表紙過去ログ
【2009年07月(1)】
◇「第24回 意識と無意識/コンプレックス」◇
(第1回〜第23回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
我々は思いがけないことに驚かされたり、悩まされたりすることがあります。普段スムーズにやれることが特定の状況ではやれなくなったり、意志に反した情動により振り回されたり、思考や動きが停滞したりもするでしょうか。
うまく話せなかったり、表情がコントロールできなかったり、何かとギクシャクしたり、こういうことは誰でもありそうですね。そして、その程度が激しくなると感じることもあるかもしれません。
前回、「主体性」について触れましたが、これは「自分の意志や判断によって、行動しようとする態度」。意識して決められていること。この時、人は自分の行動や態度を、意識で把握しています。自分のしていることが、意識の領域で捉えられている。
一方、主体性が脅かされている状態というのは、自分のしていることが十分に意識で捉えられていない状態のこと。意識していないのに、そうなってしまう。ということは、こういう時は、意識の外にある何かが関係していそうです。無意識の領域にある何かに影響されている状態だと仮定できる。
☆
<意識>とは、目の前の「それ」をつかまえるものです。目の前のリンゴを見て「リンゴだ」と認識したり、「わたしはパソコンで文字を打ち込んでいる」と自分で捉えたりする。ある意味では、「自分に説明できること」といえるでしょうか。
まあ、いちいちリンゴを見て「リンゴだ」と自分に語りかけることはないとは思いますが、後でそれをすることは可能ですよね。今、「インターネットで文章を読んでいる」と自分に説明する人はいないと思いますが、後でそれをすることは可能です。実際に言語化するかどうかは別にしても、言語化できるように捉えてはいる。
これは感覚的なものに対してもそうですね。それは「熱い」「冷たい」「やわらかい」「おいしい」など、言語化もできるし説明もできる。感情にしても、「心地好い」「不愉快だ」「楽しい」「腹が立つ」「好きだ」「嫌いだ」と言語化も説明もできる。そのように捉えられている。
意識する、意識されているとは、こういうことで、自我を中心としてまとまりを持って(自分がしたことや自分の身に起こったことが)自分自身に組み込まれている状態をいうのでしょう。
☆
ということは、意識の外、<無意識>とは、どういう状態なのでしょうか?
上の論でゆけば、「説明できないもの」、「言語化できないもの」、そうなるでしょうか。実際、不可解な現象というのは、説明もできないし、言語化もできないから、不可解なのです。
といっても、「したこと」や「生じたもの」については言語化できるかもしれません。ただ、その前には「なぜか」というのがついてくる。
なぜか緊張した、なぜかうまくいかなかった、なぜか腹が立った、なぜか惹かれた――このようになってしまう。
十分に意識されている時は、こういった不可解さはないのですが、意識外からの介入がある時、「なぜか」といったものがついてまわることになる。まとまりを持って自分自身に組み込まれているとは、言い難い状態になります。
☆
自分でしておきながら、あるいは、自分に生じていることなのに、説明のつかない現象が現われることがある。即ち、意識していない現象が表に現れてくる。
人間は思い通りに行動しているはずなのに、思い通りにならないものが生じる。これはいったい何なんでしょうか?
☆
ここで少し目線を変えてみましょうか。上では「説明できないことが生じる」という点に注目しましたが、そうではなくて「生じていることをうまく説明できない」と考えると、どうでしょう。
意識していることについては説明できます。当たり前すぎて説明に困る、というのはあるにしても、不可解な現象に悩むといったものとは違う。ということは、うまく意識できていないから説明できない。意識の外にあるから、説明できない。無意識からの影響を受けているから説明できない、となるでしょうか。
☆
無意識についての詳細は別の機会に譲るとして、ここで問題にするのは、人間というものは自分で経験しながらそれを意識しないことがある、無意識に留めることがある、ということ。
基本的に、人間は自分の経験したことを意識します。いちいち言語化や説明をしないにしても、あとで(ある程度)それをすることは可能です。そういう風に捉えることによって、経験したことを自分自身の体系の中に組み込んでゆきます。「わたしは――」と自分を語ることができる。
が、時に、それから外れる事象が現れることがあります。平易にいえば、忘れてしまう。後で言語化することも説明することもできない。
もちろん人間ですから、すべてを覚えておくわけにはいきません。それでは容量が足りなくなる。しかし、重要なことでありながら、忘れてしまう場合もあります。いや、ある意味では、重要であるからこそ、忘れてしまうと言った方がいいでしょうか。
忘れてしまうというか、言語化したり説明したり、そういう風に意識化することに障害が出てしまう。
☆
ということは、不可解な現象に悩まされるというのは、その奥に、言語化したり説明したり、意識化することを妨げる何かが潜んでいる、ということになります。
それが何かは分かりませんが、そういう性質のものが隠れている。
「学校に行けない」「会社に行けない」「人前に出れない」、こういうのは表に出る症状なのですが、その奥に、上記のような性質を持つものが隠されていることが予想されます。
☆
こういう症状に悩む人は、「何故だ? 何故なんだ?」と頭を抱えたくなると思うのですが、奥に隠れているものと表に現れている症状が必ずしも「=」(イコール)で結ばれているとは限らず、また、意識化を妨げるような性質を持つ以上、自分で奥にあるものを理解するというのは難しそうです。
が、これも考え方次第で、視点を変えれば、第三者なら分かる可能性がある、ともいえるでしょうか。
そしてまた、これは、本人であっても視点を変えれば分かってくる可能性もある、ということでもあるんでしょう。
表の症状にばかり注目すると奥には目が向かないのですが、「○○が怖い」ということと「まるで○○が怖いかのような」という違いに気づき、そこへの執着を薄めた上で見直してゆけば、何かが見えてくる可能性もあるかもしれません。
とはいえ、本人にしても、第三者にしても、症状にべったりくっついて、癒着したような状態になれば、見えるものも見えなくなる、と言えるのかもしれませんが…
(続きは「奥にあるもの/コンプレックス」に…)
ページトップへ↑
◇「第24回 意識と無意識/コンプレックス」◇
(第1回〜第23回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)
我々は思いがけないことに驚かされたり、悩まされたりすることがあります。普段スムーズにやれることが特定の状況ではやれなくなったり、意志に反した情動により振り回されたり、思考や動きが停滞したりもするでしょうか。
うまく話せなかったり、表情がコントロールできなかったり、何かとギクシャクしたり、こういうことは誰でもありそうですね。そして、その程度が激しくなると感じることもあるかもしれません。
前回、「主体性」について触れましたが、これは「自分の意志や判断によって、行動しようとする態度」。意識して決められていること。この時、人は自分の行動や態度を、意識で把握しています。自分のしていることが、意識の領域で捉えられている。
一方、主体性が脅かされている状態というのは、自分のしていることが十分に意識で捉えられていない状態のこと。意識していないのに、そうなってしまう。ということは、こういう時は、意識の外にある何かが関係していそうです。無意識の領域にある何かに影響されている状態だと仮定できる。
☆
<意識>とは、目の前の「それ」をつかまえるものです。目の前のリンゴを見て「リンゴだ」と認識したり、「わたしはパソコンで文字を打ち込んでいる」と自分で捉えたりする。ある意味では、「自分に説明できること」といえるでしょうか。
まあ、いちいちリンゴを見て「リンゴだ」と自分に語りかけることはないとは思いますが、後でそれをすることは可能ですよね。今、「インターネットで文章を読んでいる」と自分に説明する人はいないと思いますが、後でそれをすることは可能です。実際に言語化するかどうかは別にしても、言語化できるように捉えてはいる。
これは感覚的なものに対してもそうですね。それは「熱い」「冷たい」「やわらかい」「おいしい」など、言語化もできるし説明もできる。感情にしても、「心地好い」「不愉快だ」「楽しい」「腹が立つ」「好きだ」「嫌いだ」と言語化も説明もできる。そのように捉えられている。
意識する、意識されているとは、こういうことで、自我を中心としてまとまりを持って(自分がしたことや自分の身に起こったことが)自分自身に組み込まれている状態をいうのでしょう。
☆
ということは、意識の外、<無意識>とは、どういう状態なのでしょうか?
上の論でゆけば、「説明できないもの」、「言語化できないもの」、そうなるでしょうか。実際、不可解な現象というのは、説明もできないし、言語化もできないから、不可解なのです。
といっても、「したこと」や「生じたもの」については言語化できるかもしれません。ただ、その前には「なぜか」というのがついてくる。
なぜか緊張した、なぜかうまくいかなかった、なぜか腹が立った、なぜか惹かれた――このようになってしまう。
十分に意識されている時は、こういった不可解さはないのですが、意識外からの介入がある時、「なぜか」といったものがついてまわることになる。まとまりを持って自分自身に組み込まれているとは、言い難い状態になります。
☆
自分でしておきながら、あるいは、自分に生じていることなのに、説明のつかない現象が現われることがある。即ち、意識していない現象が表に現れてくる。
人間は思い通りに行動しているはずなのに、思い通りにならないものが生じる。これはいったい何なんでしょうか?
☆
ここで少し目線を変えてみましょうか。上では「説明できないことが生じる」という点に注目しましたが、そうではなくて「生じていることをうまく説明できない」と考えると、どうでしょう。
意識していることについては説明できます。当たり前すぎて説明に困る、というのはあるにしても、不可解な現象に悩むといったものとは違う。ということは、うまく意識できていないから説明できない。意識の外にあるから、説明できない。無意識からの影響を受けているから説明できない、となるでしょうか。
☆
無意識についての詳細は別の機会に譲るとして、ここで問題にするのは、人間というものは自分で経験しながらそれを意識しないことがある、無意識に留めることがある、ということ。
基本的に、人間は自分の経験したことを意識します。いちいち言語化や説明をしないにしても、あとで(ある程度)それをすることは可能です。そういう風に捉えることによって、経験したことを自分自身の体系の中に組み込んでゆきます。「わたしは――」と自分を語ることができる。
が、時に、それから外れる事象が現れることがあります。平易にいえば、忘れてしまう。後で言語化することも説明することもできない。
もちろん人間ですから、すべてを覚えておくわけにはいきません。それでは容量が足りなくなる。しかし、重要なことでありながら、忘れてしまう場合もあります。いや、ある意味では、重要であるからこそ、忘れてしまうと言った方がいいでしょうか。
忘れてしまうというか、言語化したり説明したり、そういう風に意識化することに障害が出てしまう。
☆
ということは、不可解な現象に悩まされるというのは、その奥に、言語化したり説明したり、意識化することを妨げる何かが潜んでいる、ということになります。
それが何かは分かりませんが、そういう性質のものが隠れている。
「学校に行けない」「会社に行けない」「人前に出れない」、こういうのは表に出る症状なのですが、その奥に、上記のような性質を持つものが隠されていることが予想されます。
☆
こういう症状に悩む人は、「何故だ? 何故なんだ?」と頭を抱えたくなると思うのですが、奥に隠れているものと表に現れている症状が必ずしも「=」(イコール)で結ばれているとは限らず、また、意識化を妨げるような性質を持つ以上、自分で奥にあるものを理解するというのは難しそうです。
が、これも考え方次第で、視点を変えれば、第三者なら分かる可能性がある、ともいえるでしょうか。
そしてまた、これは、本人であっても視点を変えれば分かってくる可能性もある、ということでもあるんでしょう。
表の症状にばかり注目すると奥には目が向かないのですが、「○○が怖い」ということと「まるで○○が怖いかのような」という違いに気づき、そこへの執着を薄めた上で見直してゆけば、何かが見えてくる可能性もあるかもしれません。
とはいえ、本人にしても、第三者にしても、症状にべったりくっついて、癒着したような状態になれば、見えるものも見えなくなる、と言えるのかもしれませんが…
(続きは「奥にあるもの/コンプレックス」に…)
ページトップへ↑