが、その「前提」はありそうです。
つまり、どういう選択をするにしろ、「羨ましい」という気持ちに裏にある――例えば、「自分もそのようになりたい」という――気持ちは、受け取る必要があるのかもしれません。
そもそも、その大前提を反故にするために葛藤しているようなもんですから。選ぶことを迷う以前に、目の前にある前提を、どうにか拒否しようとしてしまうのです。
羨ましい、自分もそのようになりたい、でも、それを認めることはできない――それだけの、何らかの理由が、そこにはあるということなんでしょう。
そして、その理由の中には、個人的なものもあるし、人間なんだからという普遍的なもの、人間の生まれ持ったメカニズムに関係するものも、そういうものも多々あるでしょう。
実際、両方が関係しているのだと思います。(だから、いい悪いでは、分類できない)
☆
我々は人間なんだから、何かしらを羨ましいと思うこともあるでしょう。そういうもんです。そして、そこにある見えないものに、モヤモヤしたり、ムカムカしたり、イライラしたり、そういうこともあるでしょう。それでこその人間です。
そして、何かにつけ、インスタントな答えを求めてしまいます。
実は、これが問題。
ある筈のない安易な答えを求め、ある筈のない魔法による解決を求め、それにより、悩みを倍化させてしまいます。
しかし、実際に必要なのは、答え云々ではなくて、そこにあるものを、少しずつ認められるようになること、なのでしょう。
そのシンプルなことがなかなかできないので――人間には、それを妨げるメカニズムが備わっていたりするので――悩んじゃうんですね。
☆
結局、どんな選択をしてもいいんです。しかし、その大前提たる――例えば、「自分もそのようになりたい」という――気持ちを何とか受け容れていくこと、それが大切なんでしょう。
そして、それさえ知っていれば、自分の選択にも、それなりの責任が負えそうです。
自分の気持ちを反故にしながら、あるいは、反故にするために、あれが悪い、これが悪い、あれはダメ、これもダメ、と言っていても仕方ないですもんね。
いや、それにまったく意味がないかというと、そうでもないんですが、しかし、悶々としたまま苦しむのも(苦しみ続けるのも)つまらんでしょう。
「自分もそのようになりたい」ということは、そこには少なからず、新しい可能性が潜んでいるということです。なにせ、「関係ない」ことで心は揺れませんからな。
(もっとも、「そこに何があるのか?」は、簡単には分からなかったりしますが…)
◇
関係ない、関係ある、自分の生き様に関係することには、誰しも敏感になるようです。
それが意識していることであろうと、なかろうと、「今まで」の生き様であろうと、「これから」の生き様であろうと、 意識している生き様であろうと、意識できていない(未知の=影の)生き様であろうと、ですね。
で、多くは、意識の下にある、影の面に抵触してくるので、時に、カッとなったり、反射的に意識下に追いやったり、すぐに否定しようとしたり、抑圧しようとしたり、別のことに取り組んだり――そういう、それぞれの人間の持つ、パターンにそって処理されるんでしょう。(よって、意識には上らなかったりします)
☆
生き様といっても、今は生きていない生き様は、なかなかどうして、分かり難いものです。それでいて敏感ときている。
まだ向かい合っていないので未分化、整理されておらず、混沌としていて、よう分かりません。まだ十分に生きていないというか、それ以前に、スタートもしてなかったりしますからね。つまり、未経験。そりゃ、いくら自我が歳をとっていても、その部分は、幼いです。何せ、「これから」の部分ですもんね。
自我は今まで生きてきた分だけ、ある程度、経験豊富だったりしますが、影の部分は未経験、そりゃ、躊躇します。怖いですよ。だって、「未知」ですもん。暗がりを歩くのは、誰だって怖いです。
でも、無視しききれない。その暗がりには何かあって、何かしら訴えかけてくる。見えない、けど、何かある。そして、何かを、発している。
そのひとつのカタチが、「羨ましい」という感情なんでしょう。
☆
何やよう分からん、それでいてこだわってしまう、いい可能性もあるようだ、自分の理想や望んでいることも、そこにあるかもしれない、しかし、何だか怖い、恐ろしいものも隠れていそうだ、失敗もあるだろう、失うものもあるかもしれない、それは「今まで」を壊すこと、安定を棄て去ることでもある、そういう多くのことを、「羨ましいということ」は含んでいるようです。
いいも悪いも、
得るものも、失うものも、
希望も、失望も、
安定も、不安定も、
喜びも、苦しみも、
面白さも、無理難題も、
破壊も、創造も、
全部含んでいるようですね。
それはすべて、ワンセット。そういうものをようけ包含するからこその、可能性なんでしょう。決まりきったことは、可能性とはいいませんものね。
☆
だから、やっぱり、怖いですよ。
でも、それさえ踏まえたら、大丈夫。選択といったって、何を選択してもいいんですから。
何故迷うかというと、実は迷う以前に、目の前のことが見えていないんです。いろんなものを包含した大前提、目の前の事実、そして、自分の気持ち、意識の少し下にある気持ち――それらを拒否しているから、どうも、ややこしいことになってしまう。
たくさんある内の、ひとつを取って、慌ててしまう。他のことは、無視してしまう。自分の気持ちまで無視してしまう。
実は、葛藤といいながら、葛藤までいってなかったんですね。
いろんな事情で――というのは、個人の事情や、人間の生得的なメカニズムのせいで――目の前の事実や、自分の気持ちというものが、受け容れられなくなっているんです。
(本来広いものを、狭めている。制限している)
(押すものがあるのに、無理に踏ん張ってしまっている)
だから、いろいろ思い悩むこともありますが、こういう、受け容れるのを邪魔するものを取り除く作業こそ、ホントは大切なのかもしれません。
詰まっとるもんを、取り除くんですね。血栓を取ったるんです。
☆
関係あるから、羨ましい、
他人がどうこうではなくて、自分に関係するから羨ましい、
どうも、そうらしい、
まずは、そこから…
ですかね。
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