【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



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このページでは、表紙の過去ログ 09年06月分
シリーズ「コンプレックス」の第22回「はじめから決まっていること」を紹介をしています。

表紙過去ログ

【2009年06月(1)】


◇「第22回 はじめから決まっていること/コンプレックス」◇


(第1回〜第21回は表紙の過去ログの目次ページからどうそ)

はじめから決まっているものがある場合、更にそれが強い場合、あるいは硬い場合、コンプレックスは生じやすい――そんなことがいえるのかもしれませんね。



はじめから決まっていることがある。その場に生きる者は、それを持たねばならない。それに従わねばならない。あるいは、その枠の中にキッチリと納まらないといけない。

そういう前提があったとしましょう。

しかし、人間にはどうこうできる部分と、どうこうできない部分があります。修正可能な部分と、修正が不可能な部分がある。

「それを持たねばならない」、そういうものが決まっている時、人によってはそれを生まれながらに持っているかもしれませんが、別の人は、それを持って生まれてはいないかもしれない。

更に、持って生まれていない人の中でも、努力でそれを(ある程度)持つことが可能な人もいれば、努力云々ではどうにもならない人もいるでしょう。あるいは、努力でどうこうなるけれどそれによって随分歪められてしまう、そんな人もいるかもしれません。

「枠」を考えた場合でも、自然と枠の中で生きられる人、枠の中にいてもそんなに窮屈さを感じない人もいれば、どうしても枠からはみ出てしまう人もいるでしょう。その修正がある程度可能な人もいれば、そうでない人もいるかもしれません。



もうひとつ付け加えておくならば、上のような窮屈さを多くの人と共有できるタイプもあれば、その窮屈さが理解されるのに随分と苦労するタイプもあるようです。

「そうそうたいへんなのよ」と(割合容易に)手を取り合える人もいれば、その反対もあるのです。

また、相手との関係性もあるわけですから、いろんなケースが考えられます。

(例えば、多くの人から窮屈さのようなものを共感してもらえるのだけれども、特定の相手にはどうにも理解されないとか)



「生きる」ということを考えた時、はじめから決まっていることがあり、それが相当な硬さを持っている場合、それに適応できない人は、相当な苦労を背負い込みそうです。

ちょっと想像してみてください。ある硬い枠組みが決まっていて、されども、その人はその枠組みを越えて存在している。そこにその硬い枠を押し付ければ、枠からはみ出す部分は血だらけになってしまいますよね。

ちょっと動いたりずらしたりすることで枠の中に納まればいいのですが、そういうことが根本的に無理な場合は、はみ出した部分を切断され、悲鳴を上げることになるかもしれません。


そんな人たちのうち、それを意識化できないまま生きている人は、やがて、無意識の中にカタマリを形成してしまうかもしれない。見えない領域でそれがどんどん大きくなって、やがて負担や不安を感じたり、にっちもさっちもいかなくなったり、あるいは、人と人の間で、いろんな問題が生じてしまうってことも、あるかもしれません。

適応するために切り離した、元々自分の一部だったものが、やがて無意識の領域で、声を上げだすかもしれません。



で、毎度毎度のことですが、その「決まっていること」についての正当性やなんやについて、案外、忘れられていることが多いですね。

何せ、「決まっていること」ですから、検証されなかったりするんです。

あるいは、一方の当事者は反発するかもしれません。「決まっていること」に対して、異を唱えるかもしれません。しかし、もう一方の当事者は、「決まっていることだから」と、それを曲げはしないかもしれません。曲げないのはいいとしても、検証すらしない。それが決まっている理由や意味を問いはしなかったりする。

でも、よくよく考えてみると、「決まっていることだから」という理屈は、いつでもどこでも通用するのかどうか、それは分かりません。

いや、通用することもあるとは思います。例えば、公的なルールの場合は、基本的には決まったことは守らねばならないでしょう。個人の都合で、それは簡単には捻じ曲げられないものです。(←また、こういうのも、すべてではないですけどね)

でも、ルールには、実は、それが適用される場や時というものがあって、そこから外れれば適用されないんですよね。例えば、公的な場と私的な場とでは、適応されるルールは違います。いや、もちろん、どちらにも適用されるルールもありますが、基本的には違いますよね。だって、「公的な空間」と「私的な空間」では、場が違いますから。

逆に、公的な空間でのルールを私的な空間にまで適用すれば、そりゃ息苦しくなるかもしれません。また、私的な空間のルールを公的な空間に適用すれば、ある人にとっては、非常に迷惑なことになるかもしれません。まあ、それも場合場合ですけどね。



で、何が言いたいのかというと、その「決まっていること」というのは、どういう場において決まっているのか? どういう時において決まっているのか? それを忘れるとヘンテコになるんではないかと。

そもそも、なんで(何故)決まっているのか? というのも、あるかもしれないし。


「生きる」ということを考えた場合、そこには人がいるわけだし、感情もあるわけですよね。しかも個性はひとり一人違うし、感情もそうでしょ。

その、ひとり一人違う人に対して、「決まっていること」は適用されるべきものかどうか、もう一度考えねばならない場合も、ひょっとしたらあるのかもしれません。

守れとか、壊せとか、そういうことではなくて、その前に、せめて考え直さないといけないのかもしれませんね。

それに、それが決まった時とは、時代背景や場の状況、その他もろもろのものが変化しているのかもしれないし。


その「はじめから決まっていること」というのは、本当に順守せねばならないのかどうか。

順守するにしても、いつでも、どこでも、誰にでも、なのかどうか。

ひとりの生きた人間を、切り刻んでもいいのかどうか。

そういうことを考えねばならないのかもしれません。



「基本的な姿勢」はあるものの、「例外」は赦されないのかどうか。

「決める」ことによって出る、「犠牲」については、どうなるのか。

「時」は? 「場」は? 「時代」は? 「環境」は? いつも同じなの?


そういうややこしいことも含めて考えていかねばならないのかもしれません。



何せ、生きている人間というものがかかっているわけですからね。

オーバーな言い方になるかもしれませんが、生きている人間の、人生がかかっているから。

命だって、かかっているかもしれない。


それも、おそらくは、関係のある人のそれがかかっているわけでしょ。


そりゃ、大仕事にも、なりますわな。



今回、コンプレックスそのものとはちょっと話がズレたかもしれませんが、こういう布置にあると、人間は見えない領域にカタマリを作りやすい。つまり、コンプレックスを抱えやすいのだと思います。

で、それに対処するには、こういうことも考えねばならないのだと、思えるのです。

あるいは逆に考えると、コンプレックスより生ずる問題に接することで、こういうことも見えてくるんでしょう。



ということで、コンプレックスの問題と付き合うというのは、はじめから決まっているものを打ち破る、あるいは、打ち破らないにしてもしっかり考える、考え直す、そういう面もあるのかもしれませんね。

しかも、人と人との関係の上で…





ああ、一応付け加えておくと、「はじめから決まっていること」や「硬い枠組み」が、必ず悪であるというわけではありませんよ。必ず壊すべきだというのでもありません。

何にせよ、よく見てみないと分からないし、結局は、生きている人間の問題だということです。

いろんな意味で…



更に、つまらない蛇足を付け加えておくと、

「決まっていることを壊す」ということがはじめから決まっていて、それが相当な硬さを持って人を切り刻んでいるような場合も、確かに存在するようですよ。

人間、方向だけ反対を向いて同じようなことをしてしまうということは、よくありそうです…









(続きは[09年06月-2の過去ログ]に…)





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