【城太郎日記】ユング心理学・カウンセリング



城太郎日記へようこそ♪
ここでは、「防衛機制」について紹介しています。
このページは、「ベクトル」について。

防衛機制―守護者と壁の役割―

『ベクトル』




□その一□

度々書いてきたように、抑圧されたものは無意識下で蓄積されます。
それは無くなったわけではなく、自我に意識されないだけで、無意識の領域で生き続ける。

そして、こういうことが繰り返されると、無意識下で肥大化したものが、意識にまで影響を与えるようになることも。





今まで防衛機制を駆使して回避してきたようなもの、残された宿題・課題・問題、そういったものが積もりに積もって、にっちもさっちもいかなくなってくる。

無意識下のもやもやが大きくなって、ついには自我にまで影響を与えるようになるんですね。

見えない押入れ(無意識)に押し込んでいたものが、いっぱいになって、はみ出てたり、崩れてきたりする、そんなイメージでしょうか。

(一時しのぎ的に押入れに放り込むんですが、それも続くと、立ち行けなくなってしまいます)



そしてやがて、バランスが崩れ、無意識下の力が大きくなってしまったような場合、そのベクトルは、他の方に向いていくと仮定できます。

それを全部受けきれないので、別の方向に受け流すカタチになる。
(本当は受け止めるべきなんですが、それをやると壊れそうなので、別の方向に流すわけですね)





余ったエネルギーが、別の方向に流れちゃうわけです。
(人間の生まれ持った機能によって、自分にぶつかってくるエネルギーを、別の方に流しちゃうことになるんですね。もちろん、無意識に)

そして、その逃がされた力は、時に、別の相手に向けられたり(投影)、他のものに熱中することに使われたり(補償)、何か代役を立てたり(置き換え)と、そういう風に処理されるかもしれません。

あるいは、その力に乗っかるカタチでストレスを避けようとしたり(同一視)、その力と徹底的に反発しようとしたり(反動形成)、そうする場合もあるかもしれません。

ともかく、そういう風に、大きな力を処理しようとするわけですね。
自分に向かってくる、今受け取るにはあまりにも大きい力に、そうやって対処しようとする。
(そう仮定できます)



□その二□

図2に示したように、抑圧し、無意識下に溜め込んだものの力(無意識の力)と、更にそれを抑圧しようとする力(自我の力)、その均衡が崩れた時、その力は本来とは別の方向に向けられることになります。
(そうなりがちです)





理想としては、それを受けきれればいいのですが、まあ、それを受け切れないから抑圧しているわけで、そんな中、自我を(心の安定を)何としてでも守るために、防衛機制を駆使して、直撃を避けようとしているわけです。

直撃を受けての大破を回避するために、ある時は、撤退し、ある時は、力を受け流します。

ともかく、正面衝突を避けるわけです。



で、こういうものは、良い悪いの問題ではなくて、ともかく人間というものは、こういう風にできているわけですね。

良い悪い関係無しに、自身を守るために、そういうメカニズムが、生まれながらに組み込まれているわけです。
これはもう、どうにもできない部分でもあります。
(無いことにはできない代物です。なにせ、人間の機能の一部ですからね)



で、その受け止められなかった力はどこへ行くのかというと、正面から向かい合えないわけですから、他の方向に向かうことになります。

他の人に向けられる場合もあるし、自分の中の他の問題に使われる場合もあるでしょう。
今まで書いてきたような防衛機制を使って、何とか処理しようとされるわけです。



しかし、それは本来の姿・自然な姿ではありません。

こういうのは、むしろ、本題と向かい合うのを避けるためのメカニズムです。
そこにあるものを避けるものです。

そうやって、身を守るための処方でもあります。

悪く言えば、「一時しのぎ」、もう少し好意的にとれば、「猶予期間」です。
受けきれるようになるまでの、仮のカタチです。



言うまでもなく、本来の姿は、それと向かい合う状態。

そこに衝突や対決が生じ、いろいろな動きがあった後に、まとまったり、納まったり、統合されていくわけですが、あまりにもその破壊性が強い場合、統合云々の前に、パンクしてしまいますから、それと対決できるようになるまで、受け止められるようになるまで、その力と正面から向かい合わないようにし、待つことになる。

その時を、じっとじっと、待つことになります。

つまり、今まで述べてきたような防衛機制は、真の対決、その後の統合の、前段階なわけですね。
人間的に成熟するまでの、前段階なわけです。

なので、「それを無かったことにする」ものではなく、「それを受け止められるようになるのを待つ」メカニズムです。
成熟できるその日を待つための、メカニズム。



ですから、投影や抑圧、合理化などの防衛機制にもちゃんと意味があるわけで、ある程度成長できるまでの、守護者の役割でもあります。(生まれながらに備わった、己を守護するための機能)

ただ、ここで問題となるのが、受けきれなかった力はなくなったわけではない、ということです。

それは確かに存在し、どこかに向けられている。



□その三□

で、受けきれなかった力がどこに向かうかというと、例えば、受け流すようなカタチになった場合、図3のように、その力は身近な誰かに向かうことになります。





あるいは、まったく逃げてしまったような場合、本来その背後で守られているはずの者に、力が向かう場合もあるでしょうか。





また、本来対決すべき力と同化し、より弱いものに力を向けるような場合もあるかもしれません。
(悲しいですが)







このように考えると、やはり本来引き受けるべき人が引き受けないと、別のところで不幸が起こってしまうのが分かります。

家族内で、学校で、会社で、社会で、何らかの集まりで、本来引き受けるべき人がその役割を果たさない時、その力は別のところに集中しがちです。

そして、多くの場合、それは弱いものに集中してしまったり、理不尽なものから逃げない人、無視できない人、引き受けてしまう人、やさしい人、などに集まってしまう。

そうやって、上記の図のような、悲しい布置ができてしまうわけです。



□その四□

そう考えると、やはり受け容れるべきものが受け容れないことには、物事が収まらないような気がします。

相手との関係の中でも、自分自身の中でも、引き受けるべきものは、引き受けるべき時には、引き受けた方がよさそうです。
(やたら、「引き受ける」を連呼してしまっていますが(失笑 )



但し、物事を引き受けるということには、当然、痛みも伴なうわけで、防衛機制というメカニズムは、その痛みを何とか回避しようというものです。

まあ、痛むのはいいんですが、それで壊れると困るわけです。
(やり直しがきかないくらいだと、困る)

人間には、そういう己を守護する機能が生まれながらに備わっているわけですね。

但し、ここでジレンマが生じてしまいます。


それを受け容れるのには痛みが生じる(時には、破壊的にさえなる)。
しかし、それを受け容れないことには、別のところに歪みが生じる。

この二つの間で、揺れ動くわけです。

(あるいは、変わりたい、でも変ることには痛みが生じる)
(伝えたい、でも伝えることで誰かを傷つける)
(知りたい、でも知ることで痛みが生じる)

(こういうものの間を、時には意識的に、時には無意識的に、揺れ動くわけです)
(もう、ギリギリになったりしながら)



で、防衛機制というのは、受け容れるには大きすぎたり強すぎたりする目の前の現実を、意識しないようにしようとする――ということは、意識の世界から現実の関係や布置を消してしまおうという――(無意識の)試みなんですが、それはあくまで「当人の意識の世界から消えた」のであって、実際に目の前の現実や全体の布置が消え去ったわけではありません。

それは確かにそこにあって、生きているんです。

ですから、それらに触れようとするたび、再びジレンマに苦しめられたりします。

ある意味、そういうギリギリのやり取りになってしまいます。



何でも受け容れられるほど、人間は強くなく、
何かを受け容れないことには、進めない(収まらない)面もあり、

引き受ければ、それなりの痛みはあるし、
引き受けなければ、その痛みは別のところに行ってしまいがちだし、
(無くなったわけではありませんから)

――そうなると揺れ動いて当然ですよね。

簡単に答えなんて出ないと思います。


で、そういう中で、

そういうものをすべて鑑みて、
そういう全体の布置を見た上で、

さて、どうするか?

――そうなります。

(なかなかどうして厳しいですが…)

(また、決まった答えなんかあるはずもないですしね)



あちらを立てればこちらは立たず、あっちも大事、こっちも大事、あっちも、こっちも、そういう中で、道を見出さねばならなくなるわけです。



□その五□

今まで書いてきたように、受け容れるべき人が受け容れないと、その対決すべき力は、別の人の方にいってしまいがちです。
しかも、その行き先は、身近な弱い立場の人だったりしがちです。

そういう布置に気づいてくると、ジレンマも生じるでしょう。

・そういうものと対面しようとすると、痛みが生じる、
・しかし、それをあまりに避け続けると、その痛みは別のところにいってしまう、
(何より、何も変わらない)

防衛機制とは、前者のようなことを避けるメカニズムです。
あまりにその痛みが大きすぎて、それが自身に破壊的に働くのを防ぐシステム。

しかし、それは同時に、力を別の方向に歪めるメカニズムでもあります。
(その人の中で、あったことをなかったことにしようとするメカニズムでもあります)

で、自分が避け続けようとも、その力をどこかへ逸らそうとも、本来対決すべき力はなくなったりはしませんから、その力は、別の誰かに向かうことになります。

なので当然、そういう布置に気づき始めた時、心は揺れます。



ここで対決が生じます。





たくさんの小さな対決が、大きな対決を形成し、
その中で、感情の動きもあり、

時には、感情の爆発もあり、
疲弊したりもし、

受け容れるものは受け容れ、
跳ね除けるもの跳ね除け、

時に押したり、
時に引いたり、

受け容れたり、退けたり、
同化したり、反発したり、

進んだり、退行したり、
逃げ出したり、戻ったり、

そうしながら、本来収まるべきところに、収まっていくんでしょう。

そうやって、統合されていくんだと思います。

(もちろん、これは、並大抵のことではありませんが)



対決である以上、当然、痛みもあるでしょう。

時に、破壊的になるかもしれません。

しかし、我々が生まれながらに持っている、防衛機制というメカニズムが、はじめ我々を守ってくれて、そして、我々に対決の準備ができた時には、何かを気づかせようとするんでしょう。

(まあ、防衛機制に人格も意図もないですが、そういう風な関係が出来上がるんでしょうね。結果的に)

こういう風にして、対決の時が訪れるのだと思います。



□その六□

その時その時、その場面場面、あるいは、それぞれの立ち位置で、「そのもの」が持つ意味は変わってきます。


初めいいものが、後に悪く働いたり、
はじめ悪いものが、後によく働いたり、

そのものは不変でも、そのものの働きは、流動的になったりする。
(長いスパン、広い視野で見た場合、ですね)

本質は不変でも、その本質が生み出す効果は、その時代、その場面などによって、変わるわけです。


そういう中で、全体の布置を鑑み、「今、その時」に最善を尽くす。
「今、その時」にこその答えを自ら導き出す。
(あるいは、それを待つ)

――そういう事が大切なのかもしれませんね。



今の世の中、

守るべきものが守らない、

引き受けるべきものが引き受けない、

戦うべきものが戦わない、

本来泣くべきものが泣かない、

壁になるべきものが壁にならない、

頼るべきものが頼りにならない、

――そういう不幸が多いのかもしれません。

(溜まりに溜まったものが噴き出す時期・時代なんでしょうか)


だからこそ、

守れるように、

引き受けられるように、

戦えるように、

誰かを泣かさないように、

壁になれるように、

頼れるように、

――成長せねばならんのでしょう。

壁を突破し、本来の「それ」にならねばならない。



でも、だからといって、自分の前の先人たちがまったく悪いかというと、そうでもないようです。

その人もおそらく、その前の先人に同じことをされたんでしょう。
(というのは、同じように――上記のようなことを――してもらってないのでしょう。守られてない、引き受けてもらってない、etc…)

悩んでいる人は、多くの場合、その連鎖の中で生きているんだと思います。



相手との関係の中にしろ、自分自身の中にしろ――というのは、自我と無意識の関係にしろ――抑圧しているものを発散するということは、発散する先、受け止める先が必要になるということです。

今まで、誰も受け止め先がないままで(そういう連鎖の中で)、これから(最初の)受け止め先・受け止める役割になる人は、負担も大きいし、やるせないし、たまらない部分も多いかと思います。が、それでもやらねばならない場合もあります。

痛みもあります、
辛さもあります、
危険もあります、

しかし、避けては通れぬ、道なのかもしれません。
通らなにゃ進めぬ、道なのかもしれない。
越さにゃ辿りつけない、坂や峠なのかもしれません。

まあ、通れない時には、通らないでいいんでしょう。
無理な時に進むこともないでしょう。

でも、いつか、準備ができた時には、進むものなのだと思います。

「いつか、その時」に、ですね。


その先にあるものが「希望」です。
(あるいは、「未来」?)



防衛機制は人間が生まれながらに持つメカニズムです。
したがって、それを初めから無しにはできないし、誰もが経験するものでもある。

そして、我々を守ってくれる、大切な機能でもあります。

しかし、同時に、我々はそれを卒業しなければならない宿命を背負っている。

人間として成熟しようとするなら、それとの対決を避けられません。


そういうわけで、このようなメカニズムに守られながら、いつか我々個々人は、それを卒業しなければならないのです。

他人事としてではなく、「我がこと」として、自分と勝負しなければなりません。


こういう大変なものは避けたいと思うのが人情ですが、防衛機制が生得的なメカニズムである以上、それとの対決は、もう、宿命ですね。

真の大人になるための、「通過儀礼」なんでしょう。





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