読み物
★『五感と暴力・五感と心地好さ』★
「五感と暴力」
五感に関するもの、それはちょうどいい感じだと、心地いいんですが、逆に、それが度を越すと、暴力的になってしまいます。
☆
五感――視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、
度を越した光、明るさ、
度を越した音、
度を越した刺激、
度を越した味(辛さ、甘さ、酸っぱさ、etc …)、
度を越したニオイ(臭い・匂い)、
全部、度を越すと、暴力的になります。
その気がなくても、攻撃的に感じてしまいますよね。
ある意味、五感が攻撃されている、ともいえるんでしょう。
☆
但し、この「度」というのが曲者です。
ある人の普通は、別の人にとっては普通ではないので、ある人の普通が、別の人にとって、暴力的になることも、しばしば。
(また、これがトラブルの元)
誰しも自分なりの普通があって、しかし、他の誰かにとっては普通ではなく――むしろ、度を越していて――だから、あまりに譲らないと、暴力的・攻撃的になってしまいます。
一方が普通だと思っている行為が、もう一方には度を越した行為であり、それにより、慢性的に苦しんでいたり、心休まらなかったり、そういうこともあるでしょう。
★
また、明らかに非常識なことを普通としている場合、余計に暴力的になるでしょうね。普通ということは、たいてい「いつも」だから、いつも、普通に、人に苦痛を与える。
(また、「普通」とか「常識」とか、そういうものが随分と失われた感があるし…)
まあ、普通とか常識とか、こういうものにも色々な考え方があって、何でも普通とか常識とかに当てはめようとすると、それはそれで無理が出てくるし(一人ひとりの個は、違った存在ですからね)、しかし、普通とか常識とかが、あまりに蔑ろにされると、無秩序になりますわな。
現代の問題としては、これらが悪いほうに働いているように思います。
というのは、一方では、何でも枠にはめたがり(枠からはみ出ることが、如何にも罪であるかのように扱い)、もう一方では、社会常識とか、社会規範とかが、蔑ろにされてしまっている。
前者においては、寛容さが無く、後者においては、厳しさがない。
逆にいえば、つまらない部分で厳しくて、つまらない部分で寛容です。
バランスが悪いですよね。
☆
まあ、自分が気に入らないなら――あまりに暴力的で堪らないなら――そこを避けたりすればいいんですが、そうもいかない場合も多々ありますよね。
それは難儀です。苦しい。
いつも傍にあって、迷惑しているのに譲らない(しかも、避けるわけにもいかなかったりする)、そういう場合もあるでしょう。
これはもう、堪らない。
☆
まあ、誰しも自分なりの「普通」や「常識」があるんですが、それが他の誰かにとっては暴力的であることもあるでしょう。
それを踏まえないと危ないですよね。
で、何だか救いのない話になりましたが、解決法がないわけでもないと思います。
それは、「ちょっと気を使う」こと。
何かしらの態度や行動を、する・しない、ではなく。
ちょっと気を使う。
度を越さないように、気を使う。
度を越した明るさにならないように、
度を越した音にならないように、
度を越した刺激にならないように、
度を越した味にならないように、
度を越したニオイにならないように、
ちょっと、気を使う。
これで随分、丸く収まるように思います。
(但し、その「度」は人によって随分違う場合もあるので、その差によっては、難しい場合もあるでしょう)
☆
まあ、「ちょっと気を使う」は「ちょっと」なので、一見、簡単なようですが、下記のような場合は、難しいんですよね。
『キレる大人のメカニズム』
簡単なんだけど、難しい。
当たり前ですが、意識しないと分からない。
そして、意識するのは、つらい。
何にしても、認めるのはつらいもんです。
でも、意識しないことには改善されない。
そして、どこかで勝負しなければならなくなるんでしょう。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
「五感と心地好さ」
上で、「五感に関するものは、度が過ぎると、暴力的になる」というようなことを書きました。
でも、これも、ちょうどいい感じだと、心地いいんですよね。当たり前ですけど。
☆
但し、この「ちょうどいい」も個人差があって、人それぞれです。
ある人の「ちょうどいい」は、別の人にとっては全然よくなかったり、場合によっては、度外れなこともしばしば。
でも、そんなことはさておき、自分にとって「ちょうどいい」ものは、心地いいですよね。当たり前に。
(当たり前に、当たり前に――と繰り返しますが、その当たり前を見失いがちなのも、人間です。ああ、ややこしい…)
☆
その、自分にとって「ちょうどいい」が、世間一般からすれば度を過ぎている場合もあって、
まぶしいくらいがいい、
うるさいぐらいがいい、
痛いぐらいがいい(マッサージとかね)、
辛いぐらいがいい、甘いぐらいがいい、酸っぱいぐらいがいい、
臭いぐらいがいい? → ああ、きつめのニオイがいい、
そういう場合もあるでしょう。
で、こういうものは、当人が楽しむ分には、何ら問題がないと思います。
ただ、他人の領域を侵すなら、やっぱり問題で、この辺はちゃんと考えないといけないんでしょうね。
(自分の「いい」が相手にとって「いい」とは限らず、自分の「普通」が相手にとって「普通」であるとは限りません)
(あまりに「普通」や「常識」がないのも困るし、かといって、何でも「普通」に押し込まれるのも困るし、ややこしいですね)
自分で楽しむのは、基本的に、それでよし。他人に侵害されるものでもない。
でも、他人の領域を侵害しないと自分は楽しめないというのは、ちょっと乱暴で、子供じみている。
この辺は考えないといけないようです。
☆
大雑把な言い方をすれば、
私的空間では、どのような楽しみ方をするのも、本人の自由で、しかし、公的な空間、人と共有するような空間では、それなりの気を使わないといけないんでしょう。
これに反して、公的空間を自分の部屋みたいに使うと、とんでもないことになりそうですね。
(子供じみたトラブルを生みそうです)
また、五感に関するものは私的空間と公的空間を行き来したりするので、ここにも気を使う必要がありそうです。
☆
話を戻すと、人間、趣味嗜好が違うのは当たり前なんで、理想を言えば、その違いを楽しめるくらいが、いいんでしょうね。
「それは私と違う」と言うんですが、それは相手のそれを否定するんではなくて、その違いを面白がるとか――面白がるといっても、「興味深い」という意味での、面白がるですが――その違いについて、ああだこうだ言って、盛り上がるとか、そういう風に楽しめるといいですね。
(まあ、公私の区別はつけながら…)
で、自分は大いに楽しみながら、最低限、人の迷惑にならないように、気は使わないといけないんでしょう。
☆
まあ、何にせよ、せっかくの人生、楽しまないとね。
それなりの気を使いながら。
【追記】
で、こういうことを踏まえると、自分の「ちょうどいい」と、相手の「ちょうどいい」、それが重なると、うれしいですよね。
まるで、抱き合う感じ。
喜び、思わず抱き合う、あの感じ。
ページの先頭に戻る