表紙過去ログ
【2009年12月】
◇「第31回 次の仕事と卒業/コンプレックス」◇
(第1回〜第30回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
集団が安定を求めようとする時、その中心となる人物が必要となるでしょうか。まとまり安定するためには、どうしても中心が必要になる。あるいは、安定するにしたがって、その中心や重心が出てくる。
集団を引っ張って、まとめる存在。核となるもの。リーダー。そういうものが出てきますよね。
(もちろん、ひとり一人が確立されていればまた別ですけど)
☆
で、そのような場がある以上、中心となり頼りにされる人、つまり、権威者が生まれることになる。
意識するしないは別にして、そういう布置が出来上がってくる。
何にせよ、場の構成者は権威者を頼り、それを中心としてまとまってゆきます。そうやって、だんだんと安定を得てゆくのです。
中心がなくバラバラだと、安定のしようもないですしね。
ところが前回述べたように、時代や事情は変わってきます。人は同じでも、環境が変わったりする。
また、権威者が一生懸命頑張ってきた背後には、手つかずのものや、注目しなかったもの、あるいは、犠牲にしてきたものが存在して、それが周囲の変化と共にいきなり顕在化することもあるでしょう。
実はそれは前々からあった。うすうす感じていたりもした。でも、安定の影で、注目されなかった。しかし、場が転換することで、いきなり前面に出てきたりする。突きつけられたりする。
「安定させるために」「安定を得るために」、それに一生懸命になれば、何かしら、そういうものが出てしまうようです。
何かに精を出すということは、他の何かには手をつけないことなのです。
☆
安定の次には、こうした問題が生じるんですね。
安定して目出度し目出度しとはいかなくて、次なる問題が生じてしまいます。
☆
例えば、公(こう)や社会のために頑張れば、私(し)の部分は手つかずになりますよね。
逆に、私のことばかりだと、公や社会のことが疎かになる。
それが、仕事と家族だったり、家族と私事だったり、いろいろあるわけです。そこに学問が入ったり、趣味が入ったり、欲が入ったり、いろいろとあるんでしょう。
タイプ論やエニアグラムで述べたように、それが性格的な要素である場合もあるでしょう。
☆
権威者との関係に戻れば、権威者自身も、場の構成者も、そういうものにはうすうす気づいていたりするのだと思います。何かが欠けていると。
まあ、意識的にか無意識的にかというところはあって、ある程度意識しながら口にしない場合もあれば、そもそも無意識下にあるので気づかないということも、あるのだと思います。
☆
口にしないといえば、なぜそうするかというと、権威者が場の安定のために頑張った、その事実があるからかもしれません。
権威者からすれば、しょうがなかった、となる。何よりも場の安定を求めて頑張ったんですから。貢献したんだから。
また、場の構成者にしても、それが分かっているので、口に出すことはなかったりします。何はともあれ、ありがたいんだし。
☆
ただ、それは場の中の心情であって、その外の世界はまた別かもしれません。
権威者の持つ弱点や欠点が仇となって、今度は、場や集団が窮地に陥るかもしれない。
安定を得るために手つかずだったことで、今度は、安定が奪われるわけです。
また、別の方向――つまり、内側――でも、こういうことが生じる。
確かに、場の安定を獲得するために、「何らかのそれ」が手つかずだったのは、しょうがない。
でも、それは頭の理屈であって、心のほうはどうだろう? ということになる。
頭がしょうがないと思う背後で、心は何かを欲しているのかもしれない。実は今までも、そういう信号を送り続けていて、それを頭がことあるごとに抑えつけてきたので、そういう経路が確立し、今や、反射的にゴミ箱に捨てられているのかもしれない。
また、それとは別に、心の補償作用や天のセッティングみたいなものが、手つかずだったもの、生きていない部分、それらと対面させようとする面もあるでしょう。
後者でいえば、そうしないと危ないわけです。欠けたものを補う必要がある。そのままでは危ないよ、ということ。
そういうものが、実は人間の中にもあるし、外の世界にもあったりする。
☆
さあ、安定した。それは嬉しいし、素晴らしい。助かった。
でも、それで終わりではない。
次は、今まで手つかずだったものとの対面が待っている。
今まで背を向けてきたものに、目を向けていかねばならなくなる。
今まで生きてないものを生きる。
そういう仕事に取り組むことになるようです。
次の仕事、今までの卒業、
そういうものが待っているようです…
(続きは「安定と破壊」に…)
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◇「第31回 次の仕事と卒業/コンプレックス」◇
(第1回〜第30回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
集団が安定を求めようとする時、その中心となる人物が必要となるでしょうか。まとまり安定するためには、どうしても中心が必要になる。あるいは、安定するにしたがって、その中心や重心が出てくる。
集団を引っ張って、まとめる存在。核となるもの。リーダー。そういうものが出てきますよね。
(もちろん、ひとり一人が確立されていればまた別ですけど)
☆
で、そのような場がある以上、中心となり頼りにされる人、つまり、権威者が生まれることになる。
意識するしないは別にして、そういう布置が出来上がってくる。
何にせよ、場の構成者は権威者を頼り、それを中心としてまとまってゆきます。そうやって、だんだんと安定を得てゆくのです。
中心がなくバラバラだと、安定のしようもないですしね。
ところが前回述べたように、時代や事情は変わってきます。人は同じでも、環境が変わったりする。
また、権威者が一生懸命頑張ってきた背後には、手つかずのものや、注目しなかったもの、あるいは、犠牲にしてきたものが存在して、それが周囲の変化と共にいきなり顕在化することもあるでしょう。
実はそれは前々からあった。うすうす感じていたりもした。でも、安定の影で、注目されなかった。しかし、場が転換することで、いきなり前面に出てきたりする。突きつけられたりする。
「安定させるために」「安定を得るために」、それに一生懸命になれば、何かしら、そういうものが出てしまうようです。
何かに精を出すということは、他の何かには手をつけないことなのです。
☆
安定の次には、こうした問題が生じるんですね。
安定して目出度し目出度しとはいかなくて、次なる問題が生じてしまいます。
☆
例えば、公(こう)や社会のために頑張れば、私(し)の部分は手つかずになりますよね。
逆に、私のことばかりだと、公や社会のことが疎かになる。
それが、仕事と家族だったり、家族と私事だったり、いろいろあるわけです。そこに学問が入ったり、趣味が入ったり、欲が入ったり、いろいろとあるんでしょう。
タイプ論やエニアグラムで述べたように、それが性格的な要素である場合もあるでしょう。
☆
権威者との関係に戻れば、権威者自身も、場の構成者も、そういうものにはうすうす気づいていたりするのだと思います。何かが欠けていると。
まあ、意識的にか無意識的にかというところはあって、ある程度意識しながら口にしない場合もあれば、そもそも無意識下にあるので気づかないということも、あるのだと思います。
☆
口にしないといえば、なぜそうするかというと、権威者が場の安定のために頑張った、その事実があるからかもしれません。
権威者からすれば、しょうがなかった、となる。何よりも場の安定を求めて頑張ったんですから。貢献したんだから。
また、場の構成者にしても、それが分かっているので、口に出すことはなかったりします。何はともあれ、ありがたいんだし。
☆
ただ、それは場の中の心情であって、その外の世界はまた別かもしれません。
権威者の持つ弱点や欠点が仇となって、今度は、場や集団が窮地に陥るかもしれない。
安定を得るために手つかずだったことで、今度は、安定が奪われるわけです。
また、別の方向――つまり、内側――でも、こういうことが生じる。
確かに、場の安定を獲得するために、「何らかのそれ」が手つかずだったのは、しょうがない。
でも、それは頭の理屈であって、心のほうはどうだろう? ということになる。
頭がしょうがないと思う背後で、心は何かを欲しているのかもしれない。実は今までも、そういう信号を送り続けていて、それを頭がことあるごとに抑えつけてきたので、そういう経路が確立し、今や、反射的にゴミ箱に捨てられているのかもしれない。
また、それとは別に、心の補償作用や天のセッティングみたいなものが、手つかずだったもの、生きていない部分、それらと対面させようとする面もあるでしょう。
後者でいえば、そうしないと危ないわけです。欠けたものを補う必要がある。そのままでは危ないよ、ということ。
そういうものが、実は人間の中にもあるし、外の世界にもあったりする。
☆
さあ、安定した。それは嬉しいし、素晴らしい。助かった。
でも、それで終わりではない。
次は、今まで手つかずだったものとの対面が待っている。
今まで背を向けてきたものに、目を向けていかねばならなくなる。
今まで生きてないものを生きる。
そういう仕事に取り組むことになるようです。
次の仕事、今までの卒業、
そういうものが待っているようです…
(続きは「安定と破壊」に…)
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